ジョーザヴィヌルの作品、本人の話ではパッと閃いてごく短い時間に書き上げたらしい。ジョーらしいといえばらしい曲だ。いろんな経緯があってこの曲はジョー自身が関わって何度もレコーディングされ、ライブステージではウェインショーターとのデュエットという形で数え切れないくらい演奏された。この曲に関しては一番気になることから・・。この曲は普通の形でクッキングできていろんなやり方で演奏できる曲ではない。ジョー自身はテンポを設定しない、いわゆるテンポルバートでいつも演奏している。それも短いこの曲を1回やるだけ、コード進行にそってインプロヴィゼーションということはやらない。ジョー自身がこの曲に最初につけたコードはどんなものだったか知らない。「Zawinul」というアルバムではちょっと全音階的なリハーモナイズをしているけど、それはリーダーアルバムでもあるし、なんらかのアレンジをするのは当然だろう。その後ショーターとのデュエットでシンセサイザーを弾いている時はほぼ即興的と言っていいようなハーモナイズをしている。何度もライブで聴いたけど一度として同じ時はなかった。でもそれはシンセサイザーを使っての即興演奏だから特別の価値のあるとても面白いやり方で、ジョーザヴィヌルにしかできない高度な世界だ。問題はマイルスの同名のアルバムの中の演奏だ。ギターと管楽器がメロディーを吹くバックでジョーとハービーハンコックとチックコリアがエレキピアノで弾いている音がなんだか分からない。これはどうなっているんだろうと長いこと理解できなかったけど、結局、ほぼ「無茶苦茶」弾いているんだということが長い時間が経ってから分かった。もちろん無茶苦茶といっても一流のピアニストが集まって真剣にとりくんでいるわけだから、意味があってのことだ。その意味が長い間分からなかった。これはマイルスの提案らしい。音楽の構造は一筋縄ではいかない。論理的な部分と実際に起きることの違い、自然科学の世界と同じだ。次回もうちょっと詳しく・・。
この曲は作曲家ウェインショーターの独特の感性と才能によって生み出された曲だ。で、問題はこの曲がアドリブ素材といったらちょっと失礼な言い方かも知れないけど実際のジャズバンドとしての演奏に適しているかどうかということだ。レパートリーとして楽曲を演奏する時、その曲の構造を把握することは当然のことでそれをしないと「cooking」ができない。で、その構造が「cooking」に向いてなければ演奏できない。ジャズの演奏にはそういうハードルがある。曲そのものの良し悪し、そして即興演奏に対する向き不向き、この両方が揃わなければバンドでいい演奏はできないのだ。この曲はその面で「ギリギリ」と言えると思う。ブルージーなメロディー、美しいコード進行、音楽としての一流の要素を備えているにもかかわらずこの曲は演るのは非常に難しい。歌としてのインプロヴィゼーションとコード進行がなかなかうまく結びつかないのだ。このショーターの「Speak No Evil」に収録されているテイクは素晴らしい。ウェインの自分の音楽に対する自信とハンコックの音楽性の幅広さがかみ合って素晴らしい出来だ。ショーターは前にも書いたように膨大な数の作品を残している。音楽の傾向を一概には言えない。でもこの曲に似た構造はこの後数年の作品に数多く見られる。マイルスはそういうものを取り上げてさかんに演奏していた。新しいインプロヴィゼーションの規範を求めているようだった。相反するふたつのものが同時に進行する中で即興的にいい音楽を作るというのは、どう考えても至難の業だ。マイルスはこの頃のウェインの曲をクッキングするのは難しいけど面白かったと言っている。結果的にはこの頃のジャズミュージシャンのジャズに対するこういう取り組みがモダンジャズを追い詰めてしまった。ボク自身はこういうやり方は全然悪いことだと思わない。これでいいんだ。常に音楽的刺激がないと音楽家は続けられない。行き先を考えたりする必要はないんだ。
この曲のメロディーとコードの関係、人間の歌としての音楽とそうではない「歌いにくい」音の仕組み、これは一見相反するもののようだが、実は現在のほとんどの音楽に両方組み込まれている。どちらかがどの程度支配しているかというようなバランスの問題はあるけど、完全にどちらか一方というものはほとんどない。やはり音楽として成り立たないのだ。この問題は奥深い。音階や和声で説明しようと思っても限界がある。つきつめていくと、音楽ははたして人間のためにだけ存在するのか?という大きな命題につきあたる。そして音楽は人間にとって心地よいものである必要があるのか?音楽という芸術はもっと別の大きな使命を背負って存在しているのではないか?こんな書き方をするとボクの言っていることはなんだか浮世離れしていて現代人の音楽に対する考え方とはかけ離れているように取られるかもしれないけど、音楽家は心の奥底では少なからずこれに似た思いを抱いている。音楽を生活の糧としていくためには、音楽でお金を稼がなければならない。経済最優先の社会で自立するためにはこれが絶対条件だ。もちろん広い視野に立てば人間社会に「経済」というものが生まれたのも自然の摂理であるし、そのための生存競争も神様の意図なのだろう。きびしい競争が優れた音楽を生み出してきたという事実もある。でもなんでも程度問題なのだ。実は人間は知らず知らずのうちに音楽の中に宇宙からやって来た「存在」のメッセージを感じ取っているのだ。気に入ったメロディーやリズムとかというものではない。音楽のメッセージはもっと別のものだ。経済社会と人間の存在の根源に関わる「音楽」という抽象的な存在、この一見相容れないものが実は今現在共存しているわけだ。これが人間社会なんだろう。とにかくあまりにもバランスを欠いてしまうのだけは避けて欲しい。矛盾を内蔵しているのが音楽、そして人間なのだ。
この曲のメロディーだけ取り出して聞いてみると、完全にブルーノートを含んだキーがB♭の調性、要するにB♭のブルースのようだ。でもコードは横のつながりが希薄なひとつひとつが孤立したコードが並んでいる。もちろんそれぞれのコードにルートはあるから根音進行だけだと完全な半音階システムの曲のようだ。それの上に調性感のしっかりしたブルージーなメロディーが流れる。だから常に二つのルートが聞こえてきて、独特の世界を作り出している。単なるポリコードではない。ふたつの世界観を持つ音楽が同時に流れるのだ。実はこのやり方はウェインショーターの曲作りの大きな特徴の一つでもある。メロディーとコードの関係についてヒンデミットはコードというのは大きな岩、メロディーは川の流れだと言っている。川の流れが強烈だとごろごろした大きな岩も押し流してしまう。そのスリルが音楽の楽しみなのかも知れない。コードがあまりにもスムーズに流れすぎると、音楽全体に刺激がなくなる。もちろんそれが「美」を生み出す場合もある。音楽が生み出す時間の流れ方に対する美意識の問題だ。そしてもうひとつこの曲は9小節の単位でできている。8小節というのは人間の時間の流れにたいする感覚上非常に受け入れやすい単位でこの数がひとつの段落として作られている曲が多い。この「Infant Eyes」の場合1小節長いというのはどこかでそのタイム感覚を引き伸ばしているということだ。見てみると、最後の小節まで8小節で終わる流れだ。それが最後の小節のあとに1小節、スペースを作る感じで付け加えている。1小節付け加えたりまた削ったりするのは時間の流れの感覚を早めたり緩めたりするためにたまに使われる方法だ。この曲はその意図が見事に成功している。この曲の最後の1小節を削ってしまうととんでもなく落ち着かない曲になってしまう。ショーターがこの曲を作った時どの時点でこの「9小節」という単位を思いついたのか、スタジオに入ってみんなと演ってみて、だれかの提案でそうした可能性もある。うううん・・・分からない。実際に演奏してみると、9小節という変わった数がなんの抵抗もなく受け入れられる。自然だ。ウェインショーターすごいね。
ブルーノート盤「Speak No Evil」の中に収録されている、ウェインショーターの作品だ。曲そのものもいいけど、とにかくこのアルバムでのこの曲のバラッドプレイは秀逸だ。形としては9小節が3つで出来ていてAーBーA、特別変わっているとか複雑だとかというものではない。9小節というのがちょっとポイントになってはいるけど・・・。今日は曲の内容は先送りにして作曲家としてのウェインショーターについて・・・。ショーターの作曲癖?は彼のキャリアのごく初期からあったものらしい。ジャズメッセンジャーズ時代の同僚カーティスフラーはウェインは「一日一曲」作曲していたと言っている。まあこれは話半分としてもまるでブログでも書くように曲を書いていたことは確かなようだ。現在までにレコーディングされて公になっているものでボクの知っているだけでも数えきれない。作ったけどボツになったものや途中でやめたものも当然相当数あるから、全部合わせたら大変な量だと思う。何を求めてこんなに作曲するのか?分からない。ジャズメッセンジャーズ時代、アートブレイキーは積極的にショーターの曲を採用してレコーディングした。このバンドのレパートリーはほとんどがメンバーのオリジナル、時々美しいスタンダードナンバー、という風に構成されていて、ギグをやる時もだいたいそういう感じだったが、ウェインの曲はその中でも常に異彩を放っていた。ブルーノートに吹き込んだ数枚のリーダーアルバムは全曲ショーターのオリジナルだ。'60年代初め、マイルスは'50年代にヒットしたバンドのレパートリー(有名なオリジナルもあるけどほとんどは歌詞のあるスタンダード曲)で喰っていた。アートのバンドの連中はそんなマイルスのやり方を古臭いと感じていたようだ。でもその後ショーターがマイルスのバンドに参加するとやり方をガラッと変え新しいオリジナル曲を積極的にレパートリーに加えるようになった。数年後にはショーターの作った曲がマイルスバンドの売り物になった。マイルスは「バードのように作曲できるのはウェインだけだ。」と言っている。なにか二人の間の共通点を感じたんだろう。「Infant Eyes」だけでウェインショーターの作曲家としての全てを語ることなどできないけど、彼のインスピレーションが垣間見える曲ではあると思う。