2007年09月07日記載
映画「HERO」が明日から公開される。フジテレビは宣伝に躍起である。私もドラマを楽しく見ていた一視聴者である。映画も見に行きたいと思っている。
しかし、1つだけ言っておかなければならないことがある。それは裁判では「真実」は明らかにされないということである。刑事裁判で明らかにされるのは、検察官の作成した文書である起訴状に書かれた公訴事実が合理的疑いを入れない程度に確からしいか否かということだけである。
公訴事実というのは、検察官の作成した物語である。「真実」などというたいそうなものではない。「真実」は加害者・被害者にしかわからない。他の全ての人にはわからない。検察官然り、裁判官然りである。
人間は真実を把握できる程の存在ではない。検察官が言う「正義」も「真実」も、ただ検察官がそう思っているに過ぎない。裁判所が下す判断も「真実」ではない。起きた事実に対して何等かの判断を下さなければ社会秩序が維持されないから下しているに過ぎない。そういう冷めた視線で検察官や裁判官の言動を見なくてはならない。検察官や裁判官が「真実」を実現してくれるなどと思うのは危険極まりない。
「人間が人間を裁くことができるのか。否、否、決して否である。」(ドストエフスキー)
映画「HERO」が明日から公開される。フジテレビは宣伝に躍起である。私もドラマを楽しく見ていた一視聴者である。映画も見に行きたいと思っている。
しかし、1つだけ言っておかなければならないことがある。それは裁判では「真実」は明らかにされないということである。刑事裁判で明らかにされるのは、検察官の作成した文書である起訴状に書かれた公訴事実が合理的疑いを入れない程度に確からしいか否かということだけである。
公訴事実というのは、検察官の作成した物語である。「真実」などというたいそうなものではない。「真実」は加害者・被害者にしかわからない。他の全ての人にはわからない。検察官然り、裁判官然りである。
人間は真実を把握できる程の存在ではない。検察官が言う「正義」も「真実」も、ただ検察官がそう思っているに過ぎない。裁判所が下す判断も「真実」ではない。起きた事実に対して何等かの判断を下さなければ社会秩序が維持されないから下しているに過ぎない。そういう冷めた視線で検察官や裁判官の言動を見なくてはならない。検察官や裁判官が「真実」を実現してくれるなどと思うのは危険極まりない。
「人間が人間を裁くことができるのか。否、否、決して否である。」(ドストエフスキー)