goo blog サービス終了のお知らせ 

団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

何でわろうてんの、うちはこんなに悲しいのに

2018-04-21 08:50:31 | 日記
中日新聞の「くらしの作文」に62歳の女性が「母の思い」というタイトルで投稿されていました。


 かの万葉集にも詠まれ、風光明媚な和歌山・新和歌浦。
キラキラと輝く朝日をその身にまといながら、ポンポン船が水面をゆったりゆったりと過ぎていきます。

 あの軽くはじける、何とも心地よい汽笛で目覚めていた、やんちゃ娘の隣には、
いつも優しい母がいました。

 母はどんな時も私の味方で、百パーセント私を信じて、応援してくれる人でした。
あの頃の私は、この幸せな朝がずーっといつまでも続くと信じていました。

 わけあって、大好きな母の元を離れて、神戸に住む厳格な父の元へと向かう日、
途中大阪・難波のレストランでの昼食のあと、母は好物のフルーツパフェを
注文してくれました。

 パフェを口に運ぶ手を止め、ふと見上げた母の顔はなぜか笑顔でした。
当時幼かった私は「何でわろうてんの、うちはこんなに悲しいのに」と、
心の中で叫んでいました。

 あれから50数年。
三河湾に抱かれたこの町で、母が91歳で逝ってはや、10年がたとうとしています。

 そして今なら、痛いほど分かります。
なぜあの日、あなたが笑っていたのかを。

 それは、自分の手元から離れていくわが子への「利枝子、頑張れ」という
精一杯のエールだったのですね。


 以上です。


 泣けました、母親の愛情って悲しいほど深いですね。

「パフェを口に運ぶ手を止め、ふと見上げた母の顔はなぜか笑顔でした。」
どのようなお気持ちで娘さんを見ていらっしゃったのでしょうか。
心は悲しみでいっぱいなのに、娘さんの将来を思い、笑顔で見送らなければと思われたのでしょうか?
どのような事情か分かりませんが、お母様の愛情が垣間見えました。
娘さんも今はお母様のお気持ちがわかる年代になられたんですね。





ズー・ニー・ヴーZoo Nee Voo/白いサンゴ礁Shiroi Sangosho (1969年)  視聴No.3