まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

マンハッタン計画とアポロ計画から見えてくる倫理

2013-05-23 18:03:28 | グローバル・エシックス
樋口先生の課題を提出するのを忘れてました。
もうすぐ1週間が経とうとしているのにヤバイですね。
前回は、20世紀に入って科学が変貌を遂げ、
国家主導によるメガサイエンスになったというお話でした。
科学技術に対して、国家が目標を設定し、国家が潤沢な資金を提供して研究を推進し、
その成果はすべて国家に帰属するようになったのです。
中でもアメリカが行った巨大プロジェクトが、マンハッタン計画とアポロ計画でした。
マンハッタン計画とは原爆製造のプロジェクトであり、
アポロ計画は有人月面着陸を目標とする宇宙開発プロジェクトです。
(アポロ計画の裏には大陸間弾道ミサイルの開発という意図があります)
この2つのプロジェクトを後押ししたのは熾烈な国際競争であり、
それらには莫大な資金が投入され (前者には18億4500万ドル、後者には200億ドル)、
結果的に当初の見込み通りのみごとな成果が生み出されました。
とはいえ生み出されたのは核兵器と宇宙ロケットです。
はたしてそれらは人類にとってどういう意味をもっていたのでしょうか?
そこまでの巨費と労力をかけて生み出すべき技術だったのでしょうか?
そんなことを考えさせられる講義でした。

さて、課題は次の通りです。
「課題1.本日の授業で紹介されたマンハッタン計画とアポロ計画の事例の中に、あなたが見出した当時に醸成されていた倫理について考察しなさい。回答にあたっては、あなたが見出した倫理は、どのような立場や集団の枠組みに見られたものであるかを明記しなさい。また、その倫理は、どのような背景があって醸成されたものであるかも説明しなさい。」

一気に課題が難しくなりましたね。
これらの背後にどんな倫理があるかについては樋口先生は明言されませんでしたので、
自分で感じ取るしかありません。

まず国家の側から言うと、科学技術の開発と国家目的が不可分に結びついてしまったがゆえに、
科学者、技術者の自由を制限する必要が出てきました。
19世紀までのように好きなことを好きなだけ研究していいというわけにはいきません。
目的達成のためにまっしぐらに脇目もふらず、言われた研究に没頭してもらう必要があります。
そして何よりも研究の目的そのものを疑ったりされては困ります。
こんなものを開発していいのだろうかなどと道徳的、倫理学的に悩まれてはまずいのです。
そして、講義内でも触れられましたが、
自分の信念に反するので途中で自分はこのプロジェクトから脱けます、
なんていう自由も認めるわけにはいきません。
秘密保持のためには最後まで付き合ってもらうか、さもなければ厳重な監視下に置くしかありません。
さまざまな意味で科学者、技術者の自由を制限しなければならないのです。
それを国家から科学者、技術者に対して提示される倫理として表すならば、
 ・国家目的への服従の義務
 ・目的達成への専心と効率的研究の義務
 ・懐疑禁止の義務
 ・守秘義務
等々になるでしょう。

しかし逆に、科学者集団の中にはこれに対抗するような倫理が醸成されました。
アメリカにおける核兵器開発はもともと抑止力として、敵国が核兵器を保有してしまった場合に、
その使用を思いとどまらせるためにこちらも持っておくべきだという、
科学者の提言に基づき始められました。
しかし、第二次大戦当時、ドイツも日本も核兵器を保有していないという情報を、
アメリカ政府は入手していたにもかかわらず、
日本に原爆を投下しようという計画を着々と進行させていました。
それに対して、当初核開発に携わっていた科学者たちは、
日本に原爆を投下するのは目的外使用であるとして懸念を示し、
少なくとも日本に対して何も警告しないまま原爆を投下するべきではないというレポートをまとめ、
政府に対して提出しました (1945年6月11日、フランクレポート)。
けっきょくこのレポートはまったく無視されて、2ヶ月後に投下されてしまったわけですが、
科学者や技術者はただ黙って国家の言うことに従っていればいいのではなく、
国家が科学技術の成果を誤った方向で用いようとする場合には、
国家に対して誠実に意見表明をするのは必要なことでしょう。
核兵器開発を提言したひとりであるアインシュタインは、
戦後、核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える、
「ラッセル=アインシュタイン宣言」 を発表しました。
今ある科学や技術に対して疑問を呈し、過ちを認めそのつど正していくこと、
それこそが本来の科学者や技術者の仕事であったと考えるならば、
開発されてしまった成果が国家に帰属してしまったとしても、
その使われ方には常に注意を払い、
間違った方向に使われようとしている場合には断固として反対する。
それは本来の科学者、技術者に課されていた倫理であると言えるでしょう。
科学技術がメガサイエンスになってしまった現代においてこそ、
国民や一般市民の立場からは、そのような倫理が必要とされているのではないでしょうか。
しかし、これは国家の側が課してくる倫理とは真っ向から対立するものです。
20世紀は対立する2種類の倫理が立ち上がってきた時代だと感じました。


「課題2.そのほか、本日の授業において、あなた自身が印象に残ったことや、気付きがあれば、そのことについて記述しなさい。」

アメリカ合衆国には、博士号をもった学者が大統領宛てに書簡を送ったら、
大統領本人または代理の人間が必ず読んで返事を書かなくてはならないという伝統がある、
というトリビアエピソードを聞いて、「へぇ」 ボタンを20回くらい押してしまいました。
あんな国だけれども、国民からの提言に耳を貸すという伝統が、
あれだけの強大な国を支えているのだろうなと思いました。
どこぞの国の政治家は御用学者の言うことだけにしか耳を貸しませんし、
もちろんアメリカ大統領だってすべての学者に平等に耳を傾けているわけではないでしょうが、
不採用にせよ返事を書くためにはそれなりに提言の内容を検討しなければならないわけで、
学問が大事にされる国というのはうらやましいことだと思いました。
そして、とりあえず私も博士号が欲しいぞと感じました。

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