メロディーが音階的か和声的かというのも音楽としての優劣をつけられるものではない。音楽自体のインパクトも強ければいいものでもない。人間の要求するものというのは、瞬間瞬間で変わるものだ。人間は生活の中で、はしゃいだり落ち込んだり、急いだりゆっくりしたりどこかでバランスをとりながら生きて行く。音楽も結局いろんなバランスが必要なんだ。和声的なメロディーで感じる強いインパクト、音階的なメロディーから受ける甘美さ、時によって欲するものが違うのだ。音楽には他にもいろんなバランスがある。構造面でいえば究極的には線的いわゆる対位法的か和声的かという問題もある。完全な正解はない。でも良い音楽はいつも微妙なバランスを保ちながら進行する。その道は狭い。でもその狭い道を探りながら進んでいく。注意深く。ジャズインプロヴィゼーションも同じだ。次の音を選ぶとき、そして聞くときの緊張感はそこから生まれる。それこそ「アドリブ」だ。
メロディーと和声を切り離して考えることはできない。これはその時のコードに対するメロディーの音程関係、特に根音との音程、これが重要なポイントだ。でもメロディーが発信するものはそれだけではない。時間軸、つまりリズムにしたがって動く一定の時間から感じるメロディーが形作る和声もおおきな要素だ。具体的には、例えばモーツアルトのアンナクラムマハトモジークを思い浮かべればいい。最初に現れる旋律から表現されるゆるぎない和声、「トニカ」これ以上のインパクトがあるだろうか?このメロディーの下にどんなに工夫して和声付けをしたところでそれはこの曲の表現力を弱めるだけで、アレンジでもリハーモナイズでもない。メロディーというのは和声をいわば引き連れてやってくるのだ。もちろん例外もある。和声進行がそのメロディーからだけでは分かりづらい、むしろそのあいまいさがその曲のその場面の特徴である場合もある。でもそれはやはり一時的なものでそれだけで「良い楽曲」というのは成り立たない。音楽構造がその確固たる構造美を見出した時代、つまりリアルクラシックの時代、その時代の大家の作品の表現力の強さの根拠はここにある。旋律を飾り立て技術を駆使して楽曲を組み立ててもその甘美さと引き換えに力強さをなくしてしまう。これが音楽表現の難しさかもしれない。
音楽のある部分がトナリティーに沿っているかどうかというのは、聞くものにとって最重要な問題で、その音楽を理解できるかできないかの境界線にもなりうる。その場合メロディーがそうなのか、和声もそうなのか、いろんなケースがある。この曲の2小節目に現れるような典型例は旋律はトニックを表示し、和声は2次的になるという場合だ。これこそ12音組織の恩恵の部分で、音楽が隠れた財産を持っているように豊かに聞こえる。和声構造のノウハウが確立されて数百年、もう人間の耳は貧弱な和声には耐えられない。シンプルな和声はあっていいけど、何かが足りないような貧しさは和声には許されない。いい音楽として認めてもらえない。和声には長い間の研究によって当然いろんなパターンが存在する。そしてメロディーにもそれに付随して一定のルールがある。でもやはりこのふたつの組み合わせはパターンが無数とまでは言わないけど、数多くあってひとつひとつ憶えていくしかない。そして楽曲というのは、そのパターンを人間の心に響く小説のように組み立てないと意味を持たないのだ。ここに音楽作りの難しさがある。
同じ曲名のカーペンターズの曲があるが、この曲は1934にJ.Cootsが書いた方。無数の歌手が歌って録音している。演奏もある。形式はA-B-A-B'特徴的な場所はAの2小節目、Bの2小節目。AとBのその場所のメロディーは5度の幅を持っている。そしてコードは2次的なコード、AではⅡ7、BではⅢ♭dim、まあ両方酷似しているコードだけどそれ自体にあまり意味はない。Aの2小節目のメロディーはミの音、要するにトニックを感じさせる音、そこのコードがⅡ7だ。だからコードのルートからは9度になる。その後はトナリティーの中の和声。こういった二次的和声の使い方は緊張感を与えるためのお決まりの手法でもあるが、偉大なアカデミズムでもある。Bの部分はメロディーが5度上がっているだけ。B'の部分はいわゆるコーダといえる部分とも言えるのでドミナント7thの4度進行を使った和声になっている。全体をみるとかなりというか完全な機能和声の上に成り立ったアカデミックな曲だ。変化音もわずかしか出てこない。歌いやすい。歌詞もいい。ヴォーカリストが歌いたくなるのも分かる。手元にも何人かのヴォーカリストのアルバムに入ったこの曲がある。誰のが好きとかはあるけど、まあいい。それぞれいいから・・・。