おじさん山伏です

修験道の修行から見た心の散歩です。
アイヌのアシリ・レラさんからの命名です。
「キムン・マタギ」になりました。

江ノ島岩屋洞窟のお参り 江島神社の発祥地です。

2017-07-13 | 神道

岩屋洞窟は、海蝕で作られた珍しい洞窟です。

第一岩屋は、奥行き152mで第二岩屋は、56mあります。

江島神社は、552年にこの地に鎮座されました。

役行者も修行されたと言われています。

この海岸にはトビが沢山います。

島に吹き付ける風に乗って大空を舞っています。

 

入り口を入ると展示があります。

 

 

 

 

ロ-ソクが手渡せられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二岩屋に向かいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰りは下道

 

 

鳥居のところに出てきます。

江ノ電の江ノ島駅に向かいます。

ありがとうございました。

洞窟は、死と生をつなぐ場所と考えられてきました。

沖縄などで死者を洞窟に葬る習慣がありました。

北海道考古学会会長大島直行先生の

「月と蛇と縄文人」と「縄文人の世界観」を読み終えました。

縄文時代に大変興味を抱いていろいろな本を読みましたが

大島先生の本は面白かった。

その中から縄文人が家を焼いている遺跡が見つかります。

そのことについての大島先生の研究からです。

 

縄文時代の家が焼けていることは古くから知られていました。しかし、その原因についてはあまり関心が持たれず、研究ではむしろ焼け残った建築部材の分析結果に基づいた竪穴住居の構造解明や復元に力が入れられていたというのが実情です。

 

 私は、北海道でたまたま縄文時代の火災住居を発掘する機会が続いたことから、その原因が気になりいろいろ調べてみたのです。その結果、たいへんに驚くことになりました。それまでの研究では火の不始末や落雷などの災害が火事の原因と考えられてきたのですが、よく調べてみると、炉跡(囲炉裏)がないのに焼けている例が少なくないことや、時期的に見て縄文時代の中頃以降になると急に火災住居が増えることなど、従来の「火事説」では説明しきれない数多くの事例に遭遇したのです。

つまり、縄文の火事には、「焼けた家」だけでなく、故意に家に火を放たれたような「焼いた家」の存在が浮かび上がってきたのです。(中略)

 

アイヌ民族の家を焼く風習 火災住居の調査を進めていく中で、私は、家を焼くアイヌ民族の風習である「チセ・ウフイカ」(家の焼却)や「カス・オマンデ」(仮小屋送り)にたどり着きました。

 

 アイヌが家を焼くのは、あの世に旅立つ死者に家を持たせるための神聖な「送り儀礼」です。それは、絵画や紀行文といった18世紀以降の和人の記録にもしばしば見ることができます。この研究を精力的に行なった久保寺逸彦(1902-1971年)によれば、アイヌ民族が死者の家を焼くのは次のような理由によります(『アイヌ民族誌』)。

 

 「アイヌの考えでは、家も生命のある物で、チセ、カッケマツもしくはケルン・カッケマツと呼ばれるが、どちらも。家夫人”の意である。家を焼くことは、その形骸を焼却することによって、内在する霊を離脱させる唯一の手段だったと思う。先に、。アイヌの死者の国”の項で述べた通り、死者の他界に赴いてからの生活は、現世そのままの連続である。現世そのままの生活だとしたら、

この世ながらの家を必要とし、そこに行くに、先にゆく、後から行くの違いはあっても、やがて、その家で一家揃って団楽することになる。だから、男女(ことに先に死ぬ老婆や老翁の時には)いずれが死んでも、必要な家を焼いて持たしてやるということになるのではないだろうか」

 

 私はこの考え方に沿って、アイヌ民族の習俗であるチセ・ウフイカにおける縄文時代からの連続性を探ってみたのです。

 

最後の「家送り」 このチセ・ウフイカという習俗には、1891年(明治4年)に、家を焼くのは不経

 

済だということで北海道開拓使から禁止令が出されています。死者の出た家に葬儀代を支給する代わりに家を焼くなというものです。しかし、アイヌ民族はこの風習を昨日今日始めたわけではありませんから、そう簡単に止めるわけにはいかなかったのです。そこで考え出されたのがカス・オマンデ(仮小屋送り)だったのです。

 

久保寺によれば、(恐らく、家を焼く習俗の遺習であるうと思うが、死者全に老翁や老婆)が出ると、別に小屋を建てて、これに故人の生前の副葬した以外の調度品を入れて、焼き捨てる習俗は、かなり後まで広く行なわれていたらしいし、今なお行なっているところも少なくない」といって、

 

いくつかの例をあげています。

 

 私か知るかぎりでは、1959年頃に静内町農屋で行なわれたカス・オマンデが、おそらく最後の家送りではなかったかと思います。藤本英夫や更料源蔵が撮影した写真とNHKが撮影した記録映像が残っています。いずれもきわめて貴重な記録です。(中略)

 

 ところで、こうした家を焼く儀式の意味を知るうえでは、儀式に先立って行なわれるチセの(火の神様デペフチ)」にその旨を告げる祈詞の存在が大切です。

縄文文化について本を読んでいると

いろいろと示唆することに出会います。

淸水義久さんのセミナ-を聞いていると

淸水さんの脳にしまい込まれた何千年前の知恵が出てくるのでは

と感じています。

 

来週末からホロトロピック主催の断食会が塩山であります。

その前に、茅野市の尖石縄文考古館に縄文のビ-ナスに逢いに行く予定です。

縄文土偶は、岡本太郎が驚愕した芸術です。

でも、縄文人が感じていた美と現代人が感じていたものとは違っています。

今の美を感ずる根底にギリシャ時代の哲学があって初めて美の概念が

生まれたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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