ブルースという言葉は音楽の形式を表す言葉でもあるけど、「ブルージー」という表情を表現する詩的な言葉でもある。12小節や5小節目のサブドミナントなどの条件を満たさなくてもブルースと呼べる曲もあるし、そう呼ぶ人もいる。でも実際に演奏する時はブルースと言えば12小節だ。そして特別なコードがあったらそれを付け加える。他のケースはブルースの変形というかたちで理解する。ブルースという音楽の形成過程を考えるともともと異文化の合体という側面があるし、音楽的にもいろんな要素が混じりあっている。トラディショナルという名前でブルースをくくるのはなかなか難しい。でもこれは広い意味でのブルースの理解についての話で、ジャズミュージシャンの間の共通認識はしっかりと確定している。あとは個別の曲それぞれの特性を理解して演奏するのだ。この曲の場合、完全にインプロヴィゼーションを前提に作られていて歌詞はないし、とくにドミナントのところは12音的なメロディーで歌うのに適しているとは言い難い。でも全体を通してブルースらしさと半音階的な部分がうまく合体していてインプロヴィゼーションのためのインスピレーションを呼び起こすのに十分な内容を持っている。まさにジャズをやるためのモダンブルースなのだ。ジャズバンドはライブをやったら一晩に何曲かはブルースナンバーを演奏するバンドも多くある。ジャズにとってブルースは個々のミュージシャンの音楽の特性にかかわらず不可欠な要素なんだ。
ブルースの調性は明確だ。調性音楽の定義である中心となる一定の音高の音がはっきりしている。ただ音楽を形成する音階素材がいろいろ種類があったり、和声の動きが理不尽だったりすることはある。でもそれがブルースだ。インプロヴィゼーションの最中は自分の音を聞き、まわりの音を聞き、いろんな状況判断もいるしかなりのパニック状態になる。その状況の中で人間の耳は調性の中心になる音を感じている。これが感じられないとブルースはできない。この中心になる音、「基音」は楽曲を通してひとつではあるけど、場面によって違う音が出現したりするのだ。Ⅱ-Ⅴの動きが感じられたらそのスケールのⅠの音が感じられるし、ドミナント7THのコードは当然増4度離れたコードを感じさせる。これは2小節単位だったりもっと短い時間で起こったりもする。結局楽曲全体の「基音」とその時その時に部分的に現れる基音が二重構造や三重構造になっているのだ。言葉で言うと複雑に聞こえるけど、これはほとんどの調性音楽に起きていることで、何の苦もなく受け入れられることだ。むしろその調性のトリックこそが音楽をおもしろくしているわけで、聞くだけなら何の問題もない。ただインプロヴィゼーションというのは、先行きのはっきりしない調性とはっきり存在する楽曲の基音を両方感じとりながら即興で音楽を作るということだ。確かに興味深いことではある。でも先が見えないということに楽しさだけを感じられるひとはいないと思う。人間は頼れるものがないと不安になる。自由であるべきインプロヴィゼーション、そこに存在する調性、これは「矛盾」と呼ぶべきものなのか?
ブルースのインプロヴィゼーションではいろんなことが起きる。いろんなリズムパターンの出現やモティーフの展開などだ。そしてブルースは一応コード進行のあらましの合意はあるものの即興的なリハーモナイズは日常茶飯事で、またこれがないと面白くない。それもピアノやギターのコード楽器が参加していたらある程度和声を縛ってしまうけど、ベースラインとフロントラインだけとなるとそのゆるい縛りさえもなくなってしまう。これを自由と感じるか、頼りないと感じるか?コード楽器がないバンドの成否のカギをにぎるのは当たり前の話だけど「耳」と「腕」だ。そしてどういう曲を選ぶかというバンドリーダーのセンスも試される。コード進行というのはある程度先を予測できるというのが原則で、要するにこれが機能和声なわけだ。リハーモナイズはいわばその裏をかいてスリルを演出しているということで、そもそもの予測がなければ成り立たない。この先どうなるか全く読めないコード進行の中でインプロヴィゼーションをやってそれをいい音楽にする、言葉では言えるけどこんな難しいものはない。音楽を作る上での自由とは何か?という問題になってくる。自由を求めて即興演奏に磨きをかけてきたジャズミュージシャンがその自由の限界を考えることになった。見解にばらつきはあるとは思うが、年代でいえば60’年代半ばにもうその兆候はある。オーネットコールマンはジャズという音楽の存在意義そのものの問題提起をしたミュージシャンだ。賛否両論が渦巻いていた。半世紀近くたってその頃の彼の音楽を聞くと彼自身の才能の素晴らしさもさることながら芸術の過渡期のパワーがあふれている。これがジャズか?
オーネットコールマンのオリジナルブルースナンバー、おおぜいのミュージシャンにカヴァーされている。12小節の形式はそのままだが、最後の4小節、ドミナントの部分のフレージングと半音階的なメロディーが特徴的だ。コールマンの最初の録音にはピアニストやギタリストいわゆるコード楽器がいない。いわばバンドの「内声」がない状態だ。これはもちろんバンドサウンドという意味ではベーシストにかなりの負担がかかる。でも逆に解き放たれたような自由もある。そしてはっきり言ってしまえばベーシストの腕が相当よくないと、この計画は失敗する。オーネットコールマンのバンドのベーシストはあのGREAT!レッドミッチェルだ。誰も文句はない。ベースラインを聞いていると、かなりオーソドックスだ。ブルースのウオーキングベースラインにオーソドックス云々があるのか?と言われたらちょっと困るところもあるけど・・・。この演奏も素晴らしいが、この曲の独特の自由さがたくさんのミュージシャンに好まれているのだ。ブルースを演奏し始めた頃、あれっ、この音も合うこの音も合うとアドリブの時に感じた不思議な感覚が忘れられない。その一方で感じるブルースという音楽の「らしさ」。理不尽なコード進行や音使いも正当化してヒップな音楽にしてしまうブルースという「音楽の器」、この「TURNAROUND」はそれをストレートに感じさせてくれる曲だ。
前回の続きみたいになるけど、リフレインについて和声に絞ってちょっと・・・。この曲のブリッジの部分、ⅣmからⅠを1小節ずつ2回繰り返し、それを3度目には短3度上げる。純粋な形の繰り返しは最初の二回だけど三回目も和声の構造からいえばリフレインだ。実際のコード進行を聞けば同じ進行をずらしているだけだということはすぐに理解できる。そして短3度という音程がなおさら「同じ進行」を感じさせる。これがもし長3度だったら全く違った意味合いになってしまう。和声上のリフレインの面白いところだ。これは12音上の「軸」の問題で、この技法がコード進行のリフレインのいわば色合いを豊かにしているのだ。そして和声のリフレインにはリハーモナイズという問題もついて回る。もとの構造が同じでもリハーモナイズすることによって軸のずれとはまた違った色彩の違いが表れる。こういうリフレインの認識はじつは実際のインプロヴィゼーションの演奏の中でほぼ無意識に感じられて理解できてくることがよくある。これはジャズミュージシャンがインプロヴィゼーションをやっている時にコードに対してどういう感覚を持っているかということの実例だと思う。アドリブをやっている時はコードの仕組みの根本が体でよくわかるのだ。ひとにとやかく言われなくてもジャズをある程度の期間演奏し、アドリブがそこそこできるようになればみんな同じような感覚になってくる。もちろん一握りの天才の感覚は分からないけど・・・。