このビルエヴァンスのオリジナル曲の存在は随分前から知っていた。正確には38年前だ。エヴァンスの演奏を誰かに聞かせてもらい、先輩のピアニストが持っていたこの曲のスコアを見たこともあった。でもよく分からなかった。当然演奏することもなく年月は過ぎ、その間エヴァンスがトリオで最初に録音したシェリーズマンホールでのライブ盤を手に入れ、ビデオで彼が兄さんのハリーと対談し、この曲をソロでワンコーラス弾くのを聞いたりもした。エディゴメスとやっているころのライブ盤にも収録されているからギグではしょっちゅう演っていたんだと思う。そのうちコードとメロディーは頭に入った。時々弾いてみてある程度マスターしたら実際に演奏してみようと思うんだけどどうしてもうまくいかない。よく知られていることだけどこの曲にはドミナント7thが一回も出てこない。エヴァンスはどんな意図でこの曲を書いたんだろう。分からない。とにかく構造を理解しその上に自分なりの解釈が加えられた状態まで持って行かないと曲というのは演奏できない。分からないままやっているうちに何となく分かってくるというパターンもあるからとりあえず演ってみるという手もある。それがジャズのいいところでもあるから・・・。でもこの曲はその勇気が出なかった。うやむやのまま数十年が過ぎた。なんとか出来るようになろうとかそんな気負いはなかった。他にもやるべきことはたくさんある。劇的な何かがあったわけでもない。でもいつの間にか普通に演奏できるようになった。何故だか分からない。音楽を理解するのは難しい。
エンディングについてちょっと・・・。この「Turn Out The Stars」という曲、もちろん細部にわたって素晴らしい構造をしているけど、エンディングというか曲の最後がシャレているんだ。メロディーは曲の最初と同じ音使いなんだけど、これをいわばリハーモナイズしたというか、最後のEの音を曲の最初に使ったようなCMの長3度音ではなくてC♯mの短3度音にしているのだ。この発想は単に音楽構造に詳しいというだけではなくて、ちょっと失礼な言い方かもしれないけどいわばギャグセンスがないと生まれてこない。エヴァンスは共演者の証言によると冗談好きだったらしい。これは1コーラスの終わりの事についてだけど、一曲の終わり方についても似たようなことが言える。エンディングというのは色んな形がある。作曲者、演奏者のセンスというか性格の出る部分でもある。構造的には一応何種類かパターンはあるにはあるけど、それを応用すると数知れない形が生まれる。ジャズは即興的にやる部分も多いからあまりパターンにこだわると不自然になる。すんなり終わりたい時に終わるのがボクは一番いいとは思うけど・・・。それにしてもなんらかの手を加えないと終われないのが現実だ。ギャグを使うと仲間内には喜ばれるけど、何時も何時もというわけにもいかない。やはりこの曲のように節度を保った芸術的価値のあるものでないとダメだ。終わった後すっきりした気分になるもの、わざと後に余韻を残すもの、いろいろあっていいけど、やはり演奏の中身を台無しにしないように最後まで緊張感を保つことが必要だ。
この曲にはビルエヴァンスの作曲家としての知恵がつまっている。まずその鮮やかなコード進行の展開だ。Ⅱ-Ⅴ-Ⅰを駆使してよどみなくストーリーを完成させている。もし一回のⅡ-Ⅴ-Ⅰごとに調号を書き換えていたら何回変えなければいけないだろう。そのキーを追っていこう。Am-CM-E♭M-GM-BM-E♭m-DM-CM-Em-Dm-Cm-(A♭M)-Cm-CM-Am-C♯mもちろん一回づつ調号を書き換えるなどというのはナンセンスだ。このぐらいの回数の調性の変化はロマン派の作曲家の音楽にはよくある。でもその変化の仕方がジャズミュージシャン独特のものだ。調性というのは何百年もの間、音楽家の間でその存在意義を議論されてきたいわばやっかいものだ。調性そのものの是非は今は書くつもりはないけど、インプロヴィゼーションをやっていく上での「調性感」はジャズミュージシャンが何時も強烈に感じているもので、ジャズは音楽理論上での調性に関する議論に一石を投じたと思う。即興演奏しながら自分が頼るべき音を探るというのは独特の感触でそれを磨かないといい演奏はできない。それは調性というものが是か否かというような問題ではなくてジャズをやるためには調性に対する鋭い感覚が絶対必要だということだ。この感覚がジャズを演奏するための才能に直結すると思う。エヴァンスに自覚があったかどうかは分からないけど、この曲のこの調性感はビルが長い間のジャズの演奏で身につけたものだと思う。
ビルエヴァンスのオリジナル、多分60年代前半の作品だと思う。ビルのお父さんが亡くなった直後、父の思い出としてタウンホールのコンサートでソロピアノを演奏した時、4曲のメドレーの中に入っている。その後ジムホールとのデュオのアルバムにも収録され、70年代に入ってからはトリオでの重要なレパートリーとなった。実はこの曲ジーンリースという作詞家と一緒に作った歌詞付きの曲で、歌詞にエヴァンスが曲を付けたといってもいいような流れで出来上がった曲なのだ。自由奔放な詩によくいいコードとメロディーをつけたものだ。こういう時にこそ音楽家の底力がでるものなのかと思ってしまう。この詩をなんとかいい音楽にしようという執念がないとこういう発想は生まれてこない。いわば詩に創造力を引き出してもらう形だ。エヴァンス自身が望んだのかどうかは分からないけどこういうやり方は過去の大作曲家たちもよくやっており時々とんでもない名曲を生み出している。人間というのは何かを創造する時、完全な自由を与えられるとかえって自分で自分を縛ってしまう。でもあまりにも縛られると当然どうにもならない。適当な縛り、創造するための「負荷」があったほうが、自由を求めるパワーが呼び起こされる。やはり芸術家というのは本来「あまのじゃく」なんだろうか?とにかくこの曲にはビルの音楽的教養がつまっている。シューベルトやワーグナーでもない、バートバカラックでもない。モダンジャズピアニストの作った歌曲の名曲だ。
この曲の特徴はズバリ!フリジアン風であるということだ。もちろんフリジアンモードで作られているわけではないけど2小節目にコードがFM7にいった時点でその雰囲気を感じてしまう。そのあとB7からCM7に移行するところでは13thから半音でカウンターポイントが下行しCM7ではリディアンスケールを使うのが常道になっている。7小節目にメロディーが解決するところはフリジアンスケールを匂わせるラインだ。ベースはアンティシペートされてすでにE音に解決している。その上にドミナントであるF7が乗っている形だ。この8小節をリピートしサビはサブドミナント扱いのAm7からだ。次のFM7は♯11がメロディーだから完全にリディアン、Am7に対する6度♭、サブドミナントのように響く。そのあとこの曲で唯一のⅡ-Ⅴが登場する。Dm7-G7だ。そしてCM7に一旦落ち着く。このCM7がEフリジアンをより感じさせる要因になる。形式は完全なA-A-B-Aの32小節。こうして見てみるとこの曲は世界中のいろんな音楽の要素がつまった曲でジャズというグローバルな音楽そのものということが理解できる。モダンジャズの創成期、ミュージシャンたちはインプロヴィゼーションを研究する過程でいろいろな音楽からインスピレーションを得ようと努力していた。もちろんこれはマイルスデイヴィスの作品だ。彼のセンスが前面にでていることは確かだけど、当時はジャズ界がそういう模索を続けていたすごくパワーのあった時代だったんだ。