とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「コミュニケーションとしきり」(国語教材シリーズ)4

2016-04-25 09:18:25 | 国語
 高校国語教科者に収録されている「コミュニケーションとしきり」についての記述の四回目です。

 ここで3回にわたり、「コミュニケーションとしきり」は論理的でないと書いてきましたが、私の間違いではないかと心配になり、もう一度読んでみました。するとどうも私のほうが間違っているのではないかという気がしてきました。そこで再検討してみます。

 筆者の主張がまとまっている、最後から2番目の形式段落をそのまま引用します。

 なんらかの言葉によるコミュニケーションが必要であるのは、「わたし」と「他者」との間にしきり(障害)があるからだ。では、言葉はそのしきりを取り払うことができるのだろうか。言葉の存在そのものがどこまでもしきりの存在を前提にしている。とすれば、わたしたちは、お互いに仕切りを越えてわかり合える状態、しきりを「透明」なものにするのは不可能なのである。わたしたちは、どこまでもコミュニケーション不能の部分(障害)を抱えているからこそ、コミュニケーションし続けるのである。

 この部分を読み限り、筆者は明らかに言葉によって理解し合う言葉は不可能であり、真にコミュニケーションすることは不可能であることを認めている。コミュニケーションが不能であるからこそ、人間はなんとかコミュニケーションをとろうと言葉を使いあがき続けるということを言っているのである。「言葉は無力だ。しかし人間には言葉以外にない。」という人間のむなしさを語っていたのである。筆者は決して言葉の重要性を語っていたのではなかったのだ。だとすればルソーのエピソードは論理的に矛盾しない。私の読み取りの間違いということになります。

 しかし、引用した部分の2つ前の段落にこういう部分があります。

 しかし、結局、自分の考えていることや感じていることを、言葉がなくともわかってくれることはないのだということを知ったのである。事態は「暗黒になった」のだ。親しい人との間にも言葉が必要であることを知ったのである。(中略)そして、五十年も経た後に。ルソーは、事件を回想して再び「あの櫛を壊したのはぼくではない。」と言うわけだ。しきりがあるゆえの言葉によるコミュニケーションの必要性に気づく瞬間のなんと悲しく美しい物語だろうか。

 ここがわからない。「言葉によってしきりを排除することはできないが、言葉によるしかない。」という文脈ならばわかるのですが、そうではない。やはり「しきりがあるから言葉が必要だ。」というようにしか読み取れません。やはり論理的に成立していません。論理的な欠陥があるという私の主張を取り下げるまでにはいかないようです。

 まだまだ自分の読み取りミスがあるかもしれません。今後も検証を続けていきたいと思います。
コメント
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