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まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

草なぎ剛問題についての書きにくい話

2016-01-24 10:19:55 | 人間文化論
ちょうど 「SMAP独立・解散か?」 という報道が流れた翌日に

「草なぎ鍋作ってみました」 という記事を書いたところ、

これがものすごいアクセス数を稼いでくれていますので、そのおこぼれに与るべく、

この騒ぎが沈静化してしまう前に 「草なぎ剛問題」 について連投しておきたいと思います。

ただちょっと今日の問題、ひじょうにこのブログでは書きにくい話題であります。

奥歯に物のはさまったような表現になることも多々あるかと思いますが、

その点お含みおきいただきながら読んでいただければと思います。



先の記事で私は、彼のことを一貫して 「草なぎ剛」 と表記してきました。

で、こんな注記も付けておきました。

「(※草なぎのなぎは弓ヘンに前の旧字の下に刀)」

この注記はどこかのウェブニュースにあったものをそのままパクってきたものです。

私は当初あの記事を書くとき、「なぎ」 の字は正しい漢字に変換して書いていました。

「くさなぎ」 から一発変換はされませんでしたが、何番目かにはあの字が出てきて、

編集画面上ではそれがきちんと表示されていました。

ところが記事を公開する前にプレビュー画面で確認してみたところ、

彼の名前がことごとく文字化けしてしまっていたのです。

これからやってみますね。

《草剛》

今 《   》 の中には彼の名前を正しい漢字表記で打ち込み、

編集画面上ではそれが正しく映し出されています。

しかし、これをプレビュー画面で見てみると、《   》 の中の 「草」 と 「剛」 の間に、

ちょっと縦長の長方形と、儒教の 「儒」 の字が並んで表示されてしまうのです。

スマホ (特にiPhone) で見ている人にはまた違う見え方をしていて、

アルファベットや数字が並んだコード番号 (JIS+792C) が表示されているかと思います。

とまあこんな具合に正しい漢字を入力しているにもかかわらず文字化けしてしまうのです。

そんなわけですので、あの記事を公開する前に表記はすべて 「草なぎ剛」 に改めたのでした。

あのときはプレビュー画面での文字化けに怖じ気づいて実際にウェブ公開はしませんでしたが、

今回試行してみたところ、プレビュー画面で文字化けしていても気にせずにウェブ公開してしまえば、

Windowsパソコンで見る限りはきちんと 「なぎ」 の漢字は表示されていました。

( 《   》 内の漢字が正しく読めた人はここから先読んでも面白くないかもしれません。)

しかし、やはりスマホ (iPhone?) だと文字化けしてしまうようです。

プレビュー画面というのはブログを執筆している私にしか見えませんので、

読者の皆さんには関係ありませんね。

しかし、スマホ (特にiPhone) でご覧になっている方は大勢いらっしゃると思うので、

この文字化け現象は由々しき問題です。

(スマホでも文字化けしていないとか、パソコンだけど文字化けしているという方は、

 どんな環境でお使いかコメント欄でお知らせいただけると幸いです。)

それにしても、スマホ (iPhone?) になるとなぜ文字化けしてしまうのでしょうか?

彼の名前がなぜウェブ上で 「草なぎ剛」 と表記されるのかという点に関しては、

以前から多くの人が疑問に思っていたようで、YAHOO!知恵袋等にその答えが散見されます。


「草なぎ剛の 「なぎ」 はなんでいつもひらがななのですか?」

「草なぎ剛の 『なぎ』 って、何故漢字で変換出来ないの?」


これらの問いに対する回答はそれはそれで納得できましたが、

私の知りたいこととはちょっとずれているようにも思えます。

私の場合、漢字変換はできているし、ブログ編集画面上ではきちんと表示もされています。

それがプレビュー画面やiPhoneで見ると文字化けしてしまうのです。

どうもよくわかりません。

試しに他のSNSだとどうなるのか、彼の名前を正しく入力・変換しアップしてみました。

すると Facebook でも Twitter でも正しい文字が表示されていました。

なんだ、そっちは大丈夫なのか。

それじゃあこの場合はどうでしょうか?

私のブログは Facebook と Twitter に連携していて、

ブログをアップすると両SNSに投稿通知が自動的にアップされるようになっています。

その際に、gooブログの編集画面上で一言書くと、それがSNSへのコメントとして付加されます。

そのコメントの中に彼の名前を書いてみるとどうなるのでしょうか?

これも試しにやってみました。

すると Facebook のコメント欄では 「草剛」 と 「なぎ」 の漢字はなかったものとされていました。

Twitter では 「草?剛」 と半角のクエスチョンマークに文字化けしていました。

(試行後すぐにブログの投稿もSNSの投稿も削除したので今はもう見られません。)

やはりいろんな環境によって文字化けしたりしなかったりしてしまうみたいですね。

誰がどんな環境で見てくださるかわからない以上 「草なぎ剛」 で行くしかなさそうです。

…と思ってあきらめかけていたんですが、先ほどググっていたときにこんなサイトを発見しました。


「HTMLで難しい漢字を表示させる」


このサイトは素晴らしくって、まさに 「草なぎ剛」 という文字列を例に出しながら、

この 「なぎ」 という漢字をどんな環境でも正しく表示させる方法を解説してくれていました。

言ってる内容は専門的すぎてほとんど理解できませんでしたが、

唯一、Unicode という世界共通の文字コードを使えばいいらしい、ということだけは理解できました。

そうするための具体的方法として、草なぎの 「なぎ」 という漢字であれば、

「24389」 というのが Unicode 上の対応する数字で、その前に半角の「&」 と 「#」、

その後ろに半角のセミコロン 「;」 を付けてあげると、あの漢字が表示されるというのです。

ではやってみますよ。

それっ!

《草彅剛》

いかがですか?

ちゃんと表示されていますか?

パソコンの人もスマホの人もアップルの人もちゃんと 《草彅剛》 になっていますか?

編集画面上ではあくまでも 「草」 と 「剛」 の間にあるのは記号と数字だけなんです。

ああ、今度は逆にこの編集画面上でどう打ち込んであるのかをお伝えできないな。

こうしてみましょう。

《草彅剛》

半角の記号と数字だったものを全角に置き換えてみました。

これならこのまま表示されていることでしょう。

編集画面上では、これらの記号と数字が打ち込んであるだけなんです (半角で)。

でも、皆さんの画面上ではあの 「なぎ」 という漢字が正しく表示されているんじゃないですか?

もう一度やってみますよ。

《草彅剛》

おおっ、素晴らしいっ

これでもうパソコンで見ようがiPhoneで見ようが、

誰が見ても正しい漢字で彼の名前を表記することができるのですね。

おめでとう草彅さん、おめでとうSMAP



というところでこの話題、終了かと思っていたんですが、まだ少し問題が残っていました。

この記事、一気に書き上げることができずに何度か下書として保存しながら書いているのですが、

一度下書として保存したものを再び立ち上げると、

以前の編集画面では 《草彅剛》 と入力していたはずが (記号・数字は半角)、

新たに開いた編集画面では正しく 《草彅剛》 と変換されてしまっているのです。

なんだ、いいじゃないかと思われるかもしれませんが、

これを再び公開するとまた文字化けしてしまって 《草剛》 となってしまうのです。

(おわかりかと思いますが、このへん私はこの間に学んだシステムを逆手にとって入力しています。)

つまりこの記事は再編集するたびに、

正しく表示されていたはずの6ヶ所の 「彅」 の字 (ここも含む) が文字化けに戻ってしまうのです。

どういう仕組みかわかりませんが、とにかくそういうシステムのようです。

したがってこの記事は一度公開したら、もう手を入れ直したりせずそのまま放っておくか、

どうしても手直ししたい場合には、そのつどあの6ヶ所を Unicode に修正しなくてはいけないようです。

うーん、大変だ

私はけっこうあとから読み返して何度も文章に手を入れるタイプなので、

この記事もつい 「てにをは」 とかを直してしまうかもしれません。

そのたびに Unicode 修正のことを思い出せるのかどうか、はなはだ心配です。

この記事を読んでみて文字化けだらけで意味が通じないということがありましたら、

文章に手を入れたときに Unicode 修正のことを忘れたのだと思うので、ぜひ私までご一報ください。

以上、ウェブ上では書きにくい 「草彅剛問題」 でした。

(おっと、これで修正箇所は7ヶ所になった。)

まさおさまカップ

2016-01-23 09:17:56 | 人間文化論
別に橘高校会場に限った話ではないのですが、

センター試験監督の風物詩といえば紙コップがあります。

監督控え室にはちょっとしたお菓子やミカンが並べられていて自由に食べることができ、

またスティックタイプのインスタントコーヒーやお茶とともにポットが置かれていて、

(数年前までは瓶入りのインスタントコーヒーとティーバッグでしたが…)

紙コップに入れて各自自由に飲むことができるようになっています。

そして例年のことなのですが、紙コップのところには次のような注意書きが張り出されています。

「紙コップは1人1日1個でお願いします。

 マジックで名前を書いてご利用ください。」

エコですね。

1杯飲むたびに捨ててしまったりしてはいけないわけです。

その指示に従って皆さん自分の苗字やフルネームなどをささっと書き込んで使うわけですが、

私はもうだいぶ以前から決まったやり方でサインするようになりました。

ぱっと見これが誰のカップか皆さんにはわからないだろうなと思いますが、

他の人にとっては自分のカップではないということさえわかればいいのだし、

私だけが私のカップだとわかればいいのだから、このサインけっこう気に入っています。

ご覧いただきましょう。

まずは平仮名で 「ま」 と書いてあります。



そこから90°回すと 「さ」 の文字が見えてきます。



さらに90°回して 「お」。



そしてまた 「さ」。



で、最後に90°で 「ま」 に戻ってきます。



このあと何回でもぐるぐる回して 「まさおさま」 の無限ループにはまることができるわけです。

そしてなんとこれは反対回りも可能です。

最初の 「ま」 でしょ。



90°左側に回して 「さ」 でしょ。



次が 「お」 でしょ。



また 「さ」 でしょ。



で、「ま」 に戻ってこられるわけです。



もちろんこのあといくら回していっても無限に 「まさおさま」 は続いていきます。

右回りで読んでも左回りで読んでも 「まさおさまさおさまさおさま…」 なわけです。

もうおわかりだと思いますが、平仮名は4つしか書いていません。

普通に 「まさおさま」 と書けば5文字になるはずなのですが、

回文であるがゆえに 「ま」 をひとつ省略できるのです。

実は先日 「はじまりの美術館」 で作った作品 「まさおさま無限ループ」 の発想の原点は、

この 「まさおさまカップ」 にあったのです。



このカラフルな作品は、その後てつカフェ常連のコアなファンの方に贈呈いたしました。

たぶん私が死んだ後ものすごい価値が出て、一財産築けるものと思われます。

今回の 「まさおさまカップ」 のほうは芸術作品として制作したわけではなく、

あくまでも日用品ですので、試験期間中に作製した2個のカップは使用後廃棄いたしました。

しかしながらこれにも芸術的価値を認めてぜひとも欲しいという方がいらっしゃいましたら、

こちらは大量生産可能ですのでいつでもお申しつけください。

センター試験会場では黒一色のものしか作製できませんでしたが、

ご希望に応じてカラフルな作品に仕上げることも可能ですのでお好みの色をご指定ください。

あ、今度のてつカフェのときに会場で販売してもいいかもしれないな。

あ、いやダメか。

全員が 「まさおさまカップ」 を持ってるとどれがぼくのカップだかわかんなくなっちゃうな。

ふーむ、残念。

東京のお正月飾り

2016-01-06 23:45:56 | 人間文化論
昨年末、東京のクリスマス・ディスプレイについてご報告したので、

東京のお正月ディスプレイについてもさくっとご報告しておきましょう。

まずは玄関。



これは2年前にスーパーで買ってきたやつを使い回しているだけです。



玄関入って正面。



上部の飾りも前からあったものですが、今回はこのように飾り付けられていました。



下部には南天を配した花瓶。



その横に並べられているのは、2年前にはトイレに飾られていた七福神たちです。



玄関脇に置かれた薬棚には可愛らしい獅子舞。



獅子舞の飾り物って2個並べることは少ないと思いますが、2つあると何となく可愛いです。

リビングに入って左手、デスクまわりのごちゃごちゃしたところに、

2年前は玄関に飾られていた獅子舞の木彫り。



その横ではクリスタル・ファウンテンの下の観葉植物が正月っぽくディスプレイされていました。



リビング入って右手側の和箪笥の上。



左側はやはり南天。



涙型の置物はどういう仕組みでだかお天気がわかる物らしいですが、

その脇に何となく正月っぽい雰囲気のするものが。



リビングの隅にある梵字の掛け軸の下にもうひとつクリスタル・ファウンテンがあり、



その前に何だかよくわかりませんがやはり正月っぽいものが。



紙製の新製品ですが、折り鶴っぽい感じの何かです。

ソファ前のローテーブルの下には以前トイレのなかに飾られていた布製のお重。



リビングの反対側の壁際にあるローチェストの上には本物のお重のなかにネズミ的な何かが。



今年はネズミ年ではありませんが、ネズミも何となく縁起いい感じですよね。

その横にはウサギ的な何かを含む、何となくおめでたそうなグッズの一群。



そして、トイレ。



正面のパネルは2年前にも使われていましたが、お義母さんがそれにちょっと手を加えたそうです。



菊やら鶴やらはオリジナルにはなかったはずです。

前回お伝えしたトイレ内手洗い場がこちら。



ここにも一対の獅子舞が。



昨年は1歳児に気を取られて記録するのを忘れていましたが、

一昨年と比べてみると小物が少しずつ増えているのがよくわかります。

おかげでさくっと報告するつもりが長くなってしまいました。

特に今年はペアの獅子舞がフィーチャーされていたのが特徴的でした。

獅子舞って別に2人一組でやるものじゃないと思うのですが、

こうやって2つセットで並んでいると、ひな人形みたいで可愛かったです。

来年はさらにどう進化を遂げていくのか静かに見守りたいと思います。

福島大学管弦楽団第44回定期演奏会

2015-12-24 22:29:57 | 人間文化論
長らく頑張ってきた 「文化創造論」 ですが、

スポーツ・芸術創造専攻の2年生の必修科目として開講されていたのは去年までで、

昨年入学した今年の2年生からはもう必修科目ではなくなりました。

というか専攻共通科目という枠組み自体がなくなったので、

「文化創造論」 も晴れてお役御免となったわけです。

ただし、旧カリキュラムの学生たちで2年生のときに単位を取らなかった人がまだ残っていますので、

そういう人たちのために今年度までは開講することになっていました。

で、どうせ開講するなら新カリキュラムの人たちにも選択科目として受講可能なようにしておきました。

まあ、必修でもないのにわざわざ取りに来る酔狂な人はいないだろうと思っていましたが…。

旧カリの学生で未受講な学生はほんのわずかであり、今年は何人で授業をやることになるのか、

あまりに少ない場合にはやり方を考えなければいけないなあと悩んでいたところ、

旧カリの学生で受けに来たのはたった1人でしたが (他の未受講者は卒業する気はないのかっ?)、

なんと新カリで受けに来てくれた酔狂な人が20人もいて、

授業自体は何とかこれまでどおりの計画に基づいて進めることができております。

ただし、旧カリの1人は声楽の学生ですが、

新カリの人たちはほぼ全員スポーツの学生ばかりで (1人だけ他専攻の学生)、

音楽と美術の学生は旧カリの1名を除いてまったくいないのです。

この授業は音楽と美術とスポーツを融合させて新しい文化を創造することを目標にしていますので、

今後どのように授業を運営していったらいいか悩ましいところです。

前置きが長くなってしまいましたが、というわけでいつもだったら受講生から連絡を受け、

それに基づいてブログ上で告知をするという流れになっていたわけですが、

今回は誰からの情報提供も受けていませんが、大事な情報ですので共有しておきます。

うちのオケのコンサートがあります。



福島大学管弦楽団第44回定期演奏会
日 時 : 2015年12月27日(日)  開場13:30/開演14:00
場 所 : 福島市音楽堂大ホール

入場料 : 300円 (小学生以下無料)
指 揮 : 野口芳久
曲 目 : チャイコフスキー バレエ組曲「くるみ割り人形」 シベリウス 交響曲第2番

<プレイガイド> 中合福島店2番館4階 中合友の会 024-521-5151
          福島大学生協サービスカウンター 024-548-5141
<お問い合わせ先> 実行委員長三浦彩水 (080-6059-3223)


クラシックミュージックが好きな方もそうでない方も、

とりあえず新しい文化に触れてみたいと思っている方もそうでない方も、

今度の週末は音楽堂大ホールに集合ですっ!

アボカド・クリスマスツリー

2015-12-23 09:55:40 | 人間文化論
我が家の階段箪笥をクリスマス・ディスプレイに替えたことはすでにご報告しましたが、

先日東京に行ってきたとき、東京の家もクリスマス飾りが施されていました。

東京の家は我が家のような一点豪華主義ではなく、

ちょっとした小物を家中のあちこちにちょこんと置いておくという方針で飾り付けられています。

リビングのキャビネットの上にはこんなサンタクロース。



我が家のようないかにもサンタクロースというようなサンタさんではなく、

テディベアを小脇に抱えた、何だか雰囲気のあるサンタさんです。

同じキャビネットの反対側の端には、こちらもいかにもクリスマスツリーという感じのしないツリー。



これはフェルト製です。

そこに、壊してしまった別のちっちゃなツリーに付いていた飾りを、

安全ピンでむりやり取り付けたのだそうです。

若干大きさがちぐはぐなのはそのせいです。

トイレには別のフェルト製のツリーが。



トナカイもフェルト製です。

ここはトイレタンクの上です。

普通今どきの家庭用トイレタンクというのは上部が手洗い場所になっていますので、



そこにこうして物を飾ったりはできないはずですが、

こちらはトイレの中に小さな手洗い場が付いているという豪勢なつくりなので、

こんなところもディスプレイ場所として活用できるわけです。

その小さな手洗い場の脇にはこんなものも飾られています。



これはもともとクリスマス用の品ではなく、

お義母さんの好きなゾウの置物コレクションのひとつだったのだろうと思われます。

(実用可能なタワシというわけではないと思いたい。)

それに小さな赤い帽子をかぶせてあげるとクリスマス飾りに大変身です。

とまあこんな感じであちこちに小さいグッズがちりばめられているわけです。

そんななかでひときわ異彩を放っていたのは、フェルト製ではないクリスマスツリーでした。

こちらです。



本物の木にクリスマスデコレーションが施されています。

とはいってもまったくクリスマスツリー然としていないツリーです。

これはアボカドの木です。

お義母さんが食べ終わったアボカドの種を試しに鉢に植えてみたら、

こんなに立派に成長したんだそうです。

前に見たときよりもさらに背が高くなったように見えます。

まだアボカドは生らないそうですが、この調子でいくと収穫も夢ではないかもしれません。

それをクリスマスツリーにしてしまったんですね。

とはいえアボカドの木は枝が細いのでクスリマス飾りに耐えられるようにはなっていません。

そこでよく見るとこんな補強がしてありました。



テグスというんでしょうか、細い糸で枝と枝が結ばれていました。

あまりクリスマスツリーっぽくはないですが、この家らしいオシャレなツリーでした。

我が家とは趣を異にする、お義母さんのセンスあふれるクリスマス・ディスプレイでした。

「うちの3姉妹」 LINEスタンプ!

2015-12-22 19:46:23 | 人間文化論
松本ぷりっつのブログ 「うちの3姉妹」 (現在は 「おっぺけですけどいいでそべつに」) から、

先月より 「うちの3姉妹LINEスタンプ」 が発売になりました。

これが可愛いので、120円かかるのですがさっそくゲットしてしまいました。

上記リンク先でその一部を見ることができますが、全40種類が用意されていてお買い得です。

すでに使いまくっていて、「うちの3姉妹」 をご存知の方には大変好評を博しております。

せっかくですので40種類のスタンプを全部ご紹介してしまいましょう。

ただ 「うちの3姉妹」 を知らない方にはパッと見何のことかわからないものもあると思われますので、

それに関しては、該当の元記事をリンクしておきました。

自分、どれだけファンなんだろう?

そしてどれだけヒマ人なんだろう?

(ヒマではありません ただの逃避行動です



たっとぅーん

あねとーね!

OKだわよ

めんね?

あい!!

ばめ!!

ぺこり

ばっばーい

いいでそべつに

んねしゃしゃす!

びしっ

たいて~ぷ?

なお、元記事の絵とスタンプの絵が違っている場合がありますが、

たぶんスタンプのために描き下ろしたものも多いのだと思われます。



ぎゃーす。

ぐるるるるる

てへ☆

たいへんたいへんおおだいへん

どうしましょうかしら…

おーみーごーとー!

あはははは☆

いいことおもちついた!

だめなの?



はーくおいれ!

てれれてってってん!!



じゃんばい じゃんばい

ごはんぱれたい

はむはむはむ

いそいでくれぜ!

しぱしぱ しぱしぱしぱ





ねむい



最後の8つは使い方が一目瞭然なのでもうリンク張ってません (というか元ネタ探すのに疲れた)。

ほーほほほほ

グッ

くすん

プッ





はー

コラーッ

以上、40個のスタンプでございました。

どうです?

欲しくなっちゃったでしょう?

そんな人は今すぐこちらへGO!

「うちの3姉妹」 LINEスタンプ普及のために一肌脱いでしまいました。

ぷりっつ先生、これで売り上げ伸びたらキックバックよろしくんねしゃしゃす!


P.S.

そういえば久しぶりに 「おっぺけですけどいいでそべつに」 の最新記事を読んだのですが、

フーちゃんの破壊力はあいかわらずで爆笑してしまいました (「両方干して」)。

3姉妹の長女のフーちゃん、もう高校1年生のはずなんですが…。

リーガルって海外メーカーじゃなかったっけ?

2015-12-18 15:37:45 | 人間文化論
冬に向けて新しい靴をゲットしました。

リーガルのショートブーツです。



ボルドー色というのでしょうか、とても素敵な色です。

スリッポンで履きやすいというのもありましたが、決め手はこのソールでした。



まるでスタッドレスタイヤのようです。

そうなんです、これは雪道対応の靴として売られていました。

昨年は雪の積もった金谷川の公園の階段で下まで滑り落ちましたし、

一昨年は朝の学内で、前の何人かが滑ったのを見て用心しながら歩いていたにもかかわらず、

同じ場所で滑って、両足が宙に浮くというマンガのような壮大な転び方をしたことがあるので、

これ以上尾てい骨を打たずにすむようにスノーブーツ的なものがほしいと思っていたのでした。

そうしたらたまたま靴屋さんでリーガルのこれが売っていて目が釘付けになりました。

この靴、名前がすごいんです。



「COROBANSHO」。

えっ? 「転ばんしょ」 ですか?

これは日本語のダジャレ?

リーガルって海外のメーカーじゃなかったですか?

念のためウィキペディアで調べてみたところ、やはりアメリカの会社でした。

ただしリーガルの商標権を獲得したリーガルコーポレーションという日本の会社もあるみたいです。

そこが開発したのでしょうか?

誰がこの名前を付けたんだろう?

うーん、謎だ。

はたしてこれで文字通り雪道でも転ばんでしょうということになるのか、

実際の効能については雪が積もったらまたレポートいたします。

はじまりの美術館でワークショップ!

2015-11-28 14:19:23 | 人間文化論
先週末は 「はじまりの美術館」アートdeてつがくカフェでした。

今回は初めての試みとして、てつカフェの前にワークショップとギャラリートークが行われました。

この日の 「はじまりの美術館」 は伊藤峰尾氏の作品の個展となっており、

当日は伊藤峰尾氏も1時に来館してくださって、てつカフェが始まるまでのあいだ、

ゆったりと時間を取って伊藤氏とともにワークショップやギャラリートークを楽しむことができました。

こちらが伊藤氏です (ギャラリートークのときの様子)。



伊藤氏は作品作りをするときはきちんと背広姿で取り組むそうで、

この日も来館してから正装に着替えてくださいました。

私のほうが3つほど年上なのですが、いつものような普段着でうかがってしまったので、

若干気恥ずかしい思いをしてしまいました。

さて、伊藤氏の作品はこういう感じのほっこりする絵が多いのですが、







なんといっても特徴的なのは、海外でも紹介された、自分の名前を延々と書き連ねた作品群です。



可能な方はぜひ拡大して見てみてください。

「伊藤峰尾、伊藤峰尾…」 と数え切れないほどたくさん書かれています。

一番上の 「パッソ」 というのは、障がいを持つ方が訓練や創作などを通して自立できるよう支援する、

地域生活サポートセンターの名称で、伊藤氏は自身のアイデンティティをここに置いているそうです。

こちらはいろいろな用紙に書かれたものを集めたものですが、



ここまでくるともう拡大しても見えないことでしょう。

個々の文字とか名前というよりも、この全体としてひとつの作品に見えてきます。

名前以外にもいろいろな言葉を書いた作品もあります。



こうした作品を作製している伊藤氏ですので、

ワークショップでは伊藤氏にこちらがお願いした文字を書いてもらいましょうということになりました。

まずは世話人の特権で私が一番手に名乗りを上げました。



見えますでしょうか、「てつがくカフェ@ふくしま」 でお願いしてみました。



もうこんな感じで1字1字というよりも点や線の1本1本を、

私の見本と見比べながらじっくりと丁寧に書いてくださいました。

こちらが完成した作品です。



今後これをてつがくカフェ@ふくしまのロゴとして使用させていただくことになるかもしれません。

さて、この作品を見て、そしてその作製過程を間近に拝見させていただいて、

美術なんかに何の興味も関心もなかった私のなかにムクムクと創作意欲が湧いてきました。

で、いても立ってもいられず、館長の岡部さんに紙とクレヨンをねだって、

自分も作品作りに挑戦してみることにしました。

伊藤氏を真似て自分の名前をいくつもいくつも書き連ねていきます。

始めてみるとクレヨンというのは文字を書くのに適さない道具だということがわかりましたが、

書きにくいぐらいがちょうどいいです。

伊藤氏のようにじっくりと1本1本の線を丁寧に書いていきました。

たまたまお借りしたのが20色入りのクレヨンだったので、

20色すべてを均等に使いながらカラフルな作品へと仕上げていきました。

完成したものがこれですっ



題して 「まさおさま無限ループ」。

まさおさまさおさまさおさま…と無限に連なっていくまさおさま地獄です。

ひとつの記事を読むとリンクによって同じブログ内の別の記事に飛ばされ、

そこからさらにまた別の記事へ飛ばされるという、

底なし沼のような我がブログ 「まさおさまの何でも倫理学」 のことを表してみました。

処女作にしてはなかなかの出来と、本人としては相当気に入っています。

途中途切れているように見えるところがありますが、

そこは途切れているのではなく白のクレヨンを使ったところです。

本当はメビウスの輪のようにして最初と最後の 「ま」 を繋げられたらよかったのですが、

そこまで考えて作品作りに取りかからなかったので、

最後は真っ黒な 「ま」 で締めて、最初の黒い 「まさおさま」 に戻るという意味と、

ブログを読み続けていくと最後に明らかになるブラックなまさおさまという2つの意味を込めました。

うーん、いい作品だ。

私の中の創作意欲を引き出してくれた伊藤峰尾さん、本当にありがとうございました。

これからも素敵な作品を作り続けていってください。

はじまりの美術館でアートを見ながらてつカフェだあっ!

2015-11-13 12:35:49 | 人間文化論
来週3連休の中日11月22日 (日) に 「第2回アート de てつがくカフェ」 を開催します!

今年の5月に初めて 「アート de てつがくカフェ」 というものをやってみたわけですが、

あのときはいつものカフェ 「イヴのもり」 で、

ブリューゲルの 「狂女フリート」 をプロジェクタで映し出しながら哲学対話を楽しみました。

あれはあれで話は盛り上がり初めての試みとしては大成功だったと思いますが、

中途半端に本物志向のある私としては、「アート de てつがくカフェ」 を名乗る上で、

複製の写真を見たり、それをスクリーンに映し出した画像を見てやるスタイルでいいのか、

やはり本物のアートに触れながら話し合ってこそ 「アート de てつがくカフェ」 と言えるのではないか、

などと言い出しっぺのぢゅんちゃんに対してないものねだりの注文を突き付けたりしていたのでした。

当日は県立美術館の方も参加してくださっていたので、

いずれは美術館で本物を見ながらやりたいねという話にもなりましたが、

美術館というのは大勢の人が訪れ、それぞれが静かに順番にアートを鑑賞していく場ですから、

そんなところでひとつの作品の前に何十人もがたむろしてぺちゃくちゃ2時間も議論を交わすなんて、

この企画を実現するにはいろいろと高いハードルが待ち受けているだろうなと想像がつきました。

ところが思わぬところから有り難いオファーをいただくことになりました。

猪苗代にある 「はじまりの美術館」 の館長さんからてつカフェのメアドに連絡をいただいたのです。

そちらの館長さんは福大の卒業生の従兄弟の方で、

その卒業生がてつカフェにも来てくれていたので、

彼女からてつカフェの噂を聞きつけて連絡をしてきてくださったのです。

ウェブサイトをご覧いただければおわかりと思いますが、

「はじまりの美術館」 は他とは違う特徴的なコンセプトで創設されたばかりの美術館です。



建物自体も築130年の十八間蔵を改築して作られたもので、そんなに広いわけではなく、

しかしそのなかに小さなカフェを備えていて、いろいろな用途に使えるようです。

ですので、たんに美術作品を展示して鑑賞してもらうだけでなく、

ふだんからさまざまなイベントを開催しているのだそうです。

というわけでトントン拍子で話が進んで、

こちらで 「第2回アート de てつがくカフェ」 を開催させていただけることになりました。

「てつがくカフェ@ふくしま」、とうとう福島市から飛び出ることになりました。

栄えある第1回出張てつカフェは猪苗代のはじまりの美術館です。

今回取り上げるのは伊藤峰尾氏の作品。



「はじまりの美術館」 は社会福祉法人安積愛育園が運営する美術館で、

そこの利用者である障がいをもつ方々の作品も 「アール・ブリュット」 として展示しています。

今回はちょうどそのタイミングに合いました。

作品そのものを純粋に楽しみ語り合うのはもちろんのこと、

アートと障がい、アートと福祉の関係であるとか、

あるいはそもそもそれらを絡めて考えなければいけないのかどうかといったことまで、

哲学的・倫理学的に深めていければと考えております。

カフェの大きさに限りがありますので、今回は事前申し込み制とさせていただいておりますが、

まだ今のところ定員に十分余裕があるようです。

ぜひ今度の連休は猪苗代の新しい美術館で、お茶とお菓子をいただきながら、

新しい美術のあり方と楽しみ方について大いに語り合いましょう!

第2回アート de てつがくカフェ
【作 品】 unico file.01 伊藤峰尾
【日 時】 11月22日(日)
      15:30~17:30 ギャラリートーク&哲学カフェ
【場 所】 はじまりの美術館

               耶麻郡猪苗代町新町4873 TEL/FAX 0242-62-3454
【参加費】 1,000円(ワンドリンク&お菓子+美術館観覧料)
【参 加】 要事前申し込み
               ※館内カフェの定員が20名程度ですので、
                お名前とメールアドレスがわかる内容で、
                以下の【問い合わせ先】に参加申し込みを事前にメールでお送り下さい。
【問い合わせ先】 fukushimacafe@mail.goo.ne.jp

大ピンチ熊本出張

2015-10-04 23:47:22 | 人間文化論
日本倫理学会のため熊本に行ってきました。

初めての熊本旅行だったため、ホテルの選択に失敗してしまいました。

何も考えずに熊本駅近くのホテルを取ってしまいましたが、

熊本駅は熊本大学へのアクセスが悪いばかりでなく、街の中心地でもないようです。

繁華街は熊本城のあたりにあって、駅からはバスか市電で10分ほど移動しなくてはなりません。

熊本大学に行くにもそこで乗り換えてさらにバスで移動です。

初日のワークショップ終了後、倫理学会に参加の皆さんは楽しそうに繁華街に消えていきましたが、

私は1人寂しくみんなを見送り、熊本駅までさらにバスに乗り、

駅から数分歩いたミョーにさびれた地域に建つホテルにチェックインしました。

部屋に入ってみて、ホテル選びの失敗はアクセスの問題だけでなかったことに気づきました。

最大の失敗はこれです!



まさか今どきの日本のビジネスホテルで、

ウォシュレットが付いてないホテルがあるなんて考えてもみませんでした。

ここに2泊もするのに、「温水洗浄便座でないと用は足さ (せ) ない」 私は、

毎朝いったいどうしたらいいんでしょう

楽しいはずの熊本出張が一気に憂鬱になってしまいました。

この危機を乗り切るために私が立てた作戦は以下のようなものでした。

ホテルでは極力、小さな用しか足さないようにして、

大きな用事はどこかで温水洗浄便座を見つけて足すようにする。

とはいえ学会参加中の私にはこれはなかなか困難なミッションです。

熊本大学のトイレはすぐにチェックしてありましたが、

温水洗浄便座はどこにも見当たりませんでした。

するとあとは駅周辺のどこかで見つけるか、乗り換え地点の繁華街で見つけるかしかありません。

ミッション・インポッシブルかと弱気になり、

昨年の誕生日にもらった外出時携帯用 「おしりセレブ」 を何とか2日に分けて使おうか、

なんてことも考えましたが、結果的には当初の計画どおりに何とか乗り切ることができました。

まずは乗り換え地点にある熊本城です。

素晴らしいお城なのでぜひ見ておいたほうがいいというオススメに従い、

2日目の朝、乗り換えついでに寄ってみました。

10月というのに汗ばむほどの快晴に恵まれ、それは見事な姿を拝むことができました。



この天守閣も立派ですが、石垣の造りや天守閣と見紛う櫓の数々も素敵です。

しかし、何がスゴイってここのトイレが絶品でした。

観光名所にあるトイレってまったく使い物にならないという先入見があったし、

建物を見た時点でまさかここで大用を足すことになるとは思ってもみなかったんですが、

公共のトイレとしてはたぶん今までで最高のトイレだったと言っても過言ではありません。

こうですよ。



同じ個室の中の反対の壁面はこう。



個室のなかで撮影せざるをえなかったのでうまく全体像をお伝えできていませんが、

設備・機能といい、広さといい、清潔さといい、本当に最高水準です。

とても快適に用を足すことができました。

熊本城への入場料の500円はこのトイレを使用するためだけでも払う価値があるというものです。

味をしめたので翌朝もこちらを使おうかとも思っていたのですが、

前夜に懇親会やら2次会やらで飲み過ぎたのか、朝起きた時点ですでに催しており、

とても熊本城まで我慢できる感じではありませんでした。

若干追い詰められた私ですが、ホテルの近辺にちょっと目をつけている建物がありました。

ホテルとは通りをはさんで反対側に建っているビルが何となく新築っぽかったのです。

こちら。



なんかトイレとかも新しそうじゃありません?

何のビルかもわからないまま、最終日だったのでトランクやら全ての荷物をコロコロ転がして、

この得体の知れないビルに近づいてみました。



すると、熊本地方合同庁舎だったみたいです。

日曜日なので開いているか不安になりましたが、ちゃんと入棟することができました。

案の定、できたばっかりの建物のようで中も新しい感じです。

トイレもビンゴでした。



熊本城のトイレに比べたら若干負けますが、用を足す分には何の問題もありません。

しかも可愛いことに、トイペがくまモンです。



噂には聞いていましたが、熊本市内は何から何まで全部くまモンでした。

ちなみに合同庁舎内の自衛隊勧誘看板もくまモンでした。



それはいいとして、ホテル選択を過ったために一気に窮地に立たされたまさおさまでしたが、

たまたまの偶然と天性のカンのおかげで何とか乗り切ることができました。

今後はこういう苦労をしなくてすむよう、ホテル選びは慎重に行いたいと思います。

それにしても温水洗浄便座が付いていないホテルは、

ホテル名の次ぐらいに (宿泊金額よりも大きく)

付いてないということを堂々と宣言しておいてもらいたいものです。

Q.今まで話を聞いたり読んだりしてきたなかで、一番驚いたりなるほどと思ったことは何ですか?

2015-09-29 14:12:59 | 人間文化論
ご質問ありがとうございます。

哲学や倫理学の専門書だったらもう無限にいろいろとあるのですが、

せっかくですので皆さんでも読めそうなやつのなかからセレクトしてみることにしましょう。

第2回目の授業のときに 「人間とは何か」 について考えてもらい、

私のほうからも少し話させていただきました。

そのときに人間は 「本能の壊れた動物」 だという説をご紹介しました。

その説に初めて出会ったのが岸田秀の 『ものぐさ精神分析』 という本でした。



私の説明では、人間は本能が壊れているが、壊れたままだと生きていくことができないので、

本能の代替物として人間は 「文化」 を生み出し、文化を後天的に学んでいくことによって、

何とか世界に適応して生きていけるようになったのだ、というふうにお話ししました。

岸田氏の議論は同じことをもっと過激に表現していて、

本能が壊れた人間は現実に適合するために 「幻想」 を作り出したのだ、と論じています。

そのような自らの世界観を岸田氏は 「唯幻論」 と命名しました。

唯幻論とは、人間にとって世界はすべて幻想である、という意味です。

これにはものすごく衝撃を受けました。

人間は本能の壊れた動物だという説だけでも十分に破壊力があったのに、

その補完のために人間が生み出したものはすべて幻想である、というのは本当に破壊力抜群でした。

自分が信じてきた価値やこれから研究していこうと思っていた倫理や道徳が、

すべては幻想にすぎないと言われてものすごくショックを受けましたが、これによってふっきれて、

一切を疑っていいのだと哲学・倫理学の道に進む覚悟ができたのかもしれません。

岸田氏は心理学者・精神分析学者であって、哲学者・倫理学者ではないのですが、

私が哲学・倫理学の道へ進む後押しをしてくれた人のひとりであったとも言えるでしょう。

というわけで、質問へのお答えとしては次のようにまとめておくことにします。


A.今までで一番驚きそして納得したのは岸田秀氏の 「唯幻論」 です。


岸田氏の本のなかで代表的な、というか読みやすそうなものを何冊か以下に挙げておきます。

実は、第1回目の授業でお配りした参考文献一覧のなかに岸田氏の本は入れませんでした。

基本的には心理学・精神分析学の本なので、

哲学・倫理学の参考文献として挙げるのがためらわれたのもありますが、

それ以上に、内容的に若者にはあまりにもインパクトが強すぎるかなと自主規制した部分もあります。

「本能の壊れた動物」 という説にあまり違和感を感じなかった人、

あの話をもっと突き詰めて考えてみたいというチャレンジ精神旺盛な人はぜひ読んでみてください。
 

『ものぐさ精神分析』(中公文庫)

『続ものぐさ精神分析』(中公文庫)

『唯幻論物語』(文春新書)

『性的唯幻論序説―「やられる」セックスはもういらない』 (文春文庫)

大人とは何か?

2015-09-05 07:12:33 | 人間文化論
前回のてつカフェでは 「〈おとな〉 とは何か?」 というテーマで対話しました。
ご案内にも書いてあった通り、私と純ちゃんは7月に、
「ネオ・ソクラティック・ダイアローグ」 の研修を受けてきたばかりなので、
今回は、いつものように多様な意見が出されてそれでおしまいではなくて、
テーマに関して何とか一定の合意に至れるような議論を目指してみることにしました。
純ちゃんがファシリテーターと記録役 (ホワイトボードではなくただのパソコン打ち込み)という、
たいへんな二役を自ら買って出てくれましたので、
私は対話参加者のひとりとして合意形成に寄与できるような発言をしていくつもりでした。
結果としてはその意図はまったく果たされないまま、
私の発言はただひたすら議論を迷走させる方向に働いてしまいました。
誠に申しわけありませんでした。
詳しくは当日の記録を見ていただければと思いますが、
いちおう言い訳というか、なぜあの時私があのような発言をしたのかという、
私の意図だけ補足しておきたいと思います。

当日の議論は、合意を目指そうという私たちの意図をあざ笑うかのように、
いつも通りの自由奔放な展開を見せて進んでいきました。
一番最初に指摘された、「成人」 と 「大人」 の概念は区別すべきだという説には大賛成で、
「大人とは何か」 に関してはいろいろと自由に哲学的議論を深めることができると思いますが、
現実の社会としては法によって 「成人とは何か」 をはっきりと定めて、
これはもう、何歳であれ、とにかく年齢で区切るしかないと思うのですが、
ある一定の年齢を過ぎたら成人とみなし、成人たる資格・能力を有しているものとみなす、
(現実にそういう資格とか能力を有しているかどうかということとは関係なく)
というふうに決めるしかないだろうと思っています。
本当にその資格や能力を持っているのかどうかということを厳密に測定しようとし始めると、
この世には本物の大人 (成人) なんて1人もいないということになりかねません。
どなたかが 「成人とは自立して責任ある行動を取って社会に貢献することが求められる人。
大人は求められるのではなく、能力がある人ということになります」 と発言されていました。
その方と私が同じことを言っているのかどうか疑問な部分もありますが、
私としてはその方の意見に全面的に賛同いたしました。
大人というのがある一定の能力や資格を実際に持っている人のことを指す概念だとすると、
成人というのは、そうした能力や資格を現実に有しているかどうかとは関わりなく、
ある年齢を超えたら、法律上そうした能力・資格を有しているものとみなされる (=求められる)、
そういう人々のことを指す概念なんだろうと思います。
法的には厳密な能力主義に立つことはできず、けっきょく年齢で区切るしかないのだと思うのです。
そうでもしないと私や純ちゃんはいつまでも少年法でしか裁けないことになってしまうでしょう。

残念ながら当日の議論では、この成人と大人の区別が共有・合意されることなく、
その後一瞬、生殖能力の話が出たあと、そこからはどんどん文学的な方向に話が流れていき、
とてもじゃないけど合意に至れる雰囲気ではなくなっていきました。
そこで私は議論を整理するために、小浜逸郎 『 正しい大人化計画』 の冒頭に出てくる、
大人とは何かに関する定義というか、整理・分類を紹介することにしました。



小浜氏はこの本のなかで、大人を大きく3つ、さらに細分化して全部で7つに分類しています。

A 生理的大人
 (1) 年齢を経て身体が大きくなり運動能力が強くなっている
 (2) 生殖能力がある

B 社会的大人
 (3) 親から経済的に自立している
 (4) 仕事や家庭で責任を果たせる

C 心理的大人
 (5) 落ち着いていて、小さなことで騒がない
 (6) 場面に応じて態度を使い分けられる
 (7) いろいろな知恵・知識があってそれを伝えられる

私は7つの下位区分にまで同意しているわけではないのですが、
生理的大人、社会的大人、心理的大人という3分類はけっこう使えるのではないかと思っています。
このうちの3番目の心理的大人に関しては、人それぞれ大人の条件とみなすことが異なり、
このレベルでお互いの意見をいくら出し合っても合意が得られるとは思えませんでした。
今回のてつカフェで出されたほとんどの意見はこの心理的大人に関する各自の捉え方であり、
それはそれでいつものてつカフェの形式であれば十分面白く拝聴することができましたが、
今回に限ってはこのレベルで意見のやり取りをすることはある意味で控えて、
みんなの合意が得られそうなレベルに議論を集中するべきなのでは、
というのが私が言いたかったことです。

また、逆に第1レベルの生理的大人の話に関して言うと、
これはけっきょく別の言い方をすると動物レベルの大人 (成獣?) の話と同じであり、
それはもちろん人間の大人にとっての必要条件ではあるけれども、
十分条件にはなりえないように私には思えました。
てつカフェのなかで生殖能力に言及してくれた方も、
人間の場合は生殖能力を身に付けたからといってただちに大人だとは言えない、
と主張しておられましたし、私もその意見には賛成でした。
とするとけっきょく、今回の議論で問題にすべきは第2レベルの社会的大人概念であり、
もちろんこれに関してもいろいろな意見がありえるだろうとは思いますが、
時代や社会の変動条件を捨象して、もしも普遍的に大人とは何かを定められるとするならば、
それはこの社会的大人の概念に関してだけだろうと私は考え、
そこに議論を絞って哲学的対話を展開していくべきではなかろうかと提案したかったわけです。

残念ながらこの提案は受け入れられることはありませんでした。
それには私の論の進め方の杜撰さも関係してきています。
私は、ただ生殖能力を持っている生理的大人と、今回問題にすべき社会的大人とを区別するために、
人間の場合は他の生物と異なって、ただ子どもを産めばいいのではなく、
産んだあとに育てる (養育する=扶養+教育) ことができなければならない、
つまり親として子どもを養育する能力・資格があるかないかが社会的大人の基準だと思いました。
これはあちこちの中学校高校で話している、
人間とは 「本能の壊れた動物」 であって、そのために本能の代替物として
「文化を産みだし、文化を用い、文化を学んで、文化を伝えていく動物」 なのである、
という話と密接に関わってくる問題です。

ここで言う文化というのは、文化系/体育会系という対立軸での文化ではなく、
文化系/理数系という対立軸での文化でもなく、
文化/文明を対置させて理解しようとした場合の文化でもありません。
ここで言う文化は、文化人類学で言うところの 「文化」 であり、
これは言い換えると 「非遺伝的適応能力」 ということになります。
つまり、遺伝によって親から伝えられるのではない、
人類が生み出したものすべては 「文化」 であるということになります。
机や鉛筆や衣服など私たちの身の回りにある有形のモノはすべて文化であり、
言語や貨幣制度や一夫一婦制や学校制度などの無形の制度もすべて文化です。
人間はこれらの、遺伝によって受け継いだわけではない文化を使いこなさないと生きていけません。
これらはセミの生殖能力などとは異なり、遺伝によって親から子へと与えられてはいないので、
産まれたあとに後天的に習得 (親の側からすると伝達) しなければならないのです。
その点を表現するために、いわゆる生殖を表す 「再生産 (リプロダクト)」 という語を用いて、
「文化の再生産」 という言い方で表現してみました。
つまり、動物のようにたんに自分の遺伝子を受け継ぐものを再生産すればよいのではなく、
人間の場合は産んだあとに文化も伝達して文化の再生産もしなければならない、
したがって大人 (=社会的大人) とは、文化の再生産ができる者のことである、と論じたのです。

この 「文化の再生産」 という表現が皆さんの誤解を招いてしまいました。
今も、文化の再生産を説明するために2段落ほど費やさなければなりませんでしたが、
当日はそういう丁寧な説明をすっ飛ばして、安易に 「文化の再生産」 と言ってしまったために、
その後の議論は、上流階級の徳目の教育とか、アニメのリメイクとか、
革命と改革の違いとかの話に流れていってしまいました。
哲学カフェの精神に背いて、下手に専門用語 (しかも人口に膾炙していない新造語) を用いてしまったために、
てつカフェの議論をあらぬ方向にミスリードしてしまいました。
これは本当に反省すべき点だったと思います。
ふだんだったらこんな軽はずみな発言はしないのですが、
皆さんの合意を目指すというこの日のミッションに焦ったあまりに、
何とか助け船を出そうとしたつもりが、完全に裏目に出てしまいました。
本当に申しわけありませんでした。

けっきょくこの日の議論は合意に至ることはなく、
いつも以上に混乱したまま終了してしまいました。
もしも合意を形成することができたとしたら、はたしてどのような合意になったのでしょうか。
私の予想としては以下のようなことを想定していました。

どなたかも発言されていたように、
「大人」 という概念は 「子ども」 という概念と対になっている相対的概念です。
しかし私は、相対的概念だから定義できないというのは間違っていると思います。
てつカフェではさらに 「大人っぽい」、「子どもっぽい」 という概念対が話題に上りましたが、
これはもうたしかに定義や合意不能であり、大人であれ子どもであれどんな人間にも、
大人っぽい部分と子どもっぽい部分が共存しているということになってしまうでしょう。
「大人っぽい」 という語を定義しようとすると、
先ほどの第3レベルの心理的大人に関する各人各様の思いが無限に出てくるだけですし、
それよりも、そもそも 「大人っぽい」 とか 「子どもっぽい」 というのは比喩表現なのです。
私は授業ではよく、言葉の定義を考えるときに、
比喩表現を混入させてしまうと定義不能になるので注意するようにと話しています。
例えば、「戦争」 概念を定義しようとするときに、
受験戦争や冷戦のことまで含めた定義を考えようとするとドツボにはまってしまうのです。
これはもともと戦争とは全然関係ない受験や東西対立構造を、
戦争に譬えることによってその激しさを表現しようとした比喩表現です。
だから、戦争を定義する際には受験戦争や冷戦のことは考えなくていいのです。
テロリストの定義を考えるときにインリン・オブ・ジョイトイのことを考えなくていいのと同じことです。

というわけで 「大人っぽい」、「子どもっぽい」 という概念対で考えるのはやめて、
「大人」 と 「子ども」 という概念対で考えることにすると、
ヒントになるのは、「子ども」 という概念と対になるのは 「大人」 という語だけではなく、
「親」 という概念もあるということではないでしょうか。
もちろん親と大人は同じ概念ではありません。
親と子どもは血縁関係または法的関係で結ばれています。
大人と子どもの場合にはそうした関係は (あってもいいけど) 不可欠ではありません。
しかし、根幹には親と子どもの関係性と類似した関係が存在しているように思うのです。
そこから、時代とか社会とかの可変性、相対性を超えて、普遍的に大人を定義しようとするならば、
大人とは、「親になることのできる者」、
「子どもを養育する可能性を有する者」 と定義できるのではないでしょうか。
どういう能力や資格を備えたら親になることができるのかということに関しては、
時代や社会によってその内容は変わってくるでしょう。
が、できるかぎりこれも普遍的に言える条件だけに絞って挙げてみるならば、

(1) 親から自立している (親の養育を必要としない)
(2) 子どもが大人になるまで扶養できる
(3) 子どもや他人に文化を伝達できる (=文化の再生産)

てつカフェのときには小浜さんにつられて 「経済的自立」 という語を使いましたが、
石器時代にも通用することを考えると 「経済的」 という限定は外してもよいかと思いました。
逆に現代では血縁関係がなくとも親になることはできますので、生殖能力は入れませんでした。
また、議論のなかで私が経済的自立に言及したときに、
病気で入院している人は大人ではないのかという質問が出ましたが、
その他、要介護老人やニートといったケースに関しては、
最初に述べた、大人ではなく成人という概念ですくいあげればいいのではないかと考えます。

さて、どうでしょうか?
「大人とは、親になることのできる者である」。
ここらあたりで合意できないものでしょうか?
合意できるかな?
できないだろうなあ。
なんだかすでに一斉砲火の音が聞こえてきそうな気がします。
コメント欄でご意見、ご質問、お待ち申し上げます。

2015年8月22日はイベント盛り

2015-08-22 11:16:26 | 人間文化論
本日8月22日は各地でイベント盛りです。
身ひとつしかないのですべてに参加できないのがとても残念です。
まずは何と言っても自らが主催のこれですね。



16時から 「イヴのもり」 です。
18時からは同じく 「イヴのもり」 で2次会もやっております。
皆さま、お忘れなく。

同じ今日、仙台のメディアテークでは、
「安保関連法案に反対する被災三県大学教員有志の会」 主催のシンポジウムが開かれます。

シンポジウム
「失われるものは何か、犠牲になるのは誰か――安保関連法案について被災地から考える」

日時 : 8月22日 14:00―17:00
場所 : せんだいメディアテーク7階スタジオシアター

今、問題になっている安保関連法案が成立したとき、そのあとに何が起こるのか。私たちの社会から何が失われ、誰が犠牲になるのか。被災地に生きる私たちは、この法案にどう向き合えばいいのか。私たち「安保関連法案に反対する被災三県大学教員有志の会」は、これらの問題について、学問の分野を越えて東北地方の知を結集し、シンポジウムを行うこととしました。当日は法学、歴史学、社会学などの専門家に法案の問題点についてお話しをうかがった後、被災地から声をあげることの意味についてパネルディスカッションをおこない、市民の方々とも共に語り合う時間を持ちたいと思います。みなさん、一緒に考えてみませんか...

一部:安保関連法案の問題点について
  糠塚康江 (東北大学教授・憲法学)
  清水修二 (福島大学特任教授・財政学)
  末永恵子 (福島県立医科大学講師・歴史学)
  井上博夫 (岩手大学教授・財政学)
  長谷川公一 (東北大学教授・社会学)
  吉田遼 (Peace Depot・安全保障論)
  安達由紀 (SEALDs TOHOKU)

・第二部:パネルディスカッション「被災地から安保関連法案の問題を考える」およびフロアとの応答


日にちがずれていればこちらも参加したかったのですが残念です。
それから昨日、てつがくカフェ@ふくしまのメアド宛てにこんなメールをいただきました。

「小野原雅夫さま 渡部純さま 杉岡伸也さま

はじめまして。
猪苗代町に昨年開館いたしました、
はじまりの美術館の岡部と申します。

私の従姉妹・○○○○より、小野原先生のことを伺い、
てつがくカフェのブログで『ある精肉店のはなし』を取り上げられていたのを拝見して
明日開催のトークイベント、及び9月12日開催の上映会のご案内をさせていただきたく、
メールさせていただきました。

はじまりの美術館
FB: https://www.facebook.com/hajimarinohajimari
HP: http://www.hajimari-ac.com/

現在、『のけものアニマル‐きみといきる。』というタイトルで、
動物に焦点を当てた企画展を開催しており、
関連イベントとして、
明日8/22(土)には、トークセッション 命をかんがえる
 https://www.facebook.com/events/1065158450176183/
来月9/12(土)には、上映会『ある精肉店のはなし』及び監督を招いてのトークイベント
 https://www.facebook.com/events/156180574715370/
を予定しております。

てつがくカフェで取り上げられていたテーマと重なる部分もあり、
はじめてのご連絡で、また直前で大変恐縮ですが、
もし、ご関心をお持ち頂き、お時間が許されましたならば、
ご参会頂けましたら幸いです。

一方的なご案内にて失礼いたしました。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

岡部 兼芳 Takayoshi Okabe
------------------------------------------------・
社会福祉法人安積愛育園 はじまりの美術館
〒969−3122 福島県耶麻郡猪苗代町新町4873
TEL/FAX:0242-62-3454
mail:okabe@aiikuen.or.jp
FB: https://www.facebook.com/hajimarinohajimari
HP: http://www.hajimari-ac.com/ 
------------------------------------------------・」


福大卒業生の従兄弟の方が福島県猪苗代にある 「はじまりの美術館」 の館長をされているようです。
そこで本日、トークセッション が開催されるそうなのです。

トークセッション 「いのちを考える」

年間約50校で「いのちの教育」を行っている奈良県うだ・アニマルパークの取り組みの様子などを交え、家庭や学校、そして社会で、命について子どもたちとどんなふうに向け合えばいいかを考えるトークセッションです。

日時 2015年8月22日(土)14:00-15:30
会場 はじまりの美術館 カフェスペース
会費 無料

[話し手]

大森亜起子
うだ・アニマルパーク
三重県名張市生まれ。
2006年奈良教育大学学校教育教員養成課程卒業。
2007年奈良市立吐山小学校勤務。2013年より現職。

藤谷玉郎
(一社)ふくしまプロジェクト理事
(株)チアーズ取締役
秋田県生まれ。
東北大学・大学院卒業。
福島県庁・秋田県庁を経て2014年4月より現職

岡部兼芳
はじまりの美術館館長
(社福)安積愛育園マネージャー
福島県郡山市生まれ。
1999年釧路公立大学経済学部卒業。
2002年仏教大学教育学部通信課程修了。
2000年障がい者小規模作業所勤務。
2002年郡山市立守山中学校勤務。
2003年安積愛育園入社。2014年より現職。

*本イベントは、現在開催中のアニマル展の関連企画として、
はじまりの美術館とふくしまプロジェクトが共催いたします。

【関連URL】
うだ・アニマルパーク http://www.pref.nara.jp/1839.htm
ふくしまプロジェクト http://fukushimaproject.org/


こちらもさすがに本日、猪苗代まで足を伸ばすわけにはいきませんが、来月には、
昨年 「シネマ de てつがくカフェ」 で取り上げた、
『ある精肉店のはなし』 でトークイベントが開催されるようですし、
また私たちとしても今年から 「アート de てつがくカフェ」 を始めたところですので、
今後、「はじまりの美術館」 さんと何かご一緒できるとうれしく思います。
猪苗代近辺にご在住の皆さん、
てつカフェに来られない場合はこちらのイベントに行ってみてはいかがでしょうか。
うーん、今日は東北が熱いなあ

2年生は 「零展」

2015-08-11 17:28:16 | 人間文化論
先日、スポーツ・芸術創造専攻、美術分野4年生たちのプレ卒展 「がってん」 をやっていましたが、

今度は2年生たちによるクラス展覧会 「零展」 のご案内です。



明後日の13日 (木) から5日間の開催です。

読み方は 「レイテン」 ではなく 「ゼロテン」 だそうです。

人間発達文化学類が発足してから10年。

この間、本来なら自分とは全然関わるはずのないスポーツ・芸術創造専攻の学生たちの必修科目

「文化創造論」 を担当して、彼らのコンサートや展覧会等にも足繁く通ってきましたが、

それも去年の2年生までで一区切り。

カリキュラムの改編によって昨年の入学生からは 「文化創造論」 を取らなくてよくなりました。

旧カリキュラムの学生たちでまだ履修していない子たちのために今年度後期は開講しますが、

その授業を今の2年生たちが取りに来ることはありません。

つまり、この 「零展」 を主催している学生たちとは直接、授業で出会うことはないのですね。

なんだか不思議な気分です。

今までは 「文化創造論」 というたった1科目のなかで出会っただけでしたが、

それでも何となくそれだけで自分の教え子という気分になっていました。

今の2年生以降とはそういう繫がりがなくなっちゃうんですよねぇ。

そうすると彼らとはどういう関係になるんでしょうか?

まあ無関係になるんでしょうね。

もう関係がないんだから、別に見に行く必要はないし、

ここで彼らのイベントを告知する必要もないのかもしれませんが、

この不思議な気分を噛みしめるためにちょっと見に行ってみてもいいかもしれないと思っています。

カリキュラムの改編によって学生たちがどう変わるのか、

そこらあたりも教育に関心を寄せる者として見届けてみたいと思います。

福大管弦楽団第30回サマーコンサート

2015-08-05 13:01:30 | 人間文化論
今週の金曜日、福大管弦楽団のサマーコンサートが開催されます。

残念ながら私はお仕事のため聴きに行くことができませんが、

おヒマな方はぜひ私の代わりに聴きにいってあげてください。

週末の夜にクラシックデートというのもステキではないでしょうか。

入場無料ですので家族や恋人と、あるいは友人どうしお誘い合わせの上お出かけください。