ソニーロリンズはボクの永遠のアイドルだ。正真正銘の「Jazz Giant」に向かって失礼な言い方かもしれないけど、ハイティーンの頃ソニーのサックスサウンドを聴くと本当に背筋がゾクゾクしたものだ。受験勉強が重くのしかかっていた高校時代、ソニーのレコードに針を落とす時、かけがえのない喜びを感じていた。その頃はロリンズの数枚のレコードを聴いていたけどやはり一番よく聴いたのはこの「St.Thomas」の収録された代表作「Saxophone Colossus」だ。当時はこのアルバムがこんな歴史に残る名盤だなんて全く知らなかった。ただ好きで繰り返し聴いていた。「St.Thomas」がカリプソリズムを使った曲でロリンズのオリジナル曲であること、彼がカリビアンの血をひいていることなど、日本語のライナーノーツに書いてあった。ソニーロリンズはもちろんとびきりの才能の持ち主でハイティーンの頃から注目され、優れた先輩ミュージシャンに囲まれて恵まれた環境でキャリアを積んだ。すでにこのアルバムの前にバドパウエルやマイルスのアルバムに参加し、評価を得ていた。でも自分に厳しい人なんだろう、すばらく雲隠れし隠遁生活をしていたが、ハロルドランドの穴を埋めるという形でマックスローチのバンドでギグをした時にクリフォードブラウンに出会いそれをキッカケに再起した。ブラウンから何を感じたのかは天才ソニーロリンズにしか分からない。でもとにかくソニーロリンズがジャズシーンに戻ってきたのだ。意欲を持って、そして以前より成熟して・・・。このアルバムの録音はグッドタイミングだったといえるだろう。そしてサイドメンはドラムが重鎮マックスローチ、ピアノが最高のセンスを持ったトミーフラナガン、ベースは当時もっとも優れていると言われていた若手ダグワトキンスだ。いろんないい条件が重なってこの名盤に繋がったんだろう。録音当日の雰囲気はアルバムを聞きながら想像するしかない。でも当時のジャズミュージシャン、特にこういうエリートたちは同じ方向性を持った音楽家同志ということでとても仲が良かったらしい。だいぶ前のことだけどトミーフラナガンさんがコンサートで来日しオフの日にジャズミュージシャンの写真展にフラっと現れた時、ボクが話しかけていると、横にロリンズの写真を見つけたフラナガンさんは「Oh!Sonny」と叫んでいた。その表情からは本当の親愛の気持ちが感じられた。アルバムを通してモダンジャズのパワーとジャズミュージシャンの誇りが伝わってくる。曲の内容はまた次回から・・・。
この曲はフラットやシャープの付けようがない。つまり調性が何かはっきりしないのだ。メロディーを探ってみてもかろうじてサビの部分にE♭のブルージーな節回しがあるだけで、他の部分はまさに半音階的な構造で、基音が全くはっきりしない。これは音楽全体から言ったら決して珍しいことではないけど、インプロヴィゼーションをやる時に何かに頼って自分の「歌」を引き出そうとしてもその頼る音がない。いくらコードがあってそれに合うスケールらしきものが見つかっても実際に演奏をやってみるとなかなか自分の歌うアドリブのメロディーに確信が持てない。即興演奏をより自由に、という発想は誰でも持っていてその方法の基盤を音楽構造に求めてきた。モンクがこの曲を録音した頃、ジャズミュージシャンたちはまさにその問題に挑戦していた頃でモンクは自由なインプロヴィゼーションに耐え得るオリジナル曲を数多く生み出した。でも、その中でもこの曲は特殊と言える。クッキングが本当に大変だ。にもかかわらずモンクのピアノプレイはこの曲を完全に自分の「歌」として明確な方向性を打ち出している。自分の曲なんだから当然だといえばそれまでだけど、セロニアスモンクの存在はあまりにも大きい。この曲を自分のレパートリーとして自分の解釈で音楽にするのは大変だ。今まで数人だけどこの曲に挑戦しているミュージシャンを知っている。まあなんでも挑戦するのはいいことだ。とにかく演奏というのはどんな結果に終わろうと演れば何かが得られる。演らなければ何も起きない。この独特の良さ難しさを持った曲にギリギリの状態で臨み自分のインプロヴィゼーションの限界を確かめてみる、結果は気にしない。いいでしょう、やってみましょう。うううん・・・でもこの曲はそのギリギリを超えているような気もする。
ジャズインプロヴィゼーションをやるには先の状況をだいたい予想しながら音を出す勇気が必要だ。まあこれが音楽的な直感力ともいえるけど、そんな高尚なものではなくて第六感というか、だいたいこうなるだろうという予想のもとに思い切って音を出すということだ。そして最終的には音を出さない勇気も必要になってくる。音楽にスペースを作る、休符をちゃんとした意志を持って設定するためだ。要するにあまり結果を考えないことが重要なんだ。目の前の一拍、それが今演っている音楽の全てだ。それに勇気を持って立ち向かう。そのガッツがないと即興演奏で自分を解放し聴衆を納得させることなんかできない。得体の知れないイメージに振り回されたらただただ口ごもるだけになる。音楽をああやろうこうやろうというイメージなんて、ほとんどは自分自身に対するないものねだりだ。それもどこかでちょっと聴き覚えたものがヒントになっているケースが多い。そんなものが実現したってそれはその人自身とはいえない。音楽は常に時間に追っかけまわされる。実生活と同じだ。カッコウをつけてる間は本当にない。いくら耳が良くて音が認識でき、音楽が理解できても人を聞いてからでは遅いんだ。だからこんなもんだろうという予想のもとにだいたいで音を出す。乱暴な言い方に聞こえるかもしれないけど、そうやって出てきた音が実はその人の「音」なんだ。その音を出す瞬間、実はその人の究極の才能を使って音を選びタイミングを計っているものだ。自分をさらけ出すというのは最初は恥ずかしい。音楽家はプライドが高い。自分の思い描いている音楽はこうじゃないんだ、実は自分はもっとうまいんだ。そういう思いが常にある。でもキャリアを積みインプロヴィゼーションの本当の意味が分かってくると、本当の自分自身と向かい合うことが喜びになってくる。そしてそれが自分の音楽だと納得できるようになる。その時初めてその人の音楽が説得力を持って他人にアピールできるようになる。セロニアスモンクのように・・・。
ジャズミュージシャンは演奏するための曲を判断する時、自分がインプロヴィゼーションするための都合をすぐ考えてしまう。長年の習性でしょうがない。もちろん心に響くいい曲というのは音楽のジャンルを超えていっぱいある。でもジャズの演奏はとにかくその曲が即興演奏の素材として適しているかどうかということが大問題なのだ。ジャズというのはインプロヴィゼーションの良し悪しでかなり評価されてしまうというのが頭から離れない。そしてそのクッキングの仕方をずっと勉強してきたわけだ。じゃあそのインプロヴィゼーションに適しているかどうかの判断はどうするか?これが一筋縄ではいかない。この判断力がジャズの才能の大きな部分といってもいいと思う。モンクのオリジナルは世界中のミュージシャンに広く知られ即興演奏の素材として優れていると認められている曲がいっぱいある。セロニアスモンクは歴史に残るジャズ作曲家なのだ。この「Epistrophy」はどうだろう?実はこの曲はモンクの名演奏で知られてはいるけど、インプロヴィゼーションの素材としてどうか?と言われると答えるのが非常に難しい。レコーディングの時、コールマンホーキンズとコルトレーンがこの曲は演奏が困難だとモンクにいわゆる「泣き」を入れたといわれている。この二人が頭を抱えるぐらいだから、やはり「超」のつく難しさなんだ。ボクがうまくできないからと言って気にするほどのことでもない。でも実際の演奏はモンクのピアノからインスピレーションを得、この曲と格闘してホーキンズもコルトレーンも素晴らしい演奏をしている。このレベルのジャズミュージシャンの感性と即興演奏の腕は驚嘆に値する。即興演奏というのはこの「ギリギリ感」がいいんだ。自分にとって楽な曲、余裕を持ってやれる曲がいい演奏を生むとは限らない。むしろその逆の時のほうが多い。それが「ジャズ」だ。
この曲を初めて聞いたのはもう40年も前「Monk's Music」というアルバムに収録されていたテイクで、多分これがこの曲の最初の録音ではないかと思う。まあ変わった曲だ。でも音楽構造についての知識がほとんどなかったボクにはただ強烈なインパクトだけが残った。曲の内容やこの録音の裏話みたいなのを知ったのはずーっと後だ。何度か聞いているうちにこれはどんなコードだろうと分からないなりに探ってみた。とにかく7thのコードが半音で上がったり下がったりしている。でもベースラインを聞き取ってみるとコードが全然分からない。ベースはウィルバーウェアだ。今聴くとかなりいいかげんに弾いている。ちゃんと理解してない感じだ。はてなマークが脳みそに残ったまま何年かが過ぎ、いろんな知識とともにこの曲のことがちょっとずつ分かりはじめた。でも演奏していたわけではない。演奏をいっぱいやっていれば体で分かってくる部分もあったかも知れない。でもこの曲は特殊で自分からやろうとも言えなかったし、やらされることもなかった。曲のメロディー、コードは知っている。やれと言われたら今はまあまあこなせるかも知れない。でもそれだけだと思う。今この曲について思うことはこの半音階的な特異なメロディーとコードがモンクの「歌」として強烈に聞こえてしまう不思議さ、この曲をインプロヴァイズする時の難しさ、そしてその難しい曲を完全な自分の歌として「Cooking」してしまうモンクのジャズミュージシャンとしての偉大さだ。