和声感覚というのは、同時にふたつ以上の音が鳴ることによって生じる。だから音楽はふたつ以上の音が平行して連なる多声部音楽と、たったひとつの音が進んでいく音楽とに分かれる。でも実際には、今の地球上の音楽はほとんど多声部音楽だ。2声のポリフォニーでもコード進行は感じられるが、あいまいな部分も当然出てくる。でもまたそれが魅力のひとつでもある。3声以上になると急に和声の性格がはっきりしてくる。コード進行がはっきりしてくると分かりやすさと同時にコードに縛られるという現象も起きてくる。5声、6声になると性格を表す以上にもっと色合いを加えるジャズの世界でいう「TENSION」も現れ和声の響きが豪華になる。その半面コードとしてのインパクトが薄れるという現象も起きる。でもこれらのことはいずれも単純に優劣をつけるようなことではない。音楽を良くするため、音楽を自分のイメージに近づけるためにあらゆることをケースバイケースで使い分けるべきなのだ。そしてジャズのバンドの中でピアニストはそれを自由に選択しながら演奏できる立場にある。6つの音が欲しい時、3つでいい時、そしてベースラインとメロディーだけの2声のサウンドが欲しい時もある。ピアニストはコードの押さえ方を覚えてくるとどうしてもそれに頼るようになる。弾きすぎてしまう。全体のサウンドがもやけてすっきりしなくなる。ホーン奏者にはそういう状態を嫌うひとが多い。縛られるのだ。バンドでよく起きることだけどこの問題の正解はないと思う。演奏していても客観的にサウンドを聞く冷静さとバランス感覚、これしかないかな?
この曲を特徴づけているのは、まず3,4小節目のⅢ7のコードとそのメロディーの短6度音だろう。この音は増5度と言ったほうが正確か?そして5,6小節目はその音程関係を維持してⅥ7へ4度進行する。最初の8小節、メロディーはトナリティーに沿った7音の中で構成されている。が、内声にはすでに複数の変化音が登場する。モダンジャズの素材としての良い条件が整っている。トナリティーの長3度上のコードは本来はドミナンテの役割を果たす。Ⅱ-Ⅴ-Ⅲ-Ⅵと進む中でⅢをトニックとして扱うのは、3度を低音にしたいわばⅠの転回形ということだ。そしてそれを膨らましてⅢm7をトニックとして扱うのはただ音の構成つまり似たような音を含んでいるからというだけだ。もちろん3度を下にしたⅠの和音は十分トニックとして認識できる。でも緩やかなドミナンテとして使われたりもしてきた。代わりになるコード・・・代理コードの定義はあいまいだ。これは楽曲内におけるトニック、ドミナンテ、サブドミナンテというものの抽象性を表している。突き詰めて聞かれると本当に答えに困る。ジャズピアニストは超のつくようなベテランになっても新しいヴォイシングを考え、新しいサウンドに出会う。たった12個しかない音なのに・・・。その裏には調性音楽の中での和声の役割の曖昧さという理由があるのだ。
ガーシュウィンの作品、ガーシュウィンはもちろん20世紀を代表するアメリカの作曲家で、大曲もいっぱい書いている。そしてシートミュージック、いわゆる当時のポップス曲も数知れず書き残している。天賦の才能と言ってしまえばそれまでだが、彼が育った時代、環境が彼の音楽に大きな影響をあたえていることは確かだ。20世紀初頭の他民族国家アメリカ、そしてジャズ・・。ガーシュウィンはジャズサウンドに影響を受け、そして彼が作った楽曲が優れたジャズのスタンダードとして残った。当たり前のような話だ。インプロヴィゼーションをやるための条件というか、プレイヤー側からの都合をいうと、何らかの音楽的なインスピレーションを与えてくれることはもちろんだけど、自由にとき放してくれる部分と原曲に頼らせてくれる部分と両方欲しいのだ。ほんとにこれは演る側の勝手な都合だけど・・・。そういういわば勝手な都合で楽曲は選別され合格したものがスタンダードになっていく。この「WHO CARES?」はどちらかと言うと楽曲そのものにかなり頼れる。理由は簡単に言うとメロディーとルートの音程関係にある。でも過度に縛りつけられるということはない。だからスタンダードなんだ。この楽曲の自由度と縛られ度というのは、アドリブをやってこそ感じられる感覚でそのバランスが心地いいとその曲が気にいってしまう。勝手な感覚だ。でもこれがジャズをプレイすることが100年以上も続いている理由のひとつでもある。