新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

甲子園の野球を語ろう

2024-08-18 08:38:09 | コラム
甲子園野球の廃止論者は語る:

台風一過などと言われているが、16日の夜には万全ではないまでも、百全くらいの準備をして7号台風に備えていた。だが、ここ新宿区の一角には殆ど何事も起こらず拍子抜けだったが。でも、良く考えるまでもないことで無事で結構だった。

大社高校対早稲田実業の試合:
そこでという訳でもないが、同じ東京代表である早稲田実業対大社高校の試合を興味深くまた面白く、手に汗は握らなかったが11回に決着が付くまで見届けた。解説者も、アナウンサーも、マスコミの論評も「非常に良い試合だった」と褒めていたし、負けた早実の和泉監督も「こんな良い試合を経験させて貰えて」と回顧されたそうだ。私は「良い試合だったこと」に異論はないが、感想としては「色々と物思わせられた試合だった」となるのだ。

どの辺りを指してそう言うのかだが、延長戦になりタイブレイクで決着をつける方式になってからは、早実も大社も「何とかしなければならない」という意気込みに加えて緊張感からか「意余って言葉足らず」ではなく「力出でず」状態になったのか、アドレナリンが過剰に出てしまったのか、両校で平時だったらとか練習だったら出来ていただろうはずのバントを失敗するし、内野の守備で思いがけない失策が出て得点できなかったのである。

この状態を見て思い当たったのが、日本大学高校アメリカンフットボールの故清水之男監督が平常時ならあり得ない失敗を見て「何と言っても子供たちがやることですから」と親御さんたちに語りかけておられたこと。要するに「極限に近い状態の場面に遭遇して、未だ熟練していない15~18歳の高校生が犯した失敗だから、我慢してみていて下さい」と説明しておられたのだ。

あの度重なるバントの失敗、不正確な送球、走塁の失敗は、過度の緊張と責任感に圧迫されて「やる気は十分にあっても、上手く行かなかった」結果に終わったのだろうと見ている。即ち、あらゆる場面を想定した練習では出来ていたことが、いざ現実になってみれば「意余って力出でず」となったのだと見ていた。あの局面での失敗を責めるべきではなく「良く試みた。君たちは偉い。次の機会では成功するだろう経験だった」と褒めてあげたい。

あの満塁の場面で出て来た大社の、139球だったかを投げきった馬庭投手は「自分で決める以外ない」と言い切って出てきたそうだ。そして、ヒットを打って決めた精神力は「君は本当に偉い」の一言だけで十分だ。だが、当方が気にしたことは甲子園に来て3試合を一人で投げきったことである。

簡単に言えば「投手生命を鉋で削っているどころではなく、大鉈で叩いてそぎ落としている行為にも似ている点」なのである。「高校までしか野球をやらず甲子園での栄光だけを目指している」のであれば、それでも良いだろう。そうは思っても過労が心配になった。今日一日休みがあるので、何とか回復して強打を誇る鹿児島の神村学園にも勝ってくれれば素晴らしい。

甲子園の野球に思う:
2002年11月に湘南の同級生・脇村春夫君が日本高野連の会長に就任したことを祝って、芦屋に住んでいた彼を藤沢に招待して臨時クラス会を開催して祝福した。その際に高校の全国競技大会廃止論者は、脇村君にその旨を記した長文の意見書を提示した。脇村君はその場で読み切って「止めちゃえって言うの」と驚きの表情だった。真に生真面目で勉強家(東洋紡を引退後に大阪大学で経済学博士を取得)の「ワキ」なら解ってくれると信じて。

イヤだなと思う事柄:
*「野球部員は坊主刈りにせよ」と高野連が通達を出しているとは聞いていない。私は「古物化して時代にそぐわない習慣は止めても良いのではないか」と言い続けてきた。何年前だったか、ジムで出会った坊主頭のアメリカ人に「そのスタイルをskin headと言うのか」と尋ねると「skin headはナチスを想起させる言い方だからcrew cutと呼んで欲しい」と答えた。高野連にも同じことを言いたい。

最近では長髪の高校が増えたが、アナウンサーも解説者も不勉強で「昭和24年(1949年)最初で最後に夏の甲子園に出て優勝した湘南高校野球部では殆ど全員が長髪で物議を醸したことに触れようとしない。恐らく、野球部の連中はそのような不文律にも似たことがあったとは知らなかったのではなかろうか。

*不運にも負けてしまった学校の部員が涙しながら鳴尾浜から運んできた甲子園の砂を持ち帰る習慣は余りにも感情的すぎる感があり、支持しようと考えたことはない。我々サッカー部は決勝戦で負けた平和台競技場の芝生を持ち帰ろうなどという考えは浮かんでこなかった。早稲田大学系属校の早実はそのまま帰って行くかと思えば、数名が用意してきた袋を持ちだして救ってかえった。その心情は十分に理解するが個人としては・・・だ。

*ベンチに入れる人数も疑問に思う。朝日新聞が負担する経費の問題が影響するのかも知れないが、野球という競技も高度に細分化されてしまった現代に、選手が20人で指導者は監督のみという決め事は非合理的だ。監督は全知全能ではあり得ないのだから、自費でせめてヘッドコーチか投手または守備のコーチくらい認めても良いのでは。フットボールではどれほど細分化されたコーチがベンチにいるか知らぬはずはないと思う。

*指導者だが、それにしても、高校生の体格が非常に向上し、父親が外国人という身体能力がずば抜けた高校生が増えてきた。「その時代にあって60歳前後と言う高い年齢の方が指導される時かな」と思えてならない。ダルビッシュ有はWBCの際に帰国して、球団のOBのコーチが非常に多いことを指して「不勉強では?」との厳しい意見を述べていた。

立命館大学のフットボール部では橋詰コーチをアメリカに派遣し、最新のアメリカの指導法を習得させた知恵というか見識に学ぶべき時期ではないのだろうか。NPBからMLBに行って実績を残した優秀な連中は何故か帰国して指導者になっていないのは何故だろうか。寶は「持ち腐れ」にせずに有効活用したらどうだろう。


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