アメリカ人は個人主義で日本人は集団主義だというのが通説だが、事実は異なり、日本人が集団主義であるということは全くないことを、心理学の実験結果などをもとに明らかにしていく書。戦後ベネディクトの『菊と刀』の言説を社会全体で思い込み、それが「対応バイアス」となり、さらに社会全般に誤解が浸透していくことが暴かれていく。目からウロコ。刺激的であり、私自身がどれだけ事実と違うことを信じてきたのだろうかと反省させられる。勉強になった。
最近になり、TPPやイスラム諸国に対するアメリカの対応などを見ると、アメリカのほうが保守的であり集団主義的であり、「アメリカ株式会社」と呼んでいいのではないかと思っていた。この本を読むとそれが証明されたような気がして、喜ばしく感じた。一方では日本人は集団主義的だということをいろいろなところで自分でも言っているので、かなりショックを受ける内容であもある。
いずれにしてもアメリカが個人主義で、日本が集団主義だという思い込みはもうやめなければいけないし、さまざまな通説に対してはもっと懐疑的にならなければならないのだ。間違った認識で議論をしてはいけない。
ただし、いくつかの点でもう少し考えてみなければいけないことがあるように感じられた。
「集団主義」という言葉がどういう意味で使われているのか。以前「KY」という言葉が流行ったが、日本人は「空気を読む」行動をとるのは事実ではないだろうか。会議では誰も発言しないのだが、みんなが「空気を読ん」で、発言しないことが賛成の意であったり、逆にそれが反対の意であったりすることがある。これはアメリカではありえないことなのではないだろうか。また、その「空気の読め」ない行動をとれば、仲間外れの対象になって「いじめ」の対象になる。言葉のないまま仲間外れが成立する。このような陰湿さが日本の「いじめ」の特徴であり、だからこそ特異な社会問題となっているのである。日本人の「集団主義」とは、このような「他者の視線を気にし」て、自己の主張をはっきりと言わない国民性のことを言っているという一面もある。はたして、「他人の目を気にする」というのも他の国の人も同じようにあるのだろうか。もう一度検証していきたい。
筆者は「文化の影響力は小さい」と主張するが、小さくても影響力があるのは事実であることも認めている。人間の個性も他国の人と大きくは違わないのは人間であるかぎりは当たり前である。しかし、共通しているものがあればあるほど、その違いが重要に見えてくるのではないか。小さな違いが実際の生活の中では大きいのではないか。このあたりも言語相対主義の問題とからめて検証が必要に感じる。
もうひとつ別の面からの疑問。よく言われる日本の企業の「系列神話」について、実際は日本には系列企業の結びつきは特筆すべきほど強いものではないというのが筆者の主張である。それは事実として正しいというのは、実証的に説明されている。すると逆に不思議に思われるのは、なぜ日本政府や日本の企業は「系列神話」を受け入れているのかということだ。アメリカから批判されたとき、そんな事実はないことは企業の人が一番よくわかるのではないだろうか。それなのにそれに対して何も言えなかったのはなぜなのか。なぜアメリカの言いなりになってしまったのか。そこに何があったのかは戦後史の問題としても検証すべきことである。
以上の点以外にも、様々な点で疑問に感じることがあった。もちろん、これはこの本を批判しているわけではない。この本が刺激的で面白かったから感じるものである。
さまざまなことを注意しながら今後、いろいろなことを考えていかなければいけないし、発言するときに気を付けていこうと感じた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます