プレヴィンのようにいわゆる「二足のわらじ」を履いて成功した人はホント少ない。クラシックとジャズは本当は同じ人類の歴史の線上にあってそれぞれ社会のいろんな状況の中で生まれた、同じ「音楽」という芸術なんだ。でもクラシック音楽はなんせ作曲家の地位が偉大すぎてそのプレッシャーから演奏者は完璧な演奏を望みすぎる傾向がある。ベートーヴェンは5番のシンフォニーを16回も書き直したとか、ドビュッシーは休符を4分音符にするか8分音符にするか決めるのに4週間もかけたとか・・。こういう話は作品にハクをつける意味では面白いしクラシックファンはこういうのが好きだ。でもこんなのを真に受けると演奏がリラックスしない。クラシックのプレイヤーは作曲家の意図を理解してそれに自分の個性を加えた完璧な演奏を意識する。でも即興演奏となるとそうはいかない。なにが完璧なのかわからないからだ。でもその先をよく考えてみるとある疑問が湧いてくる。完璧な音楽なんて果たして存在するんだろうか?という疑問だ。完璧なベートーヴェンといったってそれは単に何百年の間にベートーヴェン以外の人間が作り上げた自分たちに都合のいい虚像なんじゃないだろうか?まあでもこんなことを言ったってボクは優れたクラシックのミュージシャンを尊敬している。自分を追い込んで音楽を磨いていくというのは確かに人間として素晴らしいことであるし一種の快感もある。ちょっと自虐的ではあるけど・・・。ジャズももちろん自分との闘いだ。安易な妥協は許されない。でもジャズはそういう面のほかに音楽も人生も完璧なものはないし、物事にはいろんな見方があるんだということを教えてくれる。寛容の精神だ。プレヴィンが成功したのはこういう音楽の奥にあるいろんな考えかたを理解できたからなんだ。
30数年前ボクがアンドレプレヴィンの名前を知った頃、彼はすでにクラシック界でも有名な指揮者だった。彼のリーダーのジャズアルバムも聞いた。一流の腕だと思った。クラシックの英才教育を受けた人でジャズもできる人なんだと認識した。でもずっと気になっていた。まあこれだけの才能を持った人も世の中にはいるだろうけど、それにしてもピアノが「良すぎる」。その後歌手のドリスデイやダイナショアとのアルバムも聴いた。歌の伴奏も「うますぎる」。これはクラシック指向の人が片手間にマスターした腕じゃない。明らかに「喰う」ために必死でやったピアノだ。そうなんだ。彼はそんなに「柔」ではないんだ。十代の半ばにアメリカに移民としてやって来たユダヤ系の人なんだ。ジャズのピアノを弾くこととクラシックの交響楽団を指揮すること、これはまあ根っこは同じだ。分からないではない。ジャズピアニストに交響曲を指揮させたら結構やると思うし、クラシックの指揮者にジャズのテクニックを身につけさせたらピアノをある程度は弾けると思う。でもそれを実践して両方で一流になるというのは並じゃない。まあすごいガッツのある人だ。こういうレベルの才能の人は受けた教育は関係ない。最初から音楽の仕組みの全体像が見渡せるんだ。歌の伴奏のときのアレンジも一味違う。リハーモナイズの発想もユニークだ。十年ぐらい前、アメリカのテレビ番組で指揮もし、出演したジャズ歌手の伴奏もしていたけど、完全に現役のピアニストの音だった。彼はジャズ界だけじゃない、世界の音楽界の巨人だ。
今やクラシック界の大指揮者アンドレプレヴィンのジャズピアニスト時代のリーダーアルバムだ。音楽の内容やプレヴィンのことはちょっと後にして、今日はこのアルバムのベーシスト、レッドミッチェルのことを・・・。彼のことは確か最初ハンプトンホースのアルバムで知ったと思う。50年代の後半から60年にかけてニューヨークでやってたようだ。いろんなアルバムに参加してたから注目された存在だったんだろう。その後いなくなったらしいけど、それも知らなかった。彼はいろんな所を旅するのが好きで神出鬼没の人らしいのだ。ボクが鈴木勲さんのバンドにいた頃鈴木さんが彼の大ファンで家には彼の参加したアルバムがいっぱいあることを知った。他のベーシストに聞いてもやはり彼の評判はすごかった。プロに受ける人なんだ。その時、彼は今5度チューニングでベースを弾いていることを知った。5度チューニングということはチェロのそっくりオクターブ下ということだ。それにどんな意味があるのか全然分からなかった。'79年だったと思うけど彼は日本にやって来た。おおがかりなツアーではなかったけど、結構仕事していた。鈴木勲さんとレコーディングもしていた。ある夜ボクが六本木のクラブで仕事していたら、目の前にレッドミッチェルが現れた。その時一緒にやってたドラムのドナルドベイリーさんに会いに来たのだ。もう最後のセットだったから終わって紹介してもらった。ベイリーさんとはほんとに昔の仲間という感じで小声で話していた。ずっと横で聞いてたけど、内容はほとんど分からなかった。しばらくしてどうして5度チューニングにしたのか尋ねてみたら、ピアノの前までボクを連れていって、鍵盤の一番左のCの音を弾いて、「5度にしたらこの音まで出るんだ。」と言っていた。要するに音域を広めたかったらしい。でも4度から5度に変えて、慣れるのが大変だったでしょう、といったら「Ten Years,Ten Years」と言っていた。一流の腕になるまでやった人がそれを捨てて誰もやってないことを十年もかけてやるなんて、すごい勇気のある人だなあと思った。後日彼が演奏している所へベイリーさんと一緒に聴きにいった。一流の音色とビートそして普段見たことのない5度チューニングのベースの弾き方を見ていると彼がプロのベーシストのカリスマだということがよく分かった。
個人的にはよく知らないレッドガーランドのことをこんな話題にひっぱりだすのはちょっと申し訳ないけど、ミュージシャンどうしの付き合いについて・・。ガーランドのピアノの腕はマイルスも買っていたし、ほんとにいいピアノを弾く。これは間違いない。ジャンキーで扱いにくかったけどそのピアノに免じて一緒に仕事をしていたわけだ。でも音楽的に不都合になって来て、お互いに離れていった。結局音楽家どうしはどうしてもお互いの音楽が最重要の問題になる。どんなにいい奴でもやはり腕が悪いとやってられなくなる。反対に腕のいい奴は自分でも、ちゃんとそれを分かっているから、どうしてもエゴが強くなる。当然衝突が起きる。本気でケンカする。まあ殴り合いというわけではないけど・・・。もう顔を見るのもいやになる。でも一旦一緒にステージに上がってやりだすとその力を認めざるを得ない。くやしいけど音楽がうまくいくんだ。プレイしてる姿が美しく見える。それでステージを降りるとまたムカッとする。口もきかなくなる。周りの人は仲が悪いんだと思う。どうして一緒にやってるんだろう?もう「愛と憎しみ」の世界だ。でも後になって考えてみるとそれだけ真剣にのめり込んで音楽をやっていたということだ。うわべを取り繕ってもいい音は出ない。お互いに感性の奥底でコミュニケートしないと、本当には通じあわない。その人を憎むところまで付き合わないと人間同士は付き合ったことにはならないんだ。
レッドガーランドの普段の行状については、他のミュージシャンの言う事を信じるしかないけど、とにかく彼はジャンキーだったから、やはりそんなに正しいことをしていたとは思えない。遅刻にはマイルスは困っていたようだ。ジャンキーや今だったらコークにいかれた奴、何十年か前の日本だったら睡眠剤マニア、いわゆる「ラリパッパ」、本当はいい奴だとは分かっていてもやはり付き合いきれない。なにもかもがドラッグのせいで破壊されている。クリーンな状態の方が絶対いいプレイができることは、みんな分かっているのに、ずるずるとやってしまう。まあ自力で立ち直った人もいっぱい知ってる。やはり本人の意志の問題だ。でも何十年か前のようにジャズとドラッグがセットで考えられる時代は終わったとボクは思っている。今ではアメリカのジャズクラブはドラッグどころか禁煙だ。ジャズは優れた先人がいっぱい作品を残してしまったので、探りながら作って行くというスリルを味わうことは少なくなったかもしれないけど、世界中にその存在を認知され、世界中のミュージシャンが参加し、そしてなにより健康的な音楽になった。このことが芸術を評価する上で是とするか否とするかはボクにはわからない。全ては時間の経過のなせる業だ。そしてITの発達のおかげで、なんでもすぐ聴けるようになったけど、CDは全く売れなくなった。このガーランドのアルバムのようなラフな作り方は今は絶対できない。こんなアルバムが新譜として店頭に並ぶということは考えられない。でもCDが全く売れなくなったことを、ジャズ本来の即興をライブで聞かせるという方向にもっていくことで、ジャズをある意味是正できるのではないだろうか?エリックドルフィーが言っていたように音楽は、空気の中にすーっと消えていくものなんだ。