前にも書いたようにこの曲は構造的にもいろんな要素でできている。これは大きく言うと20世紀以降の音楽全体に言えることで、ロマン派といわれる作曲家たちが積極的に取り入れだした半音階的アプローチが徐々に完成され、不可欠なものとして存在しだしたことが大きい。音楽構造の中で12音平均律や半音階は「人工的」と言われることもある。確かに音楽組織の基礎である倍音列を考えると半音階はそれに沿ってないように見える。しかし自然界の倍音列というものをもっと広げて考えてみたら12音、半音階というのはただ「高い」倍音を使った音組織にすぎないともいえるのだ。こう考えると全音階的、半音階的という区別も明確なものではなくなる。自然界の第7倍音は1.75倍、これは低すぎて音楽に使いづらい。これが12音が形成されるまでの大きな障害だった。結局今の短7度は4度の4度上の1、7777・・・、5度の短3度上の1,8と自然倍音の中間を採用しているということで、必ずしも整数比ではないけど理論的にはずっとずっと上の倍音には当てはまる。こじつけのように聞こえるかもしれないが、音楽に人工的という言葉や考え方は当てはまらないと思う。音楽は感じるものであるが、同時に自然界の事象を12音という人間が理解しやすい組織の中でいわばデフォルメしたような芸術でもあるのだ。
この曲は整然とした形式をとってはいるが、その形式をもふくめて内容は「ごった煮」だ。でもこれは批判の言葉ではない。20世紀のアメリカ音楽、特にジャズはそういう音楽なんだ。和声構造は古典的、優位二声部を取り出してみるといわば20世紀的、2小節目に出てくる短7度は古典的でもあるけど、ブルーノートにも響いている。ブリッジの後半はトナリティーの短3度の入れ替え、つまり12音的な技法だ。でもガーナーはこれらを自然にくっつけてしまっている。というか、どれかが多いとか少ないとかのバランスの違いはあっても20世紀のアメリカの音楽はほとんどこんな感じで「ごった煮」なんだ。そしてそれは全世界に広まって今や世界中のほとんどの人がなんの抵抗もなく受け入れている。抵抗がないと言うと良く聞こえるけど裏を返せば新鮮味がないということだ。音楽のこういう一面は避けられないものだと思う。'60年代後半から台頭してきたブラックファンクもそれまでにないサウンドと価値観を持ってはいたが、完全に違う一種類の構造でできているわけではない。中身のバランスが違うだけなのだ。スライ&ファミリーストーンやジョージクリントンですらアメリカの音楽産業やヨーロッパ音楽の下地があってこそ存在感を示せたのだ。今の音楽界で構造的にひとつのものを特化するようなことはできない。すでにすべてのミュージシャンがそんな単純な感覚をもっていない。世界中が「ごった煮」なんだ。音楽構造はその縮図だ。
この曲の構造云々は次回からにして、今回は作曲者のエロールガーナーについてちょっと・・・。ガーナーは歴史に残るjazzgiantの一人で誰でも一度聞いたら忘れられないピアノスタイルを身につけたピアニストだ。全く音楽教育を受けずに音楽とピアノ奏法をマスターしてしまった天才だ。若い時から光っていたらしく'50年代初期のパーカーのアルバムでサイドメンをつとめている。アートブレイキーが後年語っていたことだけど、彼がピアノを諦めてドラマーになろうと思ったのはガーナーのピアノを聴いてこれは勝てないと思ったかららしい。全くの独学だから、いろんな曲を自分勝手なキーで覚えていてセッションに行くとうまくいかないのであまり人と演奏しなかったらしい。でも普通なら負の要素になるそういったことを逆に独特の音楽スタイルのバックボーンとして確立し一流のミュージシャンになれたのは「才能」これ以外にあり得ない。名盤となっている素晴らしいアルバムもたくさん残している。スタイルを確立してからの彼の演奏は素晴らしいの一言、こんなすごいエンターテイメントは他にない。メチャメチャ楽しめる。彼の音楽スタイル、ピアノ奏法はまさにワンアンドオンリーで真似できるものではないけど、世界中のジャズピアニストに影響を与えている。まずみんなが気になる左手のヴォイシングのスタイル、ビハインドザビートのメロディーライン、音楽的なこともたくさんあるが、チョット違った話で、ガーナーは異常に高い椅子が好きなのだ。何故だかわからない。いつも高い。足りない時は電話帳を敷く。20世紀クラシックの大家リヒテルは師匠のネイガウスに高い椅子で弾くことを教わったと言っていた。そういうのがはまる人もいるんだろう。オーバーな言い方ではなくて褒めちぎることしかできない。それがエロールガーナーだ。
音楽は構造的にいろんなバランスを保って存在している。ジャンルは関係ない。一番大切なのは縦と横のバランスだ。一方的なものはない。チックのこの曲も和声的、対位法的にちゃんとバランスを保って存在している。このふたつの要素は音楽の構造をチェックするのに最重要な要素ではあるけど、比較的新しいものでもあるのだ。和声の秩序はもちろん12個の音が確定してからのもので数百年前にできたものだ。そして人工的な面も持ち合わせている。だから逆に音楽家は学習を義務づけられるものでもある。でも音楽のほかの要素、つまりリズムやメロディーは誰にも分からない太古の昔から存在している。これも音楽構造の大事な要素だ。音楽に新しいとか古いとかという言葉をよく使うけど、それは端的に言えば現在の音楽産業の立場からみた一面的な見方で、リズムをハードの面からみたら新しいものなんかない。ひとりの打楽器奏者がいろんなものを叩くドラムセットから出てくる音とベースを基本にしたリズムセクションの形も20世紀になってなんとなく確立され、その音が過去になかったというだけで、リズムのパターンが全く新しいものというのは考えられない。とにかくリズムの歴史はホモサピエンスの歴史と同じなのだ。もちろんダンスのステップや音楽の表情に名前をつけて楽しむ、それを商売に結びつけるのは自由だ。でも音楽を発信する側はそれではだめだ。俗に言う新しいものは、「ない」と思ったほうがいい。またそんな新しさは必要ない。本当の新しさは即興性、それだけだ。
アドリブをやっている時、もちろんコードを間違えないように、小節の数を間違えないようにと注意しながらやっている。でも音楽に求められているのはそんな「ちゃんとやること」ではない。いわゆる「ひらめき」・・・得体の知れないものだ。感覚と理性という言葉が適当かどうかは分からないけど、秩序を守って新鮮な音楽をやるにはふたつの要素のバランスが必要なんだろう。でも実際曲のコードを追っているようではろくなインプロヴィゼーションはできないし、ある一定のレベルに達したらコードや小節の数なんかは考えない。全体のパフォーマンスのことも考慮してソロの長さも適当なところで終わるようになる。それが自分の中の自然な感覚として定着する。自分勝手に長ったらしいソロを回すのはアマチュアのやることだ。要するに音楽を演奏する時の感覚と理性の区別がつかなくなってくるのだ。音楽を演奏するのになにが一番難しいかと言うと、とにかくその音楽のフィーリングを掴むのが一番難しいのだ。それさえできれば自分がどうやればいいかが自然にわかる。これはどんなジャンルの音楽でも一緒だ。このフィーリングを人間は体のどこで捕らえているのか?脳のどこで理解しているのか?ポールチェンバースやクリフォードブラウンのように何時そんなジャズフィーリングを掴んだの?と質問したくなるような人たちもいる。ハイティーンの頃にすでに熟している。でもそんな人たちだってその後プロの世界でもまれて身に付くこともいっぱいある。音楽に必要な要素というのは多彩なのだ。そして一生かけて達成するものもある。やはり音楽の勉強は単純な考え方ではだめだ。思考停止は絶対にだめだ。