ジャズピアニストのジャズ批評

プロの耳で聞いたジャズをミュージシャン流に批評。

Joy Spring Ⅲ

2011-06-26 23:41:08 | Weblog
この曲はほとんどがジャズのコード進行独特の4度進行いわゆる強進行で構成されている。転調もされているし、小節の数も32、コード進行だけを途中から聞いてもすぐ今どこをやっているか分かる。この自分の居場所をすぐ教えてくれる和声の進行というのが実はインプロヴィゼーションをやっていくうえでの重要な必要条件なのだ。そしてこの、音楽の今の場所をはっきり示すというのが「機能的な和声進行」というもののもっとも大きな存在意義なのだ。和声のことを形容するのによく色彩を用いる。まあそれもいい。音楽の色合いをはっきりさせるということに間違いはない。でもこのいろんな意味で音楽をはっきりさせるということは逆に縛るというか決め付けてしまうことに繋がる。かといって完全なポリフォニーの世界のように和声が偶発的だと音楽がどうしても必要以上に複雑に感じられてしまう。ここに人間の音楽に対する美感覚の一端が見える。要するにあまりにもはっきりしても必要以上の複雑でも「良い音楽」とは感じないのだ。ジャズインプロヴィゼーションはほとんどの場合、強固な進行を持った和声構造をもとに演奏する。でもそれに縛られると内容がはっきりしすぎてスクエアになってしまう。逆にあまりにもそのルールを破ると何をやっているか分からなくなってしまう。ヒップな演奏を目指すならその間を狙うしかない。言葉で言うとこれは何を言っているか分からないかもしれない。でもこの感覚、これしかない。

Joy Spring Ⅱ

2011-06-21 02:35:00 | Weblog
今、音楽作りの基本になっている和声のルールは突如だれかの手によって発見されたものではない。数百年にわたる数々のミュージシャンの感性と研究によって徐々に組み立てられてきたものだ。和声学と呼べるものの最初の文献はJ.ツァルリーノが書いた1558年のものらしい。和音の進行になんらかのルールを設定することが音楽の重要課題だということは、音楽家の共通認識だったことは間違いない。その後いろんな人が修正したり加えたり、中には画期的なものも現れたりして現在に至っているが、内容に違いはあっても、音楽を和声のルールによって律するという理念は変わらない。ここで考えてみたいのは何かを律するということはその何かに逆に律せられるということでもあるということだ。その何かとはなにか?「調性」だ。和声のルールは調性を管理しようとしてその調性にしばられて身動きできないときがある。そして音楽自体も窮屈になる。和音というのは複数の音程の集合体でその和音が何らかのルールのもとに連なって和声進行が成り立つ。その中で12個の音にそれぞれ違った価値を与え中心になる音を決める。こうして音楽はいわば人間の「管理下」に置かれるわけだ。しかしそれはその音楽が調性という得体の知れないものに支配されたことを意味する。インプロヴィゼーションは、即興といういわばもっとも感覚的な表現方法の中でこの音楽のルールとどう闘っていけばいいのだろう?クリフォードブラウンは若くしてジャズマスターになったけどこの質問にはどう答えてくれるだろう?彼の演奏が答えか?

Joy Spring

2011-06-14 01:04:36 | Weblog
クリフォードブラウンの作品、コード進行や形式からみても明らかにインプロヴィゼーションを前提にした楽曲、いわば真正のジャズスタンダードだ。A-A'-B-A、32小節。A'はAの部分のキーを半音あげている形だ。全体的にドミナントモーション、Ⅱ-Ⅴ-Ⅰのジャズ独特の和声進行だ。ドミナントモーションはもちろんルートの4度進行とトライトーンの解決がもとになっているが、トライトーン(3全音)はホント音楽構造のジョーカーと言ってもいい特別な存在の音程だ。まあ語り出したらキリがない。その中で以前に読んだヒンデミットの著書の中でヒンデミットらしからぬ?記述があったのを思い出したのでここでちょっと・・・。3全音が他の音程と一緒になって和音を構成する場合、最強音程の力に屈すると書いてあるのだが、その文の前に「経験上」とつけてある。これを読んだ時しばらく笑ってしまった。要するに音程という多声部音楽の基本になるパーツの性格は人間の五感の経験によって判断するしかないと、ヒンデミット博士が白状してしまっているみたいに感じたのだ。これが音楽理論の真実なのか?文章の内容にはボクも大賛成だ。でも倍音列、結合音から順に導き出して根音の存在や意義を重要なテーマにおいてロジックを展開している音楽家ですら、音楽の存在というのは捕らえきれない幻のようなものなのかと思ってしまう。

Misty Ⅳ

2011-06-05 23:41:09 | Weblog
音楽の聴き方はひとそれぞれ、良いという人もいれば良くないという人もいる。音楽に接した最初の瞬間からみんなそういう感覚をもっている。でも音楽のプロを目指した瞬間にそれはそう簡単ではなくなる。人の評価を受けるためにはどうしたらいいか?真剣に考えるようになる。プロの聞き方というのはどういうものだろう?プロのジャズミュージシャンはインプロヴィゼーションに対してどんな感覚を持っているんだろう?そういうことが分からなければ生き延びていけない。切実な問題が浮上してくる。そうなると自分がどう思うかというのはどうでもよくなる。レベルが高いなあと感じたひとからなんとか本音を引き出して身につけようとする。自分の意見は言わない。そんなものはあって当然のものだからだ。自分はこう思います、なんて言ったら先輩たちは「ああ、そう」で終わり。何にも言ってくれない。ひたすら本音を待つ。僕はプロになって10年以上そうだった。これは一種の防御反応だと思う。でも「音」といういわば現実のものを「音楽」という抽象的な芸術に組み立て、より多くの人、そしてプロミュージシャンに認めてもらうためにはプロの本音の見解が不可欠なのだ。その良し悪しの判断をもとに音楽を作っていく。やはりどんなに才能があっても経験の浅いうちは音楽の見方も一面的だし、いわゆる深読みができない。音楽の好き嫌いは誰にでもある。でもプロでやっていくかぎりそんなものは世間はほとんど許してくれない。その嫌いな音楽にどう対峙していくか?実はそれもひとつの楽しみなんだ。