とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「コミュニケーションとしきり」(国語教材シリーズ)3

2016-04-23 10:18:58 | 国語
 教育出版の高校の国語の教科書『新編現代文B』に収録されている教材「コミュニケーションとしきり」(柏木博)について雑感の続きです。

 「コミュニケーションとしきり」について、もう一度整理します。

《根拠》
 ルソーのエピソード。
 ルソーが幼いころ母親のような存在だったランベルシエ嬢の櫛を壊したという疑いをかけられ、親しい間柄でも理解し合えない経験をした。

《論拠》
 子供は小さいころ母親との間には言葉がなくとも通じ合えるという思い込みがあるが、ある時、理解しあえていないことに気付く瞬間が訪れる。こどものころの幸福は消え、暗黒が訪れる。そして「わたし」と「わたし以外の存在」との間にはしきり(障害)があることを発見する。

《結論(意見)》
 しきりを乗り越えるためには言葉によるコミュニケーションが必要である。わたしたちは、どこまでもコミュニケーション不能の部分(障害)を抱えているからこそ、コミュニケーションし続けるのである。

 一見するととても共感できる感動できる論理です。しかし根拠の部分においてルソーは言葉の無力さを思い知らされただけなので、この論理は成立しないというのが私の考えです。

 もちろんこの文章は「根拠、論拠、意見」という発想で書かれた文章ではありません。だから、書いている順番も違います。ルソーの例も論拠の具体例として書かれているので、根拠というとらえ方をしていいのか私もまだよくわかっていないこともあります。しかし、論理的に成り立たないというのは明らかです。論理の分析に「根拠、論拠、意見」という考え方が有効なのではないかという思いが強くなってきました。今後も検証を続けたいと思っています。

 さて、この文章が論理的に成立していないのに、それに気づかないというのは、我々が思い込みで文章を読んでしまう傾向にあるからだと思います。上記の「論拠」と「結論(意見)」の部分が共感できるいい意見であるがために、その具体例であるルソーのエピソードは、それに適応する例として読んでしまう。私たちは思い込みで文章を読んでしまうことを示しています。気を付けるべきこととして肝に銘じておかなければいけません。
コメント
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