ジャズピアニストのジャズ批評

プロの耳で聞いたジャズをミュージシャン流に批評。

The Days Of Wine And Roses Ⅲ

2009-01-30 01:24:06 | Weblog
ジャズハーモニーと言えば、多彩なテンションを使ってサウンドを豊かにするのが当然のようになっている。そしてその裁量がプレイヤーに任されているところがジャズのジャズたるゆえんだ。テンションという考えはコードにそのコードにない音を加えるということだけど、もう一歩進んでテンションだけで和声を形成してふたつの和声進行を同時に感じさせるアッパーストラクチャートライアードもジャズの常套手段だ。この手法はポリコードを匂わせるということであって実際にはちょっとした耳の錯覚を音楽技法としているということだ。このやり方や本当のポリコードの解説、説明してあるものを読んだり人から教えてもらうと「なるほど」とすぐ納得できる。でも問題は本当に感性は耳は納得しているのかということだ。違った調性が同時に進行する。それを理屈ではわかるけど人間の耳はどうとらえているんだろうか?多調音楽は決して新しい音楽ではない。ミヨーやバルトーク、シマノフスキーなどは積極的に多調を前面に押し出して書いた作品もある。素晴らしい芸術作品だ。でも古典的な音楽、フーガも多調的といえば言える。それがむしろフーガの魅力だ。でもこれもいわば音楽を言葉で説明しようとする世界の話で、人間が同時に進行する二つの世界を認識でき、またそれに美を見出せているのか?というのが本質的な問題だ。多調というのは人間の感覚の中に本当に存在し得るのか?この疑問は音楽家の中にずっと存在している。ボクには答えはわからない。でも複雑な調性を同時に聞き分けるのは非常に困難であることはたしかだ。多調ー同時に聞こえる異なった調性、よく考えると分かったような分からないような抽象的とも取れる説明だ。理論的にはそう理解していても実際には主要な調性とそれに付随するもの結局テンションに近いような感覚で多調音楽を聞いているのではないだろうか?視覚と聴覚は一緒にはならないかもしれないけど、一つの画面に左右半分づつ違う映画が流されたら両方同時に楽しめるだろうか?音楽という聴覚による芸術、人間の感性は分からないことだらけだ。

The Days Of Wine And Roses Ⅱ

2009-01-25 23:04:49 | Weblog
この曲のメロディーやコードは広く知れ渡っているから、誰かとやる時キーさえ伝わればほとんど問題なく演奏できる。演奏のキーはほとんどFだ。ところが12小節目、オリジナルはC7だけどその後いろんなカヴァーをされているうちにEm7-5、A7とするコード進行でやるひとが増えてきた。これだとその後1小節づつDm7-G7-Gm7-C7と前半の折り返しに向けて何の問題もなく進んでいく。演奏もしやすい。でも歌手、それもこの曲をちゃんと把握していない人にとってはDm7のところにあるEの音、歌詞で言うと「That」にあたる部分がちょっとひっかかるのだ。歌えないというほどではないけど、このメロディーラインはこのコード進行には厳密には合わないかもしれない。やはりオリジナルのように前半の最後の4小節はEm7-5、A7-Dm7、G7-Gm7-C7の方が歌いやすい。ピアノで弾いてみるとどうということはない。どちらでもいい。でも歌うという行為はちょっと違うんだ。もちろんこのメロディーを完全に把握した歌手にとっては何の問題もない、取るに足らないことだ。人間が和声進行を感じながら歌うという感触は実際にやってみないと分からない場面がある。いろんな曲でたびたび出会う。そんな時は歌手にお伺いをたてるしかない。ピアノを弾きながら自分でも歌ってみる。でも確信が持てない。ピアノの前に立ってピアニストに音を与えてもらってそれを感じ取りながら歌う、この立場に立たないとわからない。でもそうかといって歌いにくいから悪い音楽というわけでもない。歌える音か歌えない音かその選択は複雑なヴォイシングをする時でも常につきまとう頭の痛い問題だ。

The Days Of Wine And Roses

2009-01-23 00:56:02 | Weblog
1962年のジャックレモン主演のアル中物語の映画の主題歌だ。作ったのはヘンリーマンシーニ、あっと言う間にいろんなプレイヤーが演奏し歌手が歌い「スタンダード」になってしまった。60年代半ばから次々にカヴァーされていろんなヴァージョンで聞かれるようなった。スタンダードになるべき要素を持った曲だということだろう。ウェザーリポートは長年に渡ってコンサートのサウンドチェックの時この曲を演奏していた。ザウィヌルが好きだったのか何かのシャレなのかは分からない。ミロスラフヴィトウスが日本でギグをやった時ベースソロでこの曲をさかんにやっていた。この曲のスタンダードたる理由はいろいろある。だから幅広くいろんなミュージシャンに取り上げられるんだと思う。とにかく全てにおいてバランスがいい。さすがヘンリーマンシーニ、と言うしかないか。ひとつ言えるのはこの曲が世に出たタイミングだ。モダンジャズが成熟期にあってミュージシャンみんながクッキングに耐えられるいい曲を物色していた時期、60年代前半だ。ジャズミュージシャンやジャズヴォーカリストが飛びつくみたいな感じでカヴァーし始めた。いい演奏や歌がいっぱい残されている。今もしこの曲がはじめて発表されても同じことにはならないだろう。やはり時代だ。もうジャズスタンダードという名の楽曲はほとんど世界に定着しない時代になってしまった。あまりにも情報が多いせいだろう。現在でも優れた楽曲は作られ続けているし才能のある音楽家はいっぱいいる。でも世間の関心が集中するということがなくなってしまった。音楽の供給の仕方、聞き方、感じ方が根本的に変わってしまったのかもしれない。イタリアでハンマークラビアが出来、大バッハの後リアルクラシック、ロマン派を経て20世紀には全ての覇権を握っていたアメリカの商業音楽が世界を制覇した。でもその情報量、巨大さが限度を超えてしまった。これはもしかしたら数百年ぶりの音楽界の大変革かもしれない。音楽界はそれぐらい迷路に迷い込んでいる。

Bye Bye Blackbird Ⅳ

2009-01-18 01:49:05 | Weblog
インプロヴィゼーションにマニュアルはない。正解もない。自由な表現そして自由な評価があるだけだ。ある程度ちゃんとしたイメージがないと音楽はできないけど、こうしなきゃ・・というような極端な気持ちを持たないことがジャズをやるコツみたいなところもある。ほどほどのところで納得するというのがジャズから学ぶべき一番大きなもののような気がする。別に年を取って音楽に対して妥協したわけではない。音楽そのものがそういうものなのではないかと感じ始めたからだ。インプロヴィゼーションは日常会話のようなものだ。言い間違いもあるし文法なんか正しいわけがない。でも伝える気持ちがあれば伝わる。謙虚な気持ちさえあれば無礼には感じない。ジャズは非常に構造的な音楽という一面ももっている。それは確かだ。でも即興演奏の持ついわゆる率直さがジャズの命だ。「Bye Bye Blackbird」を構造的に分析してアドリブに臨んだら間違いなく失敗する。インプロヴィゼーションの違う一面を理解しないと音楽にならない。もちろん音楽構造を日々勉強するのは音楽家として当然のことだけど、音楽の持ついろんな顔を知るのも必要なことだ。

Bye Bye Blackbird Ⅲ

2009-01-12 23:31:36 | Weblog
コード進行だけでその曲がインプロヴィゼーションに向いているか向いていないかを判別はできないけど、和声構造がその成否のカギを握っているのはたしかだ。この「Bye Bye Blackbird」はそういう面ではあまりジャズに向いているとはいえない。コードがあまり動かないからだ。実はこれはかなりやっかいな問題だ。和声の推進力がかなり演奏そのものの助けになる。アドリブもやりやすい。でもこの曲にはそれがない。にもかかわらず「Bye Bye Blackbird」はジャズスタンダードとして君臨している。トニックのまま動かない最初の部分そして単純に繰り返されるⅡ-Ⅴ、ブリッジの部分はコードの内声に短7度音が出てきてちょっとブルージーなにおいがする。全体として穏やかに進むコード進行だ。それが安らぎを感じさせる。そして歌いやすいメロディー、いくつか挙げたらもちろんすぐれたポイントはある。でもそれはこの曲がすでに知れ渡ったスタンダード曲だからの評価だ。全く予備知識なしにはこの曲をレパートリーにはしない。この曲をスタンダード曲にしたサッチモやマイルス、その他のジャズミュージシャンの感性に脱帽するしかない。そしてジャズという音楽の懐の深さを感じる。ジャズをずっと演奏していると曲を選ぶ時まずインプロヴィゼーションに耐えうるか?自分なりのクッキングができるか?というのが基準になってしまう。これが実はジャズミュージシャンが陥るワナというか音楽の考え方がいわば本末転倒してしまっているともいえることなのだ。原曲とジャズインプロヴィゼーションとの関係は複雑で難しい。限りない自由を与えプレイヤーや聴衆を喜ばせてくれるはずのインプロヴィゼーション、それが逆にミュージシャンを縛りマンネリズムを感じさせジャズをつまらない音楽にしてしまう。即興演奏にマニュアルはない。そんなものを作ったら音楽は破滅する。そう考えていくとこの「Bye Bye Blackbird」はジャズをマンネリズムから救ってくれる偉大な曲ともいえるんだ。