まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.自ら立てた普遍的法則を破ることは自由ではないのか?

2016-06-17 23:49:07 | カント倫理学ってヘンですか?
「倫理学概説」 でいただいた自由に関する質問です。

正確には次のように聞かれていました。

「Q.カントの意志の自律において、「個人が自ら立法した普遍的法則に自ら従う」 とあるが、
   自ら立てた普遍的法則を破ることは自由ではないのか?
   過去の自分が立てた普遍的法則を破ることは、自らの自由を害するのか?」

みんなどうしても自由というと、一切の制限なしにありとあらゆることをしてもいいという

「無制限的自由」 のことしか考えられないようですね。

そんな自由は私たちが生きるこの社会のなかではまったく無意味で、

誰ひとり自由に生きることのできない 「万人の万人に対する戦争」 状態しか生み出せないと、

あれほど口を酸っぱくして言っているのになかなかわかってもらえないようです。

自分の感性 (欲求・欲望) を自分の理性でコントロールするという、

カントの 「自律としての自由」 というものはそうした無制限的自由から最も遠いものなのですが、

どうしてもそっちに引きつけて考えたくなってしまうのですね。

ま、結論から言うとこうなります。

A.カントの意志の自律の倫理学にしたがえば、
  自ら立てた普遍的法則を自ら破ることは自由でも何でもなく、
  むしろ感性 (欲求・欲望) への屈従として自らの自由を侵害するものとみなされます。

自らの感性 (欲求・欲望) をコントロールして理性的に振る舞うことがカントにとっての自由ですので、

自らの感性 (欲求・欲望) に支配されてしまっている状態はまったく自由ではありません。

ましてや自ら立てた普遍的法則を自ら破ってしまうなんて不自由の最たるものにほかなりません。

例えばアルコールやタバコや薬物に依存する中毒患者は、

本人は好きでそれを選んでいると思っているかもしれませんが、

はたしてそれは自由な選択なのでしょうか?

それは自らをコントロールできなくなっているという意味でむしろ不自由な状態と言えるでしょう。

さらに、人の物を盗むのは他人の自由を侵害することだからけっして泥棒はしないようにしようとか、

人の命を奪うことは他人の自由・人権を根底から破壊する行為だから人殺しは絶対にしない、

と自ら普遍的法則を立てて自らに課し、法で裁かれるからとか刑務所に投獄されるからとは関係なく、

そうしたことをしないように生きてきた人が、どういう事情か知りませんが突然その法則をなげうって、

急に盗みを働きだしたり、人殺しに手を染めてしまったりしたとき、

その人は自由になったと言えるのでしょうか?

カントはそうではなく、自ら立てた普遍的法則に自ら従っていたときこそが自由なのだと考えました。

私はカント主義者ですのでカントのこの議論にはある程度賛成しています。

ただし、この議論を採用するためには、自由概念を二重化 (または多重化) する必要が出てきます。

意志の自律としての自由概念だけだと、

行為の責任を問う (帰責の) ための根拠としての自由について語れなくなってしまうからです。

自律的自由概念の下では、

普遍的法則 (道徳法則) に従った善い行為をした人は自由であると言えますが、

それに反したり故意に破ったりした人は不自由な人ということになりますから、

その人の責任を問えなくなってしまうのです。

そういう問題点を残しているし、前回バーリンとの関連で論じたような危険性もありますが、

それでも私はこの意志の自律としての自由という考えは、

倫理学史上とても魅力的な自由論であると思っています。

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