まりっぺの平凡日記

毎日平凡に生きれるって幸せなんだ。でもその平凡っていうのは意外と難しい。

現実

2013-01-11 09:23:21 | Weblog

先月の14日、今まで祖母の往診をして下さっていた先生が「もう厳しい状態だ」という判断を下し、祖母を救急車で日赤にかつぎ込む。100歳という年齢にも関わらず、日赤は祖母を受け入れてくれ(45、000円の個室だったけど)、そこで後光の刺すようなO医師とN先生にめぐり合う。そして肺炎との診断。

往診の先生は言葉には出さなかったものの、彼の一つ一つ言葉を選びながら慎重に話す言葉尻や、彼の険しい表情、そして日赤にかつぎ込んで間もなく撮られた祖母のレントゲンで肺炎との診断を受け、母と私も「とうとう来るべき時が来た」と思っていた。二人共口にこそ出さなかったし、今まで「もう年が年だからいつどうなるかわからない」とは頭で分かっていても、あの時の救急処置室の前で祖母を待つ時の嫌な気持ちといったら、言い尽くせない。

高齢者だから肺炎なんてアウトだし、病院側も死にゆく高齢者という、現在の社会に横行している態度で祖母を最後へと導くのだろうと思っていたところへO先生が「死を前提にするのではなく、治癒を前提にする治療に努力する。命には年齢差はない。同じ命だから元気でおウチに帰って欲しい」という態度で対応してくれて、物凄く救われた。

そしてその期待に応えてくれるかのように祖母は入院後数日で肺炎を克服しつつあった。そしてご飯まで食べられるようになった。これで年始は家で迎えられる!と誰もが確信したら、ご飯を始めたことで誤嚥性肺炎になり、また絶食安全策を取り、お正月は病院で絶食をしながら、様子を見るということになりました。そうしたらみるみる内に肺炎は良くなったも、いざ絶食が再び解かれたら、嚥下能力が見事に低下。食事が解禁になっても祖母自身が飲み込んでくれないことには、O先生も頭を抱え始めた。

そんな中、母が年末に胃腸炎を患った為、元旦以外は完治するまで外出禁止となった。その間、私はとにかく祖母に食べて欲しい一心で朝昼晩の食事時には病室に通い、祖母の耳元で「飲み込んで!ゴックンして!元気でおウチに帰りたいでしょ?皆、待っているからお願いだから…」と声をかけ続けていたのですが、土曜日から風邪を引いたくさい、私。その頃、母の調子が戻ってきたので、日曜日の祖母の病室に行くのは母に任せ、私は一日、休養zzz

なのに、月曜から発熱し、見事にインフルエンザであることが判明。判明したからにはウィルスが消滅するまではおとなしく家で過ごそうと腹をくくったのですが、祖母のことが気になってしょうがない…そんな私を慰めるかのようにヘルパーのHさんが「お昼はお母さん、夜は私が行くから心配しないで」と言って、二人が足繁く祖母の所に行ってくれていた。

Hさんは祖母の夕飯も見守り、時間があるとジャンケンをしたり、メモに書かれた暗算を祖母に見せては時間を過ごしてくれていた模様。

ある日「1+1=」と書かれた紙を祖母に見せると

「イチプラスイチイコールニッ」と声に出す祖母。

「イチ足すイチはニ」ではなく、プラスとイコールと口にするのが祖母らしい

これだけ頭もしっかりしている祖母、嚥下が戻らないことにはその先に進めない。でも日赤は急性期だという焦りが私の中であったのですが、とりあえずインフルエンザを治すことに専念しようと敢えて考えないようにしていたのです。

が…しかし…昨日、お昼に祖母のところへ行った母がO先生に呼び出され、

「千恵子(祖母)さんの様態は安定しており、千恵子さんなら奇跡を起こしてくれるかもしれないけど…このままの状態だと今後在宅で千恵子さんをみるのは厳しい。急性期だからこの状態のままずぅっとこちらには預かれないので転院を考えて頂きたい。ご家族が納得の行く結論が出るまでは、どうにかこちらで預かるようにしますから。」と言うような内容のことを言われる

O先生のことだから母の病状や、祖母の介護の現状を看ての判断であっただろう。来週で祖母の入院が1ヶ月になる。急性期なのにこんなに置いてもらって良いのだろうかと思っていた矢先のことだった。

先生も母や私、そしてヘルパーのHさんまでもが毎日毎日祖母の病室へ通い、祖母を見守る中、次々に私たち親子がダウンし、祖母は祖母で頭がしっかりしていて会話が成り立つからどうにか在宅できるようにと、頑張ってくれていたのが彼らの態度で痛いほどわかる。きっと病院の方針と私たちの狭間にはさまれ、「もう出て行ってくれ」とは言えずに、この数日悩みながら矢面に立ってくれたのだろうと思う。いつその話を切り出そうとずぅっと思っていたに違いない。でも私たちの祖母に対する応対や、私たちが交互に体調を崩し、一週間づつ病室には現れなくなり、ましてや来週母の治療が再開される。

母と祖母が同じ病院で、母の入院した病棟と祖母の病棟は同じ階の隣同士だから母の主治医とO先生は連絡も取っていて、母の状態を大まかには把握しているかもしれない。先生同士が連絡をとっていなくても、O先生には母の病状を私が説明してあるため、それら全てのことを考慮した挙句苦渋の決断だったと思う。しかも私たち家族の気持ちを十分に汲み取っての彼の態度には頭が下がる

正直、心の片隅では今後の祖母の生活は今まで以上に体力的・経済的に大変になることはわかっていても、まさか転院とは思いもしなかった。もう死んでしまうか、家に元気で戻ってきてくれるという選択しか考えていなかった

いや考えないようにしていたのかもしれない。

勿論、周りの方々のサポートがあっての介護だったけど、母と6年間二人三脚(母が大半背負っていたけど…)で、祖母と蜜に過ごしてきた6年…今更、転院?しかも頭はしっかりしているし、飲み込めないだけで、ご飯の味はわかっており「美味しい」とか「まずい」と言って、口をもごもごさせる祖母を転院させなければいけないのかと思うと悔しいやら、淋しいやら…在宅は厳しいと言われ、O先生の下から追い出されるとなる祖母の将来は先行きが暗すぎる…

意地でも家に連れて帰りたいと考えるがそこに「でもママが…」という考えが頭をよぎる

そうだ無理やり一時退院させ、家に連れて帰り、すぐにまた救急車を呼んで日赤へ運ぼうか?

いや、退院の日に「O先生、本当に祖母の命を救ってくれて有難うございました!ほんの気持ちです!」と言って、車椅子に座った祖母のおデコに「粗品」という熨斗を貼って、百年物の骨董品を差し出そうか!?

こんなことをグダグダ考えている内にまた天気の良い一日が始まった。

どーしよう…と思っては、今週はとにかくインフルエンザ撲滅のため、祖母のことは後回しにしよう。

来週の母の治療後の様態を見ながら、祖母の今後は考えよう。今日も読書で気を紛らわそう

しかし、今まで何度も奇跡を起こし、復活する百歳の祖母は私たち家族のみならず、介護に携わる方々、そして今回の日赤の方々にとっても、大変大きく、難しい課題だなぁ~でもそれを諦めずに真剣に取り組んでくださる周囲の方々に本当に深謝です。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿