ジャズピアニストのジャズ批評

プロの耳で聞いたジャズをミュージシャン流に批評。

Beat's Up Ⅱ

2011-02-27 00:36:06 | Weblog
ふたつの音が同時に鳴るとそこにハーモニーがうまれる。音楽はひとつの音の世界とふたつ以上の音の世界に分かれる。でも現実にはひとつの音だけで成り立っている音楽は今の世の中にはほとんどというかまず存在しない。メロディーという時間軸をともなった音楽メッセージもすべてハーモニーという縦の軸を引き連れているのだ。数百年前から確立されたヨーロッパアカデミズムはこのハーモニーに対する研究、和声の構造を解き明かすのに多大な労力を費やしてきた。ジャズミュージシャンもこの和声の仕組みを理解することからジャズの勉強を始める。でもしばらくジャズの体験を積むと、同じメロディーを同じコードのときに演奏してもやるたびに響きが微妙に違うことに気がつく。いろんな要因があるが、ベーシストが四分音符を四つ弾いた時にそれはよく起きる。これは同じコードの中でその時その時で即興的に違うハーモニー、要するに新しいコードが生み出されているのだ。こまかく分析したらその進行には時には不自然さや理不尽さがともなう。でもそれでいいのだ。それがジャズインプロヴィゼーションの本質なのだ。そして時に想像もできなかったような新鮮なハーモニー、かつてなかったような新しい和声が響き渡ることもある。その時のドキドキ感は言葉にできない。ジャズの名盤と言われているアルバムにはそういう場面が随所にある。そして実際のライブ演奏では毎晩起こっている。そういう貴重な瞬間を感じとるにはなんといっても受けとるためのニュートラルな気持ちが重要だ。そしていつも頭は柔軟に・・・。

Beat's Up

2011-02-20 00:58:49 | Weblog
トミーフラナガンが書いたリズムチェンジだ。メロディーらしきものはない。オーソドックスなジャズ独特のリズムパターンがあるだけ、形式は完全なA-A-B-A、トミーフラナガンが何時どのくらいの労力を費やしてこの曲を書いたのかは定かではない。できたものを聞くとすぐにも作れそうな気がする。でも実際は思いつくというのは大変なことだ。まさにインプロヴィゼーションのための楽曲、ジャズプレーヤーのための曲だ。リズムチェンジというのはいろんな解釈が可能だ。だから幅広いアドリブ素材としてジャズの世界に存在している。コード進行を特定したりするのはナンセンスだと思うけど、ひとつトナリティーに関して個人差がよく現れる現象がある。それは全音階的なものと半音階的なものとどちらよりのアプローチをするかということだ。7音のスケールにそってアドリブしたらそれは歌いやすいけど、どうしても退屈になってしまう。半音階的な音はどうしても必要になってくる。要はその割合だ。トミーの演奏はかなり全音階的だ。これは彼の個性であり、またそのメロディーセンスとリズムのよさで素晴らしいインプロヴィゼーションになっている。でもジャズの演奏の中でのこの問題はひとりがどうのこうのということではないのだ。この音楽的な問題にはベーシストの弾く音が大きく関わってくる。メロディーがトナリティーに沿っててもベースラインが半音をいっぱい使ったら全く別の響きになってしまう。ジャズのサウンドというのはバンド全体のことなのだ。そしてベースラインの音選びはベーシストのセンスにかかっている。ジャズのアドリブというのはもちろんソロをとっている人がリードする形で音楽は進んでいくけど、その音がどう響くかはまわりのミュージシャンのセンス、特にベーシストの力量に大きく左右されるものなんだ。

Alone Together Ⅳ

2011-02-12 01:36:03 | Weblog
この曲もいろんな形でアレンジされ、演奏され録音されてきた。数えきれないだろう。ライブでの演奏はもちろんそのバンドの個性もあるだろうけど、そんなに複雑なアレンジはしない。やはりその時即興的に起きるジャズ独特のおもしろさが大事だ。プレイヤーもお客さんもそれを楽しんでそれでいい。でも録音し、それを世の中に発表する、リリースするとなるとやはりそうはいかない。どうしても個別化を計ろうとする。プロとしてはそうせざるをえない。過去にいろんなヴァージョンのあるスタンダード曲だと大変だ。今から半世紀前、ジャズがまだ前衛として存在していた頃ならちょっとしたことでも新鮮に響いたかもしれない。でもいろんなミュージシャンが同じ曲を何度も録音として残していくにつれその新鮮さは消えていった。新しいやり方を探すのは至難の業だ。アレンジというのは本来その曲を良くするため、良さを引き出すためにするものだ。それが単に奇をてらうようになるとアレンジそのものの意義が薄れてしまう。今アレンジという言葉を使っているけど、これはジャズ用語の「クッキング」に置き換えてもいいと思う。「クッキング」はアレンジに加えて演奏の中身そのものという意味合いになるかもしれないけど、そうなるとますますスタンダード曲の中に新しいものを求めるのは難しくなってくる。そしてジャズミュージシャンが演奏のために作り出す曲を除いては、20世紀の中盤までに生まれたような英語の歌詞のついたジャズスタンダードが新しく生まれる下地はほぼ無くなりつつある。インプロヴィゼーションというのはまさに「今」の音楽だ。でもそれには素材がいる。今はそれを探し出すのが大変だ。現時点での自分の音楽に合った素材を見つけるために常にかなり感度のいいアンテナを張っていなければいけない。

Alone Together Ⅲ

2011-02-05 01:03:28 | Weblog
スタンダード曲をいろんな種類の楽器編成で演奏するというのは、ジャズの世界ではごく普通のことで日常的に行なわれている。ジャズの世界というか今はカヴァーという名前でポップスの世界でもいわば何でもありだ。やはり良いのも良くないのもある。まあほとんどは単に奇をてらったものだ。音楽を演奏するのに一番区別すべきものはやはり歌のためのものか楽器のためのものかということだ。もちろん歌のための音楽の方が断然歴史は古い。楽器だけのために音楽がつくられはじめたのは数百年前だ。人間の声だけでは表現できない芸術としての音楽を演奏するために作られはじめた。その裏には楽器自体の質の向上という理由がある。ピアノはその最たるものだ。現在のピアノに近いレベルのものが生産され始めた頃からピアノのためだけの曲が作られはじめた。そしてピアノ音楽として確固たる地位を築いた。今も輝いている。ショパンやドビュッシーに代表されるこのピアノ音楽は他の楽器、ヴォーカルに置き換えるのは難しい。あまり成功しないのだ。それは平均律というシステムとピアノ独特の波形にある。そんなことは分かっているのに音楽産業にはいろんなものが出現する。まあでもこんなことは今に始まったことではない。何百年も前から大作曲家の名曲をカヴァーするという行為はさかんに行なわれていた。シンフォニーをピアノ曲に、ピアノ曲を弦楽曲に、声楽曲をピアノ曲に・・・。ほとんどは失敗するが、ごく稀にラヴェルのように後世に残るようなカヴァーを作るひとも現れる。いちがいに否定はできない。「フェイク」、この言葉が良く響くか悪く響くか分からないがこの言葉はジャズ独特のものではなく、音楽が古来からもっているいわば創造の源なんだ。