新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月15日 その2 昭和20年(1945年)8月15日(水)の記憶

2024-08-15 12:22:56 | コラム
毎年同じような事を書き続けよう:

あの日から79年経っていた。先ほど猛暑の中を外に出て、あの日とは違う東京都新宿区の空を見上げてみた。快晴だったが、あの日の藤沢市鵠沼の綺麗な青空と違っていて大きな雲が二つ三つ浮かんでいたし、勿論艦載機の機銃掃射のバリバリという音など聞こえてこなかった。

あの日も「もう戦争は終わったのだ。日本は無条件降伏だったと聞かされたのに、アメリカ軍は未だ撃ってくるのかな」と、気が抜けてしまった後の事で、ボンヤリと聞いていた。当時は「虚脱感」だの「虚無感」などいう難しい熟語は思い浮かんではこなかったが、「負けた」という何とも言いようもない虚しさを、中学1年生の子供でも感じていた。

あの玉音放送があるということは、事前に知らされていたし「日本は負けるのだ」という情報は子供にも聞こえてきていた。あの日は警戒警報も空襲警報の発令もなかった水曜日だったが、学校は休みだった。記憶では「自宅で玉音放送を聞け」という指示があったようだった。

あの頃は本気で「本土決戦」を戦うのだという空気が満ち満ちていたし、中学1年生でも軍事教練は受けていたし、勤労動員にも農村動員にも出かけていて「お国の為に尽くそう」と懸命だった。でも、海岸で防風林の松の木の根を掘り出して「松根油」の原材料にして敵機を撃墜する戦闘機の燃料にすると聞かされたていた。だが、子供心でも「これで本当に戦争に勝てるのかな」と少しだけ疑問に思ったが、そんな事をいえば「非国民」とそしられただろう。

竹槍で戦う訓練も見ていた記憶があるし「出征兵士を送る歌」等の軍歌の歌詞などは今でも時々浮かんでくるほど、あの頃は誰しもが本気でお国の為に戦う気でいた。2月だったかの湘南中学入試の口頭試問では、当時は眼鏡をかけていた時があったので、将来の希望を聞かれて「海軍経理学校に進んでお国の為に尽くします」と答えたのは忘れていない。今だから言えるが、大本営発表には「本当なのかな」と少し半信半疑だった

岸田総理は「火の玉になって」と比喩的な事を言われたが、あの当時にそのように言えば「比喩」などではあり得なかっただろう。真剣に挙国一致で「鬼畜米英をやっつけるべし」と信じて懸命だったのだから。

何処かで「あの戦争が終わって直ぐに軍国主義から脱却して民主主義国に変わっていった素早さ」を皮肉っていた外国人がいたが、我々中学1年生ですら、その変わり身の速さには何と言って良いか解らなかった。だが、直ぐに皆で時流に乗って坊主頭から長髪に移行していった。小石川区の自宅を空襲で失い、焼け野原になった東京を見ては「我が国は立ち直れるのかな」と不安だったが、兎に角勉強と蹴球部の練習に明け暮れていた昭和20年だった。

あの頃の事を書き始めれば限りがないが、これだけでも書き続けてあの頃の経験と記憶を風化させてはならないと思っている。それがどれほど後世の役に立つか知らないが、後3ヶ月で92歳になるので、あの頃の中学1年生の仲間が段々と残り少なくなってきたので「俺がやる」と思っているのである。79年を経た今であるから、こうする事が私の務めだと思っている。


コメントを投稿