歌うための曲は基本的には全音階的に作られている。この曲はまさにそうだ。変化音はちょっとしかでてこない。Ⅱ-Ⅴ-Ⅰを4回繰り返した後一応段落の区切りがある。その後1回またⅡ-Ⅴ-Ⅰをやってその次のⅡは5度がフラットした形だ。歌詞の流れとも合致していい選択だと思う。Ⅱm7の5度がフラットするとエオリア調が匂うので短調に移行するように感じる。でもトニックはメジャーのままだ。うん、分かりました。12音が確立される前、音楽がほとんど全音階的であった頃でも「全音」今で言う長2度音程より細かい音程を欲する感覚は音楽をやる人は当然持っていた。エンハーモニックという考えはもともとは四分の一音に関するものだった。それを12音の中の半音といういわば大雑把な中に閉じ込めてしまったのだ。ピアノでは当然半音の半分は出すことはできない。でも歌は違う。この曲のこの部分の場合、Ⅱm7の♭5度音よりもうちょっと低い音程のほうが、この場面の意図にそっている。♭はより低くそして下の音へ向かう、♯はより高く上の音へというのはまあ記号の主旨から言っても当然のことではある。こういうことは感覚の優れた歌手は自然に表現できることだ。こういう微妙な表現が鍵盤楽器のように12音が確定されたものではできない音楽としての本当に優れたところだと思う。今は歌手はあまりにも楽器のように歌おうとしすぎだ。もちろんしっかりした音程で歌うだけでも相当な才能と訓練が要る。その上のレベルの表現となると至難の業だ。でも音楽にはこの微妙な世界も不可欠だということを歌い手のみなさんには分かって欲しい。
この曲のコード進行は本当に限られている。後半歌詞が「Don't You Know」のところがⅥmその後にⅣからⅣmに行く部分はあるけどこれは結局同じ流れだから、一箇所をのぞいては同じコード進行ということになる。これでは歌詞の助けを借りないと音楽にならない。もちろんコールポーターはそれを大前提に曲を書いているわけだけれども、大胆だ。ⅡmというコードはⅣの代わりになるサブドミナントという説明だけでほとんどの人が納得してしまう。音の響きが酷似しているから当然だ。そしてⅤ7へ4度進行してくれる便利なコードだ。この経緯についてなにも言うことはありません。というかもっとⅡmの地位を上げた呼び方はないのかと思っている。だいたいサブドミナントの「サブ」が元来気に食わない。Ⅳ度という和音はサブではないもっと大事なレギュラーだ。そしてそれの代わりをしもっと使い勝手のいいⅡmだ。なにかあってもよさそうなのに・・・。音楽用語というのは全く変わらない、というか発展しない。トニック、ドミナンテ、何百年も前の古語を使っているから音楽構造に対する考え方もかたくなになってくる。ジャズの用語は20世紀にアメリカで英語で作られているものがほとんどだ。まだちょっとは救われる。融通が利くように感じる。数百年前にヨーロッパで起きた音楽の大変革、12音平均律を基にした音楽アカデミズム、やはりこのインパクトは音楽史上最大のもので用語をふくめてこの呪縛から世界中のミージシャンは逃れられないのか?
この題名は日本語にどう訳したらいいんだろう?英語独特の言い回しとしか言いようがない。コールポーターの世界だ。数年前ポーターの伝記的な映画が発表されていた。彼は独特の世界観を持つ作詞作曲家だ。ポーターの曲だけでアルバムをつくっている歌手も何人かいる。プレイヤーに好まれている曲も多い。生前の彼の行状というか生き方は随分前にビデオで見た記憶があって、「へえ・・こういう人だったのか」と驚いたことを覚えている。ひとりで作詞作曲ができその両方のレベルが高いとやはりいい「Song」ができる。言葉と音楽の組み合わせがうまく行くからだろう。違ったルールでできているものを組み合わせて何かを作ろうとすると、どこかでどちらかもしくは両方にちょっとした妥協というか相手に対する歩み寄りが必要になってくる。それがないと何も成り立たない。これは音楽に限った事ではないだろう。話を大きくすれば国と国との外交交渉だってそうかもしれない。どちらかが後にひかないというか、音楽で言うと曲か詩が先にできあがっているところに詩をつけ音楽をつけるというのは本当に大変だ。かなりの妥協が要る。コールポーターの楽曲はお互いにうまく歩み寄ってバランスよく両方のメンツを立てている。彼が曲を作る時どういう順序で考えたのかは誰にもわからない。でも出来上がった作品は音楽も詩もバランスよく、音楽は詩の内容によってちょっとしたフェイクを加えてあったり、詩は音楽のメロディーやコードによって言葉を選んだりしている。「I've Got You Under My Skin」、この曲ボクは駆け出しの頃、歌詞の内容を全然知らず、ただ長ったらしい同じコード進行の続く曲だと思っていた。その時先輩のミュージシャンがこの曲のことを「金太郎飴」と呼んだのを聞いてその通りだと思って大笑いしたことがあった。でもシナトラの歌が好きになり歌詞の内容やコードとのつながりが分かってきたら今は全然「金太郎飴」だとは思わない。
ジョージガーシュインは20世紀のアメリカが生んだ奇才だ。とにかく幅広く活躍した。ピアノの腕がよくピアニストとしても仕事をしていたし、「ポギーとベス」や「ラプソディーインブルー」、映画音楽も作った。そして数々のポピュラーソングも作りそれの多くが今ジャズスタンダードになっている。そのポピュラーソングはお兄さんが作った歌詞に曲をつけた形になっているものがたくさんあるけど実際はどっちが先にアイデアを出したのだろう?どういう相談をしながら作ったんだろう?そういうことがわかれば面白いだろうけど今となっては無理だ。人間の言葉に音楽を付けるというのは実はかなり矛盾をふくんでいることで言語の種類によって多少の差はあるけど、12段階に分けられた音程と割り算された時間にあてはめて言語に説得力を持たせるのは作曲家にとって至難の業だ。楽器用に作られた音楽とは別のものといっても言いすぎではないと思う。だから詩をつくる人と曲を書く人の関係が重要になってくる。ひとりで両方こなせる人はその分ハードルが低い。そのやり方で成功している人はポップス界にはいっぱいいる。ガーシュインは詩を作るひとがとにかく身内だ。ましてハングリーな家庭なら結束も固い。これが曲の出来に大きく影響している。曲も詩もどんなに隠そうとしても作った人の内面が垣間見えてしまう。それが芸術だ。ジャズプレイはインプロヴィゼーションだ。もっとあからさまにその人が見えてしまう。だからさらけ出すしかない。これがジャズプレイの心構えだ。
インプロヴィゼーションの素材としてこの曲はいろんなイメージを与えてくれるし、どんなクッキングにも耐えられる優れものだ。それには異論はない。でも和声構造、いわゆるコード進行とメロディーの関係を細かくチェックすると多少理不尽なところがあるのも確かだ。まず前半の13小節目、メロディーは明らかにⅡm7だ。オリジナルのコード、シートミュージックはそうなっている。そして15小節目にⅡ7を入れる。歌手でこのコードが聞こえないとちょっと違和感を感じる人もいる。でもこのコード進行はインプロヴィゼーションには向かない。この流れではアドリブがやりにくいのだ。だから13小節目のアタマからⅡ7を2小節やってその後Ⅱm7をもってくる。13小節目Ⅵmからいく手もある。どっちにしてもゆっくりピアノで弾いてみるとひっかかる部分だ。でもバンドで演奏すると違和感がない。こういう曲もあるんだ。「メロディーというのは川の流れのようなものでごろごろした岩のようなコードの塊をその勢いで流してしまう。」これはヒンデミットの「作曲の手引き」に書かれていた言葉だ。ましてジャズの演奏は打楽器が加わりスウィングさせ、より音楽に推進力がついている。コード楽器はこのメロディーをよく理解して型どおりに演奏せず微妙にタイミングを計って不自然な音使いを避ける。アドリブコーラスに入ったら堂々とⅡ7を弾いてガーシュインのこの曲を楽しむ。これは別にごまかしではない。ジャズ独特のクッキングなんだ。誰か特定の人が思いついたわけではない。こういうやり方を「いいかげん」なやり方とは言わない。音楽の持っている価値の優先順位の問題でこれがジャズという音楽の信念でもある。