新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

79年前のことを回顧してみれば

2024-08-17 06:45:01 | コラム
あの頃はこういう状態だったのです:

昭和20年4月に入学した湘南中学では、1年生は毎朝国鉄(現JR)の藤沢駅前に集合して、居合わせた上級生の号令の下に二列縦隊を組んで、子供の足では20分以上を行進して学校に行く決まりになっていました。その時は必ずゲートルをキチンと巻いて途中で緩んでしまったら叱られるので、キリキリに巻けるように練習してありました。

学校は小田急線の藤沢本町駅から歩けば近いのですが、それは許されていませんでした。しかし、戦後は解禁されました。私が住んでいた家の近くの鵠沼海岸駅の次の本鵠沼駅から通学すれば行列はないので、時々その道を行きました。だが、30分以上かかるので辛かったので、偶にしか利用しませんでした。但し、警戒警報の発令で授業がなくなった時には、この道で帰りました。

昨日も取り上げたアメリカの艦載機の機銃掃射は、本当に我々子供たちも襲いました。藤沢市内で打たれて弾が膝に当たって不自由になった者が同期にいました。私は警戒警報で歩いて帰ってくる途中の家の直ぐ近所で、仲間と共に狙われて道から外れた松林に駆け込んで、何とか生命の危機から逃れました。だが、記憶では急降下してきた艦載機の操縦士の顔が見えた程、低空まで降りてきていた気がしています。言いたいことは「彼らは当時の言葉で「無差別爆撃」ならぬ「無差別機銃掃射」をしていた」という点です。

また、ある晩のこと、誰が言ったのか、「B29に高射砲の弾が当たって相模湾の方向にフラつきながら逃げている」と近所に広まったので、大勢で海岸に走りました。確かに、真っ赤な火の玉が海に落ちていくのが見えました。皆で「やった。やった」と歓声を上げたのも覚えています。

平塚が大空襲に遭った時は、何処が襲われているのかも知らずに、校庭の防空壕から立ち上がって見ていました。本当に焼夷弾が雨あられと落ちるのが見えました。非常に綺麗な絵のようで、白く太い雨が降っているように見えたのです。それが焼夷弾だとは知りませんでした。物凄い光景だったのです。この空襲で我がクラス会のボスI君は両親を失いました。だが、何と彼はその焼夷弾が降り注ぐのを見ていたのです。今にして思えば「何とも残虐で悲しいこと」でした。

先ほども某局で「戦争の悲劇を語り継げる人が少なくなって、戦争が何だったかを語り継げなくなる」などと言っていました。あの頃を経験した者としては、語り継ぎたいと考えたことなどありません。「出征兵士を送る歌」などを聞いたこともないような年齢層の人たちが、したり顔で戦争を語るのは疑問に思えます。国全体が「その方向に一致団結して進んでいったこと」が間違っていたのだから反省しよう、語り継ごうなんていうのは戯言ではありませんか。私は好ましくないと思います。あの頃は「天皇陛下のため、お国のために一丸となって突き進んでいた」と、承知していたとは思えないのです。

インバウンド様たちに親切にしてあげようなどと言っている暇があれば、靖国神社参拝を優先して貰いたいのですが。私は本殿まで入って参拝したことがあります。荘厳だったとでも言うしかない経験でした。お国のための戦争で亡くなった方たちは「英霊」でしょう。そこに参拝するのを外国に何のかん」と言われる筋合いはないでしょう。私がこんなことを言うとは意外かも知れませんが、言うべき時には言います。

筆者注:上記は23年の8月16日に発表したものです。その内容は何度でも繰り返して発表しても良いと思って採録した次第です。是非とも、あの頃を経験していない世代の方々に読んで頂きたいと願っているのです。


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