この曲のソースは「Show Me the Way to Go Home」つまり変奏曲だということだ。シルヴァーはこの手法で無数の曲を書いている。まあシルヴァーに限らず作曲家は古今東西みんなそうだ。曲作りのネタを常に物色しているとそういうところにたどり着いてしまう。作曲の習作にもこの変奏曲の練習は必修だ。極端な話、現存する楽曲はほとんどがなんらかの変奏曲だと言い切る作曲家もいる。だからポップス曲で時々起こる盗作云々の話ははっきりいってナンセンスだ。でもそこに著作権料という金銭がからむから事が勃発してしまう。これは実は白黒をつけるというような問題ではない。音楽の本質論からは程遠い。変奏曲で重視されるのはまず和声進行、そして2声部の囲みの音程だ。コード進行だけ一緒でも囲みの音程関係が原曲より劣っていたら、パッとしない曲になってしまう。変奏する意味がない。ポイントになる部分の2声部の音程の善し悪しを判断する感覚がなによりも必要だ。そしてジャズの演奏にはインプロヴィゼーションがついて回る。これをとにかく念頭におかなくてはいけない。これがかなりの高いハードルだ。やってみないと分からないことが多い。結局順番としては・・・曲を書く、バンドの練習に持っていく、とにかく演奏してみる、みんなの感触を聞く、いけそうだったらライブでやってみる、何度か演奏して答えが出る。でもそれが世間やミュージシャンに広く受け入れられるかどうかはその先の話だ。ジャズスタンダードが一曲成立するのには大変な淘汰の試練をくぐり抜けてきているということだ。
シルヴァーの作品、前の「Doodlin’」と同じHorace Silverの名を冠したジャズメッセンジャーズのアルバムの中の曲で、録音は1954年から55年にかけて行われている。この2曲が結果的には、ヒットしてのちにスタンダードと呼ばれるようになった。バンドの内部事情は当事者でないと分からないが、ブレイキーとシルヴァーがその後別の道に進んだのは金銭的な問題が原因らしい。1954年といえばまだチャーリーパーカーは生きていた。ビバップという音楽が市民権を得、黒人ミュージシャンがレコード会社と契約し、オリジナル曲の著作権を得たりしてモダンジャズがいわゆるハングリーミュージックとして成立していた時代だ。その背景があるから金銭問題が発生する。当時ジャズミュージシャンが契約していたのは今で言う「インディーズ」でこのアルバムも初期のブルーノート盤だ。具体的にはどのくらいの金額が動いていたのか定かではないが、失礼な言い方だけどそんなに多額だったとは思えない。そして世間を意識してレコーディングはしていただろうけど、自分たちの音楽がアメリカの文化として世界に発信され半世紀以上経った今でも世界中で聴かれ、そして若いミュージシャンの目標になるというところまでは考えていなかったと思う。しかし当時のトップクラスのジャズミュージシャンの音楽はパワーと個性に満ち溢れている。こういう音楽を後世に残したのは、レコード会社を中心とする音楽産業の大きな業績だ。経済社会と芸術の狭間でミュージシャンとはつねに軋轢を抱えている業界だけど、こういうところは認めざるを得ない。
モダンジャズのブルースは音楽的にいろんな要素を含んでいる。これは都市型音楽には全般的に言えることでリアルクラシックの世界でも同様だ。要はその程度問題であるわけで、ジャズという音楽はその発生の過程からしてもより多くの要素を取り込まざるを得なかったのだと思う。そしてジャズの世界にはインプロヴィゼーションがある。これを想定することなしに楽曲は成立しない。ブルースはいろんな要素をごちゃまぜにでき、インプロヴィゼーションにも適するという特性を持った音楽形態だったのだ。その根本的な原因になるパーツは「増4度」、この音楽上のジョーカーをいろんな使い道をすることでモダンブルースは成立している。この「曖昧」という言葉でよく表現される音程が、いろんな価値観を受け入れ、即興演奏のミスを正当化してくれる。音楽の特効薬みたいなところもある。実際この考え方がなければインプロヴィゼーションは退屈で窮屈なものになってしまう。もちろん穏やかで厳格な和声進行を心が欲する時もある。でもトライトーンのいっぱい聞こえる究極の「なんでもあり」の世界がいいときもある。それが人間の感性だ。その場に応じてその緩急の間をさまようのだ。計画なんか立てる必要はない。心地よい緩急の繰り返しは人間の生活のリズムと同じ、どちらかにかたよった極端なものは結局人間は望まない。
ブルースという音楽は詩的な音楽だ。この表現がぴったりかどうかは分からないけど・・・。とにかく明確なコードやメロディーもない。それが「ブルース」だ。ジャズはその組織的に組み立てられた構造の中にこのブルースという得体のしれないものを取り入れた。それもジャズの創成期の話だ。時代や価値観が変化する中でジャズの中でのブルースの表現法はいろいろ多岐にわたり、そして演奏されてきた。でもその絶対的な存在感は変わらない。いろんな表現法というのは、いかに西洋アカデミズムと融合させるか?そのバランスをどうするかということで、もっと簡単にいえばブルースの中にどのぐらいドミナントモーションや12音を使ったリハーモナイズを取り入れるか?ということだ。それには12小節の中に取り入れていい場所とそうでない場所がある。当然ダメな場所は5小節目、あとの場所はどこをどうやってもいい・・・ということなんだけど、それはただの言葉だけの話、モダンジャズのすぐれたブルース演奏は実は驚くべきシンプルさでできている。ドミナントモーションを使える場所といったら、すぐに思い浮かぶのは4小節目そして7小節目以降だ。でもシルヴァーのブルースプレイはそれすら最低限、ウラのコードを使うことすらほとんどやらない。そして彼は真の「ブルースメン」だ。もちろん個人差はあるし、受けとる側の要求も時によって違う。これといった決め手はない。でもブルースには守らなければならない「何か」がある。それはジャズの存在意義そのものだ。