これは一応チャーリーパーカーのアルバムのことなので、このアルバムについてのこともちょっと・・・。ヴァーブから出されたLPではあるけど、なんというかLP時代の前夜というか、アルバムとしての音楽の統一感はない。今で言ういわゆるコンピレーションアルバム、パーカーが死ぬ2年前だ。この当時は録音技術が日進月歩というか、急激によくなる過程にあった。それでも、数年後の技術のことを考えたら、チャーリーパーカーにもうちょっと生きていて欲しかった気もする。でもこの時期のマイクロホンで録ってこの音だから、実際の生のサウンドはホントにいい音だったんだろう。パーカーの生の音を聴いた人は今この世にどのぐらいいるだろうか?サーチャールストンプソンというピアニストがだいぶ前だけど、日本に住んでいて、日本で仕事していた。パーカーと競演したことのあるピアニストだ。その当時でも確か80歳ぐらいだったけど、元気にピアノを弾いていた。ボクはもちろん一緒にはできないけど、一緒にやったベーシストはやはりパーカーのことをさかんに聞いたらしい。彼はパーカーは世間で言われているような無茶な男ではなくてもっと音楽的な男だったとさかんに言っていたらしい。人の話というのは分からないもんだ。そういえばウオルターデイヴィスというピアニストとは会って話したことがある。彼もパーカーが信頼していたピアニストだった。ボクが弾いた後、仕事でもないのに快く数曲弾いてくれた。いままで聞いたことのないジャズサウンドだったのを覚えている。不思議な感じだった。でもパーカーのことは聞きそびれてしまった。パーカーの音楽についてはいくらなんでも論評はできません。今までの経験で、CDやレコードの音だけで聴くのと、客席から実際のステージの音をを聴く、そして一緒にステージに上がって演奏する、この三種類は完全に一致しない。どれがその人を一番よく知るための手段なのか、人間というのは複雑にできているから、結局わからない。残された楽譜だけからその作曲家のことを探ろうとするクラシックマニアの気持ちもよく分かる。人にそういう欲望を起こさせる、まあそれが音楽家の本望とも言えるからね。
楽器の練習というのは、ジャンルを問わずほとんどが結局リズムの練習なんだ。正しい音を正しい場所で出す。言葉でいうのは簡単だけど、いろんな運動能力が必要だからとにかく反復練習しないとできるようにならない。そのうちこなれてくるともっと細かい目盛りを意識していろんなニュアンスで演奏できるようになる。実際にはこの完全にこなれた状態まで身についていないと演奏はできない。ジャズのリズムは複合リズムだから、その能力というかリズムセンスがより高いものが要求される。そしてスウィング感という大事なものがある。ちょっと説明しづらい得体の知れないものだけど、ジャズという音楽の根底に流れる命の源泉だ。これらを理解して身につけないとジャズのバンドには参加できない。これがジャズのルールのひとつだ。もうひとつは音楽の縦軸、12個の音の使い方だ。正しいリズムの目盛りにどの音を選択してだせばいいのか?具体論になると理論書みたいになる。それだと意味がないから、モダンジャズ独特の不文律みたいなのを暴露してみよう。それは自分が今いる音楽空間、抽象的になるとよくないから、ハーモニーと考えてもらってもいい。もっと具体的にコードネームをイメージしてもいいだろう。それの音楽の中での位置、<トニックやドミナンテと思ってもいい>それを正しく共有することなんだ。でもこれは音楽をやれば初期の段階からみんなできることで、なあーんだと思うかもしれないけど、実はこの感覚を「抽象化」することで高級にするんだ。コードをもっと抽象的な音のかたまりとして捉えるようにする。自分の今の居場所がトニックであるのにわざと他の人とずらしてドミナンテにしてしまう。これは一種のジョークだけど・・。音楽の中での「静」と「動」を絡み合わせる。複雑なコード進行とシンプルなコード進行の区別をなくす。こういう風にして音楽の中でいろんな「遊び」をやる。目的は一つ、「ヒップ」だ。でも自分の居場所を見失わないという最低限のルールは守る。こういう行為というか作業の中に一般的に言われる自由というものがあるのかどうかボクには分からない。確かに演奏しているときは日常の中で一番開放されている感じではあるけど・・・。分からない。
ジャズをやるのには、音楽を組み立てるためのルールが不可欠だ。クラシック音楽は偉大な作曲家が立派な楽譜にして残してくれている。演奏家はそれをやるだけだ。本当はその構造をちゃんと理解して演奏するのが本筋だけど、そこまでたどり着いている人は皆無に近い。音楽上のルールというのは、いい音楽を作るためのものなのか?いやそんなレベルの問題ではない。「ルール」こそが音楽そのものなんだ。これは決して極論ではない。ルールというと、しばりを加える窮屈なものみたいに聞こえるかもしれないけど、これがないと全く音楽というのはできないんだ。それも熟知しないとだめだ。中途半端な理解だと、窮屈なだけだ。チャーリーパーカーはジャズのルールを熟知していたからこそ、その中であんなに自由なプレイができるんだ。クラシックの大家たちはその時代によって傾向はあるけど、それぞれ個人的にルールを設定して、芸術を作り上げた。特に19世紀後半からは、個人差が大きく作品に反映されるようになった。これも時代の流れだろう。でもほぼ無制限の自分の時間を使って作品を書くわけだから、それでいいんだ。それが「作曲家」そのもの、そういう時代の流れだったんだ。ジャズはバンドで即興的に作曲していく音楽だ。前にも書いたように1分間の音楽を作るのに1分間しか与えられていない。だからそのためのルール作りを手探りでやって来た。いろんな知恵を人類みんなでしぼったんだ。それの完成形が「ビバップ」即ち「モダンジャズ」なわけだ。だからジャズの中で自由を得るというのは結構大変なことだ。でも考えてみたら人間は自然界のルール社会のルールを受け入れてその中で生きているわけだから、その対処の方法は分かるはずだ。簡単な自由の中に幸福感は存在しない。
モダンジャズという音楽は、インプロヴィゼーションのためのインフラというか、筋の通ったルールを確立した音楽なんだ。その意味で他の数あるジャンルの音楽とは完全に一線を画している。これは別にボクがジャズ好きだからだとか、ジャズを一段上の音楽と見ているということではない。もちろんモダンジャズも傾向としてのジャズサウンドみたいなのはある。だからその意味で他の音楽との比較は出来る。でも音楽のルールを作ったのはモダンジャズだけだ。即興演奏というのは、その昔はさかんにやられていた。何百年も前の話だ。でもクラシック音楽が産業になって、忘れ去られてしまった。ジャズの創成期、インプロヴィゼーションは、簡単なリズムフェイクという形で登場した。その後、それを磨くために天才たちがいろんな工夫を積み重ねていった。ほとんど手探りだ。でも才能さえあれば正解にたどり着く。そして数十年たって、12個の音を使って即興演奏をするための舞台装置が整ったわけだ。この舞台装置こそがモダンジャズという音楽なんだ。このできた舞台装置をよく精査してみると、いかにジャズが人類全ての財産であるかが分かる。その意味では20世紀のアメリカでしか誕生する可能性はなかったかもしれない。60年代後半、ジャズが成熟してくるとそのビバップのルールを破ろうといろんなミュージシャンが挑戦し始めた。もっと人間にとっていい音楽のルールがあるかもしれない。みんなそう思っていた。でもそれから数十年、結局それは存在しなかったんだ。新しいインプロヴィゼーションのよりどころを求めてぶち壊し作り直し、それはもういろんなことをみんなやっていた。でもみんな結局ビバップに反抗していただけで、無視はできなかった。ビバップを「卒業」したみたいな形で成功したひとはいるけど、ビバップを避けた人は結局、インプロヴィゼーションの何たるかを分かることはできなかった。人間の即興演奏の限界がここにあると思う。音楽のルールの内容についてはまたの機会に・・・。
ビバップという音楽そしてその代表者であるチャーリーパーカーのプレイの音楽界に対する影響力の大きさというのは、30数年前はよくわからなかった。これはボク個人の問題でもあるけど、聴く順序が違うと意外とそんなものだ。その頃はすでにモダンジャズは成熟して変革期にあったし、実験的な音楽も氾濫していた。それらは録音状態だけはチャーリーパーカーのレコードよりはよかったし、パワーだけはあった。音楽のレベルはまあいわば玉石混淆だったけど良し悪しの判断は的確にはつけられなかった。ボクにはそこまでの判断力はなかった。チャーリーパーカーをそれらと同じ土俵で聴いていたわけだ。そのさらに20年ぐらい前、それもそれまでにジャズをいっぱい聴いてきていたら、感想は全然違っていただろうと思う。現にその頃チャーリーパーカーを聴いたクラシックの作曲家たちが異常なまでにその音楽に興味をしめしている。衝撃を受けたジャズファンも多いだろう。それから半世紀以上経過した現在でもその存在の大きさは変わらない。むしろその当時の衝撃の理由がはっきりしてきた。それには音楽の構造上の秘密といったらオーバーかもしれないけど、従来の音楽になかった傾向がある。ジャズミュージシャンが音楽をヒップにするために使っている方法だ。どこまで言葉で書けるか分からないけど、やってみます。今日は頭痛がひどいので後日・・。