とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

議論のできる言葉になるために(日本語の文章の特徴)

2016-04-08 15:00:19 | スポーツ
  前回、日本語の文の述語が最後に来るということを書きました。 それによって判断を保留する癖が自然と身についているのではないかという仮説を書かせていただきました。このことは日本語の文についても言えます。

 以前、英語のパラグラフについて書きました。パラグラフは最初にそのパラグラフの要約を書いてしまいます。結論を先に書いてしまうということです。

 それに対して日本語場合は、序論、本論、結論のパターンで文章を書きます。
  序論 - 問題提起
  本論 - 問題の考察
  結論 - 問題の答え。
という構成になるのが基本です。小論文の指導では序論で結論の内容を書いてしまうように言うこともありますが、普通は結論から先に書くことはしません。

 さて日本語がこのような結論を最後に書くパターンであるので、ここでも結論を保留しながらしゃべり始めるということがあるのではないでしょうか。それはおかしいと思う人もいると思いますが、自分の経験から言っても結構まわりの様子を見て結論をあいまいにしてしまうことがあります。「KY」という言葉が流行りました。日本人は「空気を読む」という言葉をよく使います。空気を読みながら、周りの反発をうけそうなことを避ける、結論を最後に言う日本語ではそれが可能なのです。

 もしかしたら日本人が曖昧性を好むようになったのは、このような言語構造にもともとの原因があったのかもしれません。だとしたら事は重大です。この言語構造を返還することは現実的ではありません。だから日本人はいつまでたっても英語圏の人と根本的には別次元の思考をすることになるということになります。いつまでたってもグローバルな思考には程遠いものとなってしまう可能性が高いと思われるのです。

 日本人の議論が成り立たないのもそのあたりに原因があるのではないでしょうか。議論というのは相手の意見、つまり相手の論理の結論に対する賛否です。しかし結論があいまいなため結論に対する意見はだされません。日本人にとってそれより重要なのは結論に至る根拠や、論拠になる部分です。「結論」の部分は棚上げされてしまわれているので、議論は空回りして会議は踊り始め、空気の支配合戦になってしまうのです。

 集団的自衛権についても集団的自衛権を認めるべきか、否かの議論はほとんどなされていません。TPPに賛成か反対かの議論もほとんどなされていません。ただ何となく進んでいる、それが日本の議論なのです。

 これではいけません。もちろん日本語の伝統はすばらいいものであり、それを継承していく努力は当然ひつようです。しかし、民主的国家に生きる日本人が議論もまともにできないのではいいはずがありません。

 議論のできる日本語を作り上げなければいけません。
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