新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

野球部出身者からは大手企業の経営者が出ていない

2022-12-11 08:17:45 | コラム
それは偏見ではないのかな:

ここ数日の間に何処かで誰かが取り上げておられた「野球部出身者からは経営者乃至は財界人が出ない感があるが、ラグビーやサッカーやアメリカンフットボール経験者からは出ているのに」という至極尤もらしい説があった。いきなり脇道に逸らすが、それを聞いた家内は「野球界にはプロ野球やアメリカの大リーグがあって、会社員とは比べようもない高収入を得られるので、その道を選んだ人が多いだけでは」との見解を述べたのだった。

確かに、私が知る限りでも大学でサッカーやラグビー部で活躍された有名選手が大手企業に就職されて、取締役更には社長や専務という役職に就かれた方は多いという印象がある。では、その方々は誰だったかと言って見ろと言われれば、直ぐには思い浮かんでこない。見方を変えれば、関東や関西の大学リーグで活躍された方が上場企業等に就職され、役員として大活躍されたという報道は少なかった気がする。

そこで、「だが、一寸待てよ」と我が湘南中学/高校の野球部を私の前後で振り返ってみた。ここで忘れてはならないことがある。湘南中学では戦時中は敵性競技である野球部が認められておらず、正式に発足したのは昭和20年(1945年)8月に大東亜戦争が終わってからのことだった。その野球部は創立の4年後の昭和24年(1949年)に、初めて出場した甲子園で優勝するという素晴らしい成績を残していた。

所で、我らが蹴球部(サッカー部)だが、戦前には大毎の全国大会で準決勝まで上がった実績があったと教えられてきたが、戦後では第1回の神戸での国民体育大会の中学校蹴球の部で優勝し、第3回の福岡国体では高校の部では決勝戦で広島師範附属高に敗れて準優勝に終わっていた。

前置きばかりが長くなってしまったが、私の前後のこの二つの運動部からどのような経営者というか財界人が現れていたかを振り返ってみよう。サッカー部では3期上、即ち昭和23年卒の方々から語って見よう。尤も、「この頃は学校制度の進駐軍により改悪があって、中学4年で旧制高校に進んだ方もおられるという複雑な時期だった事」が忘れられない。

50音順にしてみれば、海老原純さんから。旧制水戸高校(現茨城大学)から東大に進まれて、王子製紙の専務取締役の時に肺癌で急逝された。巷では次期社長の本命だとされていた。香川嵩さんは旧制一高から東大に進まれて、東京海上で副社長を務めておられた。松岡巌さんは慶応大学から日立製作所に入社されて副社長に上り詰めておられた。我々の2期下では嶋田武夫君が東大から日本郵船に入社されて副社長を勤めていた。言うまでもないが、全員サッカー部の中心選手だった。

そこで、問題の野球部である。我々26期には私と同級で甲子園優勝の時の三塁手だった脇村春夫君は東大に進み、東洋紡績に就職されて専務に昇進していた。余談かも知れないが、脇村君は東洋紡引退後に大阪大学大学院で経済学博士の学位を取得すると共に、高野連の会長も務めていた。1期下の27期から同じく甲子園優勝メンバーだった原田靖男君は2年遅れで東大に進み、三菱化成で常務となり(確たる資料の持ち合わせはないが、ダイヤホイルヘキスト社の社長に就任したそうだ。)また、三浦知良の岳父として一時マスコミが騒いだ設楽卓也君は、早大から三菱商事で専務取締役に昇進していた。

これだけの限られた事例で「野球出身者から経営者が出ていない説」を否定するのには無理があるかも知れない。だが、一流企業の役員や経営者の方々がマスコミにチヤホヤされるような場に華やかに登場されることは希であろうし、また持て囃されたとしても高校や大学の頃の運動部の経歴までが話題になることもまた極めて少ないのではないか。

動じに微妙なことを言えば、往年は所謂「文武両道」を誇る進学校から優れた運動選手が出てくることもあった。だが、全ての今日意義の技術的な水準が世界的な次元までに向上してくると、文武両道がおいそれとは成り立ちにくくなってきたのではないのだろうか。私はこの辺りの「世の中の変化」までに配慮した上で論ずべき事柄だと思うのだ。