まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

Q.幸福であることはなぜ義務になりえないのですか?

2016-07-10 13:56:32 | カント倫理学ってヘンですか?
こんな質問をいただきました。

Q.「幸福であること」 はなぜ義務になりえないのか? 具体的な作品名は伏せるが、いわゆる 「ディストピアもの」 とされる作品を見てきて、この問いが頭に浮かんで以来、数年間自分なりの答えが出せないでいます。先生ならどう答えますか?

なんで具体的な作品名を伏せちゃうのかなあ?

それがわからないとどういう文脈でこの問いが生まれてきたのかがわからないじゃないですか。

どんな作品だったんでしょうね。

マンガとかアニメなんでしょうか?

ディストピアというのはユートピア (理想郷) の逆の社会のことですね。

どんな物語で、それが今回の質問にどう結びついたんでしょうか?

わからないので、こちらで勝手に答えられることを答えるしかありません。

質問者の意図にぴったりのお答えを出せるかどうかわかりませんが、

カント主義者としてごくごくカント的にお答えしていくことにしましょう。

カントは、幸福である (幸福になる) ことは義務ではない、と考えた哲学者の代表ですので、

なぜそれが義務でないのかに関してもひじょうにクリアに説明してくれています。

カントによれば、幸福であることが義務ではない理由は大きく言って2つあります。

まずはひとつめ。


A-1.幸福は、すべての人間がすでに現に有している目的であるがゆえに、
    わざわざそれを義務として強制的に課す必要がないので、
    幸福は義務にはなりえないのです。


例えば、「呼吸することは人間の義務である」 と言ったとしてもそれは無意味ですよね。

義務であろうがなかろうが人間は呼吸をしてしまうのですから。

同様に、食べたり飲んだりすること、寝ること、排泄することを義務とする必要もありません。

誰もが必ずしてしまうことを義務とすることはできないのです。

逆にこれらを禁ずることもできません。

呼吸しないこと、飲食しないこと…等々を義務にすることはできません。

そんなことは不可能ですから。

これらをもう少し限定して、1日に3回深呼吸することとか、1日に3度食事をすることとか、

肉は食べずに野菜だけを食べることとか、

ノンアルコールの飲み物だけを飲むこと (アルコール飲料は飲まないこと) とかであるならば、

それを義務とすることはできます (もちろん義務にしないこともできます)。

つまり、人が必ずすることを義務にするのは無意味であり、

人が必ずすることを禁ずる義務を課すことは不可能であって、

義務になりうるのは、するかしないかを選択可能であるような行為のみなのです。

そして、カントに言わせれば、幸福を目的とすること、幸福でありたいと願うことは、

すべての人間が不可避的にそれを求めざるをえない事柄であるために、

わざわざ義務として強制する必要がない、ということになるのです。

これがひとつめのバージョンの答えです。

続いてふたつめ。


A-2.どんなにすべての人間が幸福になりたいと思っているとしても、
    何が幸福かはひとりひとりまったく異なっているし、
    したがって幸福になるために具体的に何をすればいいかも明らかではなく、
    しかも幸福になれるかどうかは外的状況に依存する部分が多く、
    本人の行動や努力だけではコントロールできないので、
    幸福であること (幸福になること) は義務にはなりえないのです。


先ほどの答えは、ある種普遍性のある、誰もが納得する (可能性のある) 答えでしたが、

今度の答えはきわめてカントの幸福観に依拠した、カント固有の答え方となっています。

つまりカントは幸福というものを主観や経験によって大きく左右される不安定なものと考えており、

したがって、幸福になれと言われても、それをどうやって手に入れたらいいか、

そのために具体的にどんな行為をしたらいいかを客観的に定めることはできないと考えています。

そしてけっきょくのところ幸福は個人個人の主体的努力によって確実に得られるものではなく、

外的偶然によって結果的にもたらされるものだと考えています。

そのようなカントの幸福観に従うと、私たちは幸福になるために何かをすることはできないので、

何らかの私たちの行為と結びつくような幸福になる義務を考えることはできないし、

したがって、そういう義務を守ることもできない、ということになるのです。

例として適切かどうかよくわかりませんが、例えば 「カッコよくなれ」 と言われても、

何をカッコいいと言うのか人によって異なります。

見た目のカッコよさを考える人もいれば、言動のカッコよさを考える人もいたり、

性格や人間としてのカッコよさを思い浮かべるひともいるでしょう。

見た目のカッコよさに限定しても何をカッコいいとみなすかは千差万別でしょう。

そういう主観的な概念を用いてすべての人間に当てはまる義務を述べることはできません。

また 「金持ちになれ」 の場合、確実に金持ちになるにはどうしたらいいかがわからず、

どんなに頑張ったとしても最終的には外的偶然に左右される部分が多いでしょうし、

たとえ一時的に金持ちになれたとしても、いつまでも金持ちでいられるかどうかもわかりません。

そういう経験的・偶然的・結果論的概念も人間の義務を構成することはできないでしょう。

幸福というのは両者の性質を有するきわめて曖昧な概念なので、

「幸福になれ」 と言われても私たちは具体的に何かの義務を遂行することができないのです。

というわけで、カントの幸福観に従うならば、幸福であることは義務たりえないわけです。

カントの幸福観を離れて、もっと別の幸福観に立つならば、幸福になるための手段を特定し、

それを為せと義務として命ずることは可能になるかもしれません。

しかしその場合は、A-1で論じたことに戻っていくことになります。

幸福とは何かが全人類に共有されていて、しかも幸福になるための手段も明らかだとするならば、

その手段を選ばない人なんているでしょうか?

誰もがその手段を選択するに決まっていますよね。

だとすると 「幸福になれ」、「幸福になれるような行為を選択せよ」 という義務は、

誰に命じられるまでもなくみんなが実行してしまうのであって、

そのような義務は義務としては無意味ということになるのです。

以上が、幸福である (幸福になる) ことが義務になりえない理由です。

はたしてディストピアものの物語を読んで懐いて以来、数年間考え続けている問いに、

これでお答えしたことになるのか、もしもまだ追加の質問があるようでしたら、

もうちょっと質問の背景を説明した上で追加質問してみてください。

授業のワークシートでもいいですし、このブログのコメント欄でもいいですし、

直接メッセージやメールを送ってくださってもOKです。

さて、それではそろそろ選挙に行くことにしようかな。

みんな、ちゃんと投票に行きましたか?

幸・不幸は人それぞれかもしれませんが、棄権したら確実に不自由になりますよ。


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