音楽におけるリフレイン(繰り返し)の存在は音楽形式、音楽構造の根幹にかかわる問題だ。同じものそして似たようなものを繰り返すことによって、そのモティーフは人間の脳にきざみこまれる。メロディーにこれをあてはめることによってメロディーの2度進行や、5度移行するフーガやソナタ形式などの発想が生まれた。でもこのリフレインはメロディーだけではない。和声にも頻繁にもちいられている。同じコード進行や似たようなコード進行を聞くことによって人間は「音」を「音楽」として認識するという一面がある。これは音楽の絶対条件ではないけど、これがあるから音楽形式が存在するのだ。そしてメロディーのリフレインとコードのリフレインをずらすというような技法の発想も生まれてくる。言葉でいうとちょっとややこしく聞こえるかもしれないが、音で実際に例を聞くと誰でもすぐ理解できると思う。で、問題はこの「リフレイン」をインプロヴィゼーションの中でのテクニックとしてどう生かすか?ということなのだ。インプロヴィゼーションはもちろん即興演奏であって、その時感じた音を出す、それでいいんだけどそれを音楽にするためにはなんらかの方法が必要なのだ。このことに注目して過去の名演奏を聞いてみると、ほとんどのプレーヤーが多かれ少なかれリフレインを活用している。その中でウエインショーターは特別リフレインが少ない。ショーターはフレージングの引き出しが豊富だといえばそれまでだけど、いろんなフレーズを使って即興演奏を良い音楽にするのはすごく大変だ。特別の才能が要る。この「繰り返し」という課題に取り組むことでインプロヴィゼーションはうまくなるのだろうか?演奏されたものの分析はできるけど、やってる時にそんなこと考える必要があるだろうか?個人的にはリフレインは自然にできるから考えるようなものではないと思っているが・・・。
この曲のあたまの4小節、いろんなアレンジはできるけどコードでいうとⅤm7-Ⅰ7が続く。いわばミクソリディアン風の4小節ということでかなりのスペースを感じる。スタンダード曲というのはいろんな要素が必要だけど、このスペースがあるかどうかというのがポイントのひとつだ。ビバップの初期、増4度とドミナントモーション、リハーモナイズが中心のサウンド全盛の頃でもスペーシーな曲は好まれて演奏されていた。そういう曲想も必要だったのだ。音楽というのはやはりいろんな要素が必要でいろんな曲がないと人間というのは結局飽きてしまう。演奏するほうもアドリブの素材の感じが変わらないと新鮮なアイデアも浮かばない。スペースというのは、音楽的な出来事があまり起きないというか音楽があまり動かないで、ある程度の時間的な長さがあるということだ。ギリシャ旋法やグレゴリア旋法を使うということに直結するわけではない。だけどある程度全音階的であることは条件にはなる。でないと結局気分は落ち着かない。セロニアスモンクはこの曲をずいぶん長く演奏していた。ソロでもバンドでも録音を残している。モンクは最初の4小節にベースラインが半音でずっと下がってくるアレンジをしている。これがモンクのこの曲に対する解釈だ。モンクが感じていることは誰にも分からないが、モンクサウンドはいつも独特でそしてオーソドックスだ。核心をついている。「スペース」に対する対処の仕方もさまざまでそれがジャズなんだ。
Jules Lemareの作品、多くのジャズミュージシャンに愛されるスタンダード曲だ。構造のことはまたの機会にして、ピアノの音についてちょっと・・・。ピアノという楽器はその名の通り「ピアノフォルテ」大きい音から小さい音まで自由に出せる楽器だ。だから大家のピアノ作品というのはその特性を生かして、音の強弱を作品の価値観の重要な要素にしているものがたくさんある。間近で聞くとその意味がよく分かる。でもそれは「間近」、つまりピアノを生で聞いた時の話だ。録音は違う。録音技術は十分進化した。いろんな意味で・・・。もちろん音の強弱も捉えることはできる。でも限界がある。ピアノを弾きながら感じる音の強弱と録音されたものとの違いはかなりのものだ。今現在プロでやってるピアニストは録音に接しない人はいない。だから録音された自分の音に慣れている。実際の音との違いを受け入れるのにも慣れているのだ。そして録音されたもので人にアピールするにはどうすればいいかも知っている。要するにライヴと弾き方を「使い分け」するのだ。もちろん価値観には個人差がある。でも録音された自分のピアノがアルバムになって商品化され市場に出るのにチェックしないピアニストはいない。そのときに強弱にこだわるとその伝わり方の違いに愕然とすることがある。やはり生の音とは全然違う。そして全般的に録音は大きい音に弱い。フォルテの音を良い音として伝えきれない傾向がある。フォルテピアノの感覚はやはり人間だからその時々で変わってくる。コンサートホールで興奮して弾く時と、スタジオで落ち着いてやる時には自然と強弱のレヴェルが違う。これは音楽の内容とは関係のない話だ。だから実際には今はもう音の強弱に関しては録音とライブと使い分けないとしょうがない。プロでやっていくには当たり前のことか・・・。
録音という技術が発達してそれが音楽産業になり、20世紀の中盤、ジャズをその標的にして業界が発達したのにはいろんな理由がある。まずジャズミュージシャンの持っている能力の特性・・・簡単な譜面でその場ですぐ演奏できる、ギャラが安い。そしてジャズという音楽が本来持っているスウィングする、人を文句なしに楽しませることができるという特徴。そしてもうひとつ、ジャズインプロヴィゼーションという音楽が持っている「Mistake」という特徴だ。即興演奏にはなんといってもミスがついて回る。ミスはミス、本来は良くない。でもこれがじつはインプロヴィゼーションという「音楽」の特徴なのだ。ジャズという音楽は想像以上に構造的な音楽だ。そしてそのがっちりした構造があるからこそそれをもとにアドリブができる。でも人間は間違いを犯す。その間違いを音楽として受け入れてくれるのがジャズなのだ。そしてその「Mistake」を録音という形で残して商品にしてしまったのが、ジャズアルバムだ。もちろんこれは演奏すべてがミスと言っているわけではない。ミスも含めてという意味だ。音楽家は演奏するとき、ミスを恐れる。信じられないくらい自分自身にプレッシャーをかける。まあそれが集中力にもつながるから否定はできない。でもジャズインプロヴィゼーションの評価というのはちょっと違うのだ。いい加減にやれということではない。ミスを恐れず、自分のひらめきに従ってトライする、ミスした時は自分を許し、そのミスを違う音楽に発展させて行く。それがインプロヴィゼーションの腕なんだ。