新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

衣替えの文化

2014-09-21 07:39:04 | コラム
我が国には季節感が乏しくなってきた:

9月も第4週に入った。だが、最早東南アジア的な気象条件の国と化した感がある我が国の東京に暮らす私は、朝でも25度を超す暖かさのコンクリート住宅の中ではTシャツ1枚で過ごしているし、外出でもそのままで問題ないと思う時がある。

街に出れば私同様にTシャツ姿の者の高齢者いれば、長袖のシャツの男女もいれば、スーツでネクタイという勤め人風もいた。安倍総理は何処かの会合にスーツにネクタイ無しで参加され、演説をしておられた。人は様々であるし、それでも良い時代になったのだと受け止めている。そう言えば「クールビス」等という何となく誰かが押し付けているような服装もあった。

思い起こせば、その昔には「衣替え」という「季節の変化に応じて衣服を着かえること」と広辞苑にある習慣(文化)があった。私は経験出来なかったが、制服がある学校では季節によって着がえていた。この習慣(校則?)は残っているようだが、我が国では服装を変えて季節の変わり目を表す習慣(傾向か)が薄れてきたと痛感する時代に入ったようである。

1972年の8月だったか、初めてアメリカ(本土)に渡ってロス・アンジェルスのホテルに泊まった時のことだった。プールの傍らを歩いていると、多くの水着姿の人たちの中に毛皮のコートを着て堂々と歩いている女性を発見し、その物凄い個性の主張に驚くと同時に「この国には季節感というものはないのか」と思わずにはいられなかった。後になって考えれば、そこはカリフォルニア州だったのだが。

しかし、時移り人変わり、我が国にも良い意味でも、みっともない(好感を与えない)意味でも、衣服で個性を主張する傾向が顕著になって来たと思わずにはいられなくなってきたと思う。しかも、そこに未だ夏なのか秋なのか俄に判断しきれない気候が襲ってきていて、外出に際しては何を着てでればその日の温度に適切かの判断に迷わせられている。

エレベーターの中でご婦人たちがその選択に迷ったと言っているのを聞くのも当たり前のようになった。最早「衣替え」ではなく「衣合わせ」の時代になったのかと思わせられる今日この頃である。


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