まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

問いの力

2009-10-09 18:12:22 | 教育のエチカ
授業をやっていくなかで、最近強く意識しているのは、
「問いの力」 ということです。
学びというのは適切な質問によって作られるものだと思うのです。

先日、「倫理学を学んでよかったことは何ですか?」 という記事のなかで、
「問いを問い直す」 ことが重要であると書きました。
哲学者・倫理学者は問いを与えられてもすぐにそれを考え始めるのではなく、
その問いを吟味することから始めるのです。
しかし、ふつうの人はそんなことしません。
問いを与えられるとすぐにその問いに答えようと一生懸命考え始めてしまいます。
この習性をうまく利用するのが、問いによる学びの発見という方法です。

最近では大学の授業でも、ワークシートを使ったり、
ミニットペーパー (コメントペーパー) を使ったりすることが増えてきました。
私もワークシートを使うのですが、以前はワークシートの最後に、
「今日の授業に対する感想などがあれば自由に書いてください」 と指示していました。
しかし、これに対して感想を書いてくれる人はそれほどいませんでした。
最近になってやっと気づいたのですが、
これは指示のしかたが悪いからで、
「あれば書いてください」 ということは、
なければ書かなくていい、ということになります。
それよりもさらに問題なのは、「感想」 という薄っぺらい言葉で導き出されるのは、
「面白かった」 とか 「つまらなかった」 などの授業の漠然とした印象だけだということです。

そこで最近では、次のように聞くことにしています。
「今日の授業を受けて一番学びが深まったことは何ですか?」
このように聞くと、何か学びがあったことが前提となります。
しかも、1つだけでなく複数学びがあったことが前提となります。
その上で、どれが一番学びが深まったんだろうかと考えることになります。
また、半期の授業が全部終わったところでは、次のように問いかけたりします。
「この授業をずっと受けてきて、どんな力がつきましたか?」
これも力がついたことが前提になります。
その上で、ついた力はどんな力なのかな、と考えることになります。

こうした質問をしないまま授業を終えると、
何かを学んだということを本人が意識しないままになり、
のちに何も思い出せず、その授業のことを完全に忘却してしまうか、
せいぜい 「小野原先生の授業受けたような気がするけど、何やったっけ?」
ということになってしまいます。
しかし、先のような問いを投げかけてあげると、
授業での学びを本人が検索し、本人が発見することができます。
この問いを与えられるまでは、何かを学んだとは思っていなかったかもしれないし、
何か力がついたとも思っていなかったかもしれませんが、
この問いを与えられて探してみれば、ちゃんと見つかるのです。
これが 「問いの力」 です。

問いを問い直すということからするならば、
「今日の授業で何か学びはありましたか、ありませんでしたか。
 もしもあった場合には、それはどんな学びでしたか。」
というのが正しい問い方なのでしょうが、
こんなふうに聞いたら、何も学ばなかったという結論が許容されてしまいます。
つまり、教師にとっても学生にとっても、
ただの時間の浪費だったということになってしまいます。
そんな結論は、教育的には無意味な結論でしょう。
それよりも、どんな学びがあったのか、どんな力がついたのか、と問い、
それを発見させてあげるほうが有意味だと思われます。
問いの力を十分引き出せるような問い方を工夫していくことが、
教育においては大事なのです。
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