ジャズインプロヴィゼーションって何ですか?と聞かれたら「即興の変奏曲ですよ。」というのが一番分かりやすい答えだと思う。じゃあ変奏曲ってなんですか?と聞かれたらこれは実は結構困る。「変奏」(Variation)の定義は旋律の修飾とか旋律の転回、逆行、和声の変化とかいろいろあるけど、どれもつきつめたらはっきりしないものばかりだ。「変奏曲」は作曲の勉強をすると必ずやらされる。でもその実体は人が人にものを教えるといったようなものではない。教えようがないんだ。確かに音楽における変奏はそれこそ太古の昔から存在している。なのにほとんどマニュアルがない。本当に不思議なしろものだ。時々考えることがある。この変奏曲こそ音楽そのものではないか?と。音楽というのはすべて変奏曲なんだ。だから作るための方法論がない。バッハのゴールドベルグ変奏曲は優れた芸術作品だけど、取り立てて変奏曲という必要もないんじゃないか?このテーマをこう変えました、という種明かしみたいなのも面白いといえば面白いけど、全てが独立した作品なわけだし、特にバッハの音楽はどこからどこまでが変奏であるかという線引きは難しいと思う。それにそんなことをはっきりさせるのもナンセンスな話だ。クラシック音楽の大家たちは自分の音楽をしっかり「楽譜」という形で残している。いろんな分析をされてもある程度しかたのないことだ。でもジャズインプロヴィゼーションはどうだろう?即興で感じるままに変奏曲を作って演奏しその音は録音しない限り空気の中にすーっと消えていってしまう。人々の記憶にだけ残る。この曲のどこをどうしたとかそんな分析が必要だろうか?空気の中に消えて行く一つ一つの音符それぞれが演奏しているミュージシャンのその日の音楽なんじゃないだろうか?音楽から感じるパワーとかひらめきはもっと「刹那的」なものだと思う。音楽を変奏する、インプロヴァイズするというのは瞬間的なものの積み重ねなんだ。
この曲はバドパウエルの若いころの作品だけど、存在を知ってチェックしたのはチックコリアがさかんにソロで演奏するからだった。実はその前にパウエルの演奏は聞いていたけどあまり印象に残っていなかった。今思えば恥ずかしい話だ。チックの演奏を聞いてコードをコピーしてるうちにオリジナルを確かめようとバドパウエルのソロピアノをよく聴いてみるとその内容のすごさに驚愕してしまった。とにかく50'年代半ばのバドのピアノはすさまじい迫力だ。チックがほれ込むのも無理はない。曲自体は言い方は悪いかも知れないけど、なんの変哲もない構成なんだ。Ⅳ♯m7-5から4度進行で来てリピートの前はⅡ7でメロディーに♯11、16小節を繰り返す。最後はトニックの♯11。真ん中にサブドミナントとサブドミナントマイナーが組み込まれている。乱暴に聞こえるかも知れないけどこれぐらいの説明で分かるぐらいの曲の構造なんだ。いわばアドリブの練習曲のような・・・。クラシックピアノの練習曲集にチェルニーというのがある。誰でもやる有名な練習曲集だ。何段階かに分かれて何冊かになっている。ピアノを習うとほぼ例外なくそれを順番にやっていく。苦痛だ。こんなものをやって本当にピアノがうまくなるんだろうか?いつも疑問に思っていた。未だにその答えはわからない。でもチェルニーの曲をいくらうまく弾いてもそれで聴衆を魅了することはできない。パウエルのこの曲がチェルニーの練習曲と一緒だとは言わないけど、ジャズインプロヴィゼーションのすごいところは平凡な素材をプレーヤーのインスピレーションで芸術にしてしまえるところだ。パウエルの演奏はすごい。ジャズにおける曲と演奏の関係はこういうこともあるということだろう。
ソニーロリンズはとにかくジャズ界に偉大な足跡を残したまさに巨人だ。このことに異論を唱える人はいないだろう。彼の吹くホーンは彼の歌そのもの、知的でありながら情緒にあふれている。数知れない人たちを虜にしてきた。ボクもそのひとりだ。でも40年近く前ジャズのことなど何も知らなかったただの少年だったボクがロリンズを聴いたときの印象はとにかくその「分かりやすさ」だった。ソニーのアドリブを聞いていると今曲のどこをやっているか、コードは何なのかがハッキリ分かった。もちろんその頃はコード進行のなんたるかなどは知らなかった。でも和音の移り変わりがよく聞こえたのだ。他のどんなプレーヤーよりも・・・。だからよく聴くようになった。ジャズという音楽に近づくきっかけをつくってくれた。音楽はその時代の価値観の変化によって確かに形は変わる。でも人間の美意識はそんなに簡単には変わらない。確かに数百年前のヨーロッパ人のような宗教観や美意識は現代人はもっていないかもしれないけど今でもバッハやハイドンの音楽に「美」を感じる人は多いはずだ。音楽という芸術の中の永遠に変わらないもの、こういうことを結論づけるのは100年早いかもしれないけど、あえていうならそれは「構造美」だ。これはジャズインプロヴィゼーションにもあてはまると思う。ソニーロリンズはその具現者だ。
この曲の構造をおおまかに言うと、A-B-A-B'、Aの部分はマイナーのトニックとドミナンテ、BおよびB'は平行調の中での半音階的な進行も含むⅡ-Ⅴ-Ⅰが中心になっている。小節数はBの方がB'よりちょっと多いけどそんなに難しい数ではない。全般的には前にも言ったように平行調の出し入れとドミナントモーションというビバップそのもののコード進行だ。メロディーラインもなんの変哲もない。でもこの堂々としているところがいい。音楽はルールとの戦いだ。つくづくそう思う。メロディーもコードもルールだらけだ。でもそれには理由があり必然性があるから従わざるを得ない。それを逸脱すると音楽にならないんだ。音楽を勉強し始めた頃はそのルールを覚えるのに必死になる。いっぱいあるから身につけるだけでも大変だ。そのうち規則の中でやるのが普通になってくる。結構そのルールが美しくも思えてくる。でも人間はわがままだからじきにそれをなんとか打ち破れないかとそればかり考えるようになる。それが新しい音楽につながると思うからだ。でもことはそう簡単じゃない。自然界の摂理と関わっているともいえるいろんな音楽の規則を個人の力で変えるのは大変だ。ほとんどは失敗する。でもその過程で音楽のルールとは何かということをより深く考えるようになる。音楽家が何十年というキャリアの中で体験するのはみんなこれに似たようなことだ。だから最終的にどうなるというものではない。個人差がある。でも音楽を知れば知るほどその持っている規則性、人間の犯すことのできない厳格なルールが身にしみてくる。ジャズインプロヴィゼーションもその縛りを受けて存在している。音楽から受ける開放感とこの強烈な束縛感がどうつながっているのか?ほんとに不思議だ。
ビバップという言葉は音楽全体のサウンドの印象を指す場合もあるし、リズムやインプロヴィゼーションの音使いの特徴を指す場合もある。音楽の呼び名はあいまいなんだ。だからこの「Airegin」がビバップの曲だといってもそうじゃないと言われたらそれまでだ。ボクがこの曲をビバップだというのは、主にコード進行を中心とした音楽構造がそうだからだ。'40年代後半から'50年代、ニューヨークのジャズシーンでビバップの名手たちの中で鍛えられ才能を開花させたソニーロリンズは後年の独特のサウンドにいたる前、特に20代前半まではかれの音楽はビバップそのものだった。そしてビバップを完全にものにしていた。この「Airegin」はその頃書かれた。具体的な説明はちょっと後回しにして、過去の音楽をやるということに関して考えていることをちょっと・・・。ジャズインプロヴィゼーションはその即興性に価値がある。何十年も前のポップ曲をやっても今の音楽にできる。それがもっともジャズのすごいところだ。でもそれがちょっと寂しいところでもある。感傷的かな?ジョージガーシュウィンのスタンダード曲をビバップの名手が演奏している。これは立派なビバップという音楽、ジャズだ。でも今僕たちが演奏したらどうだろう?それはもう音楽の語法が違う。ビバップにはならない。それはそれでいいんだけど・・・。でもこの「Airegin」はどうだろう?。インプロヴィゼーションの展開方は「今」かも知れないけど、演奏してみるとなぜかビバップを体験できるんだ。ビバップの名手たちが感じていた音の流れそしてなにより時間の流れのテンポが感じられる。これはプレイヤーだけに許された特権なんだ。過去の音楽というのはその時代の時間の流れを表現している。おおまかに言うとここ数百年どんどんせっかちにはなっているけど。だからいつも思う。ジャズプレイヤーは何時も「今」のタイム感覚で音楽を作る。でもクラシックの演奏家は何百年も前の時間の流れを体感できる。タイムマシンに乗れるんだ。こんな面白いことはないと思う。過去の音楽を演る、聴くというのは現実ではあり得ないそういう感覚を呼び起こしてくれる。残念ながらアドリブをやっている限り「今」に追いかけ回される。これがいいのやら悪いのやら・・・。うううん・・・・?