新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月12日 その2 パリ2024に思う

2024-08-12 08:27:38 | コラム
色々と考えさせてくれた大会だった:

メダル獲得数:
閉会式に選手団が入場してくる様子を見て感じたことはと言えば「アメリカの選手団の構成を見れば、メダルを下げたアフリカ系が非常に多かった」だった。この現象はある程度当然のことで、アメリカの3大(4大という言い方もあるが)スポーツのプロであるNFL、NBA、MLBを見れば、圧倒的に南アメリカ出身者を含めてアフリカ系の優れた選手が多いのだから。

アフリカ系がアメリカの人口に占める比率は15%程度であるが、その連中がスポーツや歌舞音曲(古いか?)の分野に数多く進出しているのである。勿論、政治や経済の世界にも多く見受けられるが、彼等が主力ではないのだ。そのアフリカ系の者たちが、もともと優れた身体能力を備えている上に、アメリカの近代的且つ合理的なトレーニングで鍛え上げられてくるのだから、好成績を残すのも当たり前と言えるのではないか。

中国の選手団を見れば先ずアジア系というか東洋系で構成されていたと思う。それでも、14億人の人口を擁していれば、各種目に適した素材を集めて、国家が力を入れた組織的にアメリカにも劣らないトレーニング方式で選手たちを育て上げていけば、メダル獲得数で2位に成れるのかと思ってみていた。彼等は卓球等には圧倒的な力を見せるが、団体の種目がもう一息の感があったので、ここを修正してきたらアメリカも安閑としていられまい。

何故「初めてのオリンピック」と言うのだろう:
各テレビ局のアナウンサーも所謂リポーターたちも、必ずというほど、メダルを取ったとか活躍したかの選手に触れる際に「初めてのオリンピックで」という枕詞から始める。如何なる凄い選手でもいきなり2回目の出場なんてあり得ないと思って聞いている。私には気に食わない奇妙な風習としか思えない。

どうやら彼等が強調したいことは「初出場で3位圏内に入ったことを讃えたい」のだろうが、2回目でなければメダルを取ってはいけないと言っているのかと聞こえたのは誤解だったかな。もしかして、彼等の中継放映用のハンドブックには「初めてを強調せよ」とでも指定されているのだろうか。私は言わないで貰いたいと思っている。

日本選手は個人種目では大活躍:
決勝トーナメントでの活躍を期待していた男女のサッカー、バスケットボール、ヴォリーボール(これが原語通りの表記)が全部敗退だったのは本当に残念だった。サッカーなどは、おかしいと思わせられた判定があっても、それを乗り切って勝ち上がる力が求められているのかとすら考えさせられたほど、一歩も二歩も世界水準に及ばなかった。特に、女子のバスケットボールなどは、相手に研究し尽くされたかの感が濃厚で、3ポイントシュートを封じ込められていた。

サッカーなどはヨーロッパに出ている者が増えてはいるが、それでも未だ海外の上位国には及ばなかったのは、体格と身体能力だけではなくて、子供の頃からの基礎の訓練が不足かも知れないし、その種目しか経験してこなかった言わば単能機である点等は検討/研究する必要があるのかも知れない。

やり投げの北口榛花さんは大学に進む前にバドミントンと水泳で地方では名を為していたことなどは、今後練習法や選手の育成法として検討すべき材料だと思わせられる。

個人競技を経験してこなかった私には、レスリング、フェンシング、卓球などの活躍は素晴らしいとしか見えない。各選手たちがどのようにしてあの水準までに鍛え上げられていたかを、団体競技でも参考になりはしないかという気もするのは見当違いか。

また、アメリカの3大スポーツのプロになる選手たちは「その三つの中からどれを選んでプロになるか」を鋭意検討できるほど、複合機として鍛え上げられているではないか。そろそろ体育会制度で単一の種目に限定して育てていく手法の再検討の時が来たのではと思っている。

こんなことを言っていては雑感ではないかも知れないが、色々と種々雑多に物思わせてくれたオリンピックだった。

感謝:
選手の皆さんたちの健闘を「貴方たちは偉かった。立派だった。凄かった。感動させて貰えて有り難う」と讃えて終わる。

自由民主党の来たるべき総裁選に

2024-08-12 07:18:50 | コラム
「もどかしさ」を感じている:

改めてお断りしておくが、私が政治の話題を取り上げる時には「その根拠というか論拠は全てマスコミの報道に基づいていること」にあるという点だ。

自由民主党は岸田総理総裁の蛮勇にも似た決断で、収支報告書不記載問題を受けて派閥を解散しようとした。それ、そのことが良いか否かよりも、解散されたはずの派閥の「しがらみ」が未だに残っているかのようなのでもどかしい。

麻生氏が認めたとかどうかとか、誰それは何とか派閥だった方だとか、小泉元総理が進次郎にどのように示唆したとか、茂木幹事長は「明智光秀」とは非難されたくないとかという具合で、「ここは一番俺に任せろ」と、暴虎馮河の勇を以て立ち上がってくる者がいない状態にしか見えない。

党内に事情やしがらみ等々がある事などは、100年も前から解っていたことではないのか。現在我が国の内部の芳しいとは言えない状況に加えて、岸田総理が如何に得意の外交の面で努力されようとも、世界の情勢は好ましくない方向に進んでいる。その時期に立ち上がって「我こそは次期総理の座を占めて我が国を引っ張っていって見せるぞ」と立ち上がってこそ、国民の負託を受けた者が果たすべき課題ではないのか。

麻生副総裁、菅前総理、二階元幹事長、その他諸々の旧派閥の隠然たる力を維持しているやに聞く経験豊かな前時代の政治家たちの年齢を考えて見よ。急速且つ高度に進歩発展したITC化やディジタル化に加えて、AIが時代を牽引するかの状態に入った時に、彼等のような経験は豊かな旧世代に気兼ねしている(支配される?)時は終わったのではないかと、私は考えている。

視点を少し変えると、今や我が国のあらゆる種目のスポーツでは、既に世界の水準を抜く選手が数多く出てきている。私は「その時代にあって、古き良き時代に選手だった人たちが、どのようにして身体能力も違えば旧世代とは異なるトレーニングの方法で技術が高度に世界を凌駕する次元にまで伸びた新時代の選手たちを本当の意味で指導できるのか」と訝っている。

言いたい事は「こういう見方は政治の世界にも当てはまるのではないかという点」なのである。自由民主党の古き良き時代を経てきた高齢化したボスたちは、現在の街に出てファストフードチェーンの店舗に入って、タブレットで発注し、セルフレジでの支払いを戸惑うことなく使いこなせるのだろうか。これらは新時代を象徴する単なる一例であるが、現代はこのように否応なしに変化し、進歩したかのような状態にあるのだ。

そういう時期にあって、9月という言わば目前に迫った総裁選に立つの、立たないのと、マスコミに格好の話題を提供している自由民主党の人たちに言いようもない「もどかしさ」と「まだるっこさ」を感じて、不甲斐ないなと密かに嘆いているのだ。年齢は別にして当選4回だと若手とする感覚も理解できない。総務会長まで経験した福田達夫氏などは57歳でも若手とは。一寸前なら定年間際ではないか。自由民主党の若手以下の奮起に期待したくなる。