まりっぺの平凡日記

毎日平凡に生きれるって幸せなんだ。でもその平凡っていうのは意外と難しい。

母は強かった

2018-04-11 22:29:20 | Weblog

母は最後までとても強い人でした。

元気だった頃から強く、よくぶつかることもあり、時折、もういい加減にしてよと思うこともあったけど、やはりそんな母がいなくなると寂しい…

11年前から始まった祖母の介護、後半からは母の病気…その時はどんなに喧嘩してもやはり家族だから、祖母と母に尽くしたいと思ったものの、やっぱり心が折れることもありました。

そして両者が他界して、介護から解放され、自由になった今、思うこと

「自由は不自由で、難しい」

今となってはやらなければならないことはあるけれども、mustではない。

やらなきゃいけないことがあるのはわかっているが、今までは祖母や母のためだからできたことが、自分がすべきことは見て見ぬふり…

とりあえずは生活のサイクルだけはどうにか保っているし、心配してくれる友人知人に心配かけまいと必死で平常心を保っているけれど…

今日、wowowで流れたX JapanのEndless Rainを聴いて母の死で泣くことが今までなかったのに、涙が止めどなく出た

I'm walking in the rain
行くあてもなく
傷ついた体濡らし
絡みつく凍りのざわめき
殺し続けて彷徨ういつまでも
Until I can forget your love

眠りは麻薬、途方に暮れた
心を静かに溶かす
舞い上がる愛を躍らせて
震える体を記憶の薔薇に包む
I keep my love for you to myself

Endless rain, fall on my heart心の傷に
Let me forget all of my hate, all of the sadness

The dream is over,声にならない
言葉を繰り返しても
高すぎる灰色の壁は
過ぎ去った日の思い出を夢に写す
Until I can forget your love

Endless rain, fall on my heart心の傷に
Let me forget all of my hate, all of the sadness

Endless rain, let me stay evermore in your heart
Let my heart take in your tears, take in your memories

Endless rain, fall on my heart心の傷に
Let me forget all of my hate, all of the sadness


四十九日

2018-03-22 00:46:44 | Weblog

先月2日、私が仕事から帰宅しても普通に会話もし、スープも飲み、笑顔を見せていたのに、寝支度をしている間に様態が急変し、あっという間に母が旅立ってしまってから、バタバタでやることがいっぱい過ぎて、自分の気持ちの整理なんてやるどころではありませんでした。

2日、金曜日の未明に母が亡くなってから先生が死亡診断書を書きに来て(様子がおかしいと連絡しても先生はこなかったの…)、その後は葬儀屋さんが明け方の4時に来て、打ち合わせ…金曜と土曜は弔問にかなりの方がいらして下さり、日曜に火葬。お釜に入る時はきっとつらいだろうなと思っていましたが、母が亡くなった時も、お釜に入る時も、骨揚げの時も全く涙がでてこなかった。

それは最後まで自宅で貴重な時間を母と過ごせ、ある程度、母の望む自宅で死にたいということが実現できたし、亡くなる数時間前に見せてくれた笑顔に救われ、多少はこうすれば良かったかなという後悔もあるけど、私なりにある程度頑張ったつもりだから、そんなに悔いはないです。

でもやはり、密葬し、母の遺骨を抱いて帰宅し、一人の時間ができたり、買い物に行くと今日の夕飯はどうしよう?とふと思い、あっ、ママはもういないんだと感じたり、そろそろヘルパーさんのくる時間だわなんて思ってしまうことでどうしようもなく寂しく感じることは未だにあります。

でも、母が亡くなってから直ぐに、いろいろな手続きやら、私と母の確定申告などをしなければいけないのに、頭の中が真っ白で、体全身にじんましんは出るわで…そこに来て正宗とメルセデスが大好きなママの死で完璧精神がやられてしまいました。正宗は母が亡くなった瞬間から4~5日震えっぱなしで、母の寝ていた部屋には入れない状態…未だに二人は撃沈状態

そんな日を過ごしていたら、気が付けば本日、あっという間に49日です。

早いなぁ~

まだ当分忙し過ぎて落ち込んでいる時間ないなぁ~

お陰様で友人や仲間達にも相変わらずしんぱいしてもらっていますでので、これからはゆっくりと自分の人生をしっかり歩めるよう一歩づつ前進していこうと思います。


旅立ちました…

2018-02-02 06:07:06 | Weblog

母、今日、未明(午前2時40分)、私の手を握りながら安らかに眠りにつきました。

前夜20時くらいまでは会話もでき、笑顔も見せてくれたのですが、22時くらいから様態が急変し、私が疲れてはいけないと思ったのか、数時間で逝ってしまいました…


お誕生日

2018-01-28 16:43:36 | Weblog

母、どうにか78回目の誕生日を迎えられました。

あまりにも衰弱していたので、もつかなと思っていましたが、周りの方々のパワーを頂いて、今日は笑顔まで見せてくれました。

ママ、頑張ってくれて有難う。

今まで、親不幸でごめんね。

今更遅いけど…

これからは全力でママに付いているからね。

年が明けてから衰弱する母を見ていて、もっと早く病院を変えた方が良かったのではないか?

往診の先生の選択を間違えて、母を結局、楽な状態にさせてあげあれず、最後の最後まで悪いことをしてしまった…

と悔やんでばかりの私でした。頭で、たらればは良くないからこれからのことを考え、一瞬一瞬を大切にしなければとわかっているのですが、やっぱりいろいろ悔やまれてしょうがない。

往診の先生に、母が苦しんでいるから来て下さいと言ったら「薬飲ませて様子見て」と今週末はプライベート旅行に行ってしまった。

私の鍼灸の先生に、母の状況を話したら、「土曜日に行きますから、安心して」と言ってくれたので、待ちわびていたら、寸前になって「やっぱり、今の状況ではなすすべがないから、行かない」と言う。

別に治してとは言っていないし、楽になる何か方法はないかと思い相談したら、最初は「絶対、私がいるから大丈夫」と言っていたのに、直前でその態度かよ!?

往診の先生も、鍼灸の先生も任せて!と言ってくれて心強いと彼らを信じた私が間違っていた。

医者なんてもう信じない!と人間不信になっていたら、祖母の頃からお願いしていた訪問看護師さんが「まりっぺ、少し寝なさい。今夜は私が泊まるから」とすっ飛んできてくれた。 

そして、ヘルパーさんたちも最近は二人体制で来てくれている。

今朝なんてママの誕生日だから、お休みのヘルパーさんが訪看さんと私の朝ごはんまで差し入れてくれて、かたくなになった私の心が少し和んだ。

友人たちも私のことを気遣い、食料を届けてくれる。

本当に有難う

一段落ついたら、皆に絶対恩返しするからね。

とりあえず、今はママと一緒に過ごす時間を重視させて頂き、不義理は許してね。


しっかりしろ、私!!!

2018-01-21 20:00:00 | Weblog

昨年9月に母が入院してから、新たな転移が見つかり、治療を10日程している間に、介護申請もしながら、私はとんぼ返りで福岡に父の墓終いをし、遺骨を東京に持ってきた。その二日後に母は退院予定だったが、羽田から母の病室に直行したら、一日でも早く病院から出たいと言いだした。

しかし、翌日の10月12日の午前中には母の介護ベッドや車いすなどの搬入があるし、仕事の締め切りもあるからあと一日待って、と言っても、母「ベッドの搬入は午前中でしょ?私が帰っても家で仕事できるでしょ?」とどうしても一日待てないと言う。

私は福岡でもいろいろとごたごたした上、父や祖父母の遺骨も持ち帰ったので勘弁してよ。とは思ったものの、病院に入ってから母は歩けなくなるし、一人ポツンと24時間病室に横たわっているのは確かに地獄だろうと思い、急遽、翌日に退院の手続きを取った。

10月12日母、無事約1か月振りに退院。帰宅後、母の顔つきも、病院にいる時とは見違えるほどになったし、何よりもチビたちが、待ってました!とばかりに大はしゃぎ。歓迎された母も「地獄から天国に来れた」と喜んでくれた。

そして翌日の13日からは一日4回のヘルパーさんの来訪、週2の訪問看護師さんに先生の往診、日赤への通院、仕事に、母の食事から掃除洗濯まで全部やらなくてはならず、夜は毎晩母の介護ベッドの横に簡易ベッドを置いての睡眠…

この頃の私はいつ自分のブレーカーがぶちっと落ちるか?と思うくらいきつかった…とりあえず、一つづつこなして行くしかなかった。

母の介護度はその時4だったけれど、私との同居の為、共同部分の掃除はできません。洗濯もまりっぺのはできません。と言われ、結局、ヘルパーさんに頼めたのは、母のトイレの介助、着替えと、シャワー浴等と極限られていた。

祖母の介護経験があるから退院して来た頃には全く歩けなくなっていた母のトイレや着替えくらい私にできると思っていたものの、私が倒れては元も子もないと母やケアマネ、そして看護師さんの薦めもあり、日に4回のヘルパーさんの出入りのスケジュールを組んだものの、その制限ある作業や、5名ものヘルパーさんの出入りには気も使い正直、疲れた。

それに母の入院費は祖母の時のように、新車のベンツが買える程ではなかったが、やはり新車が買えるような金額だった。そこに一日数回のヘルパーさんが毎日来るということは、いくら要介護4の母でも、完璧、上限を超えており、訪問看護師さん、往診の先生、日赤の通院治療、介護用品のレンタルで、毎月ものすごい額の出費がかさむ…

そんな気が狂いそうな日が続く中、母は自分がしっかりと回復しなければならないと思ったと同時に、家に帰ってきたことで、少しづつ自分で車いすを操作し、自分でなんとかベッドにもどれるようにもなってきた。そんな母を見た先生と薬剤師さんが、この調子なら新年会を外出して、やりましょう、という話まで出て、友人たちが差し入れてくれた年越しそばや、おせちを元旦には美味しい、美味しいと食べてくれた

なのにお正月が明けてから、母の体調が再び急降下
日赤での治療もとうとう中止となり、酸素機の導入に、病状悪化の為に介護度の変更申請…

そして昨日の19時頃、私が夕飯の用意をしていたら、ベッドから母がゲーゲーやっているのが聞こえたので、飛んで言ったら、息も絶え絶えに「苦しい…苦しい…」と訴えた。

実は先日もこのようなことがあり、往診の先生に「どうしよう?」と電話をしたら、「薬を飲ませておいて」の一言で終わってしまったので、今回は頼りになるヘルパーさんに連絡をし、15分で駆けつけてもらい、処置をしてもらったら、少し落ち着いたが、それでもぐったりしていたので、訪問看護師さんに来て頂き、更に処置をして頂いた。そうしたら、大分落ち着き、22時半頃にすやすやと寝始めたので、一安心と思って、私は母の様子を見ながら、用足しをし午前2時に母の介護ベッドの下で、仮眠をとることにした。

午前3時、再び、「苦しいから助けて」という言葉で、飛び起きる。

頓服を飲ませ、水分補給をさせ、背中やおなかをさすっていたら、消え入りそうな声で、「ごめんね、ごめんね」と言う母。

私は母の横に潜り込みおなかをさすりながら、「そんな誤らないで、当たり前のことをしているだけだから」と答えた。

母「あなたのことがとにかく心配。私が死んでも、皆が通る道だから、どうにか乗り切りなさい。」

私「ママ、まだ親孝行できてないから、お願いだからもう少し頑張って…ママの期待に添えない娘でごめんね」

母「私が死んでも、あなたがいい人生を送ってくれるのが一番の親孝行よ。

  あなたのことが心配でしょうがないけど、一つ安心したのは、あなたの周りには沢山人が集まってくれ

  て、友達が多いことよ。

  これからは友達を大事にして、お願いだから、楽しい、いい人生を送ってね。

  こんな夜中まで本当に心配かけてごめんね」と言って、寝入った。

母の隣で涙があふれ出た。

今まで、ママの病気を治すために、頑張っていたけれど、この時、初めて母が死んでしまうということ、看とるということに気づいて泣けた。

でも泣いている場合ではなくなり、再び6時前から、母が苦しみ始めた。

薬を飲ませ、水分補給をし、マッサージをしてもその苦しさは収まらないので、日曜だけど朝7時から、往診の先生に電話で助けを求め、9時過ぎに来て頂いた。

先生の診察としては、昨夜からの苦しさでちゃんと寝られていないだろうから、今日はとにかく昼間もしっかり、寝て、睡眠を取り戻すこと。そうすることで苦しさも軽減されるはずだから、と言って、母に投薬して下さった。それで母は大分、楽になったようで、直ぐに寝付いた。

先生は帰り際に「長期戦になるからまりっぺもお母さんが寝ている間に睡眠を取るんだよ」と言って帰っていった。

しかしですね、先生、私にはやることてんこ盛りで、寝るどこの時間はないのよ

結局、昨夜は1時間程の仮眠だけで、昼間も寝ずに、用を足していた。

その用事が一段落した夕方、すやすや眠る母の顔を見ていたら、明け方の会話を思い出し、涙が止めどもなく出てきた。

疲れていたり、泣いている場合ではないのに、この数カ月分の涙と、これからのことを考えると泣けてしょうがなかった。

そこへ、昨夜来て下さった、看護師さんから電話が入り、「今、ドクターと話をしたのですが、長期戦になるからまりっぺが倒れないように、たまに私が泊まりこもうと思うの。その時はまりっぺはホテルでも取って、しっかり睡眠を取る形にしませんか。」と提案して下さった。

この看護師さんは祖母のことも看て頂いていた方で、本当に有難かった。そこまで親身になってくれて、電話を切ってから、また泣けた。

でも、もう泣いている時間はない。とにかくしっかりしなきゃ、私!


恐れていたことが…

2017-09-26 21:48:19 | Weblog

母、この数週間、ちょっと言葉が出にくくなっていた。

でも先生は年のせいではと言っていたが、私は入院中に一応、頭の検査もお願いしたら、やっぱり…

脳に転移Σ( ̄ロ ̄lll)

でもまだどうにか治療はできそうだということだが、やっぱりショックで、真央ちゃんのことが頭をよぎる…

でも悪いことを考えてもしょうがないからこんな時だからこそ介護申請も一気にやってしまおうと思い手続きをするも、こんな時に限って仕事が重なる。

こんな時は断ろうかと思いつつも、一日40,000円の個室だからな…

ちょっとくらい働いても焼け石に水だけど、働かないよりかはまし…

はたまた、父の墓じまいを今年の夏に、母が考えていたら、なんと都営霊園が当たった。

縁起でもない!と思う反面、これで父の遺骨と、母に万が一いあったら、東京で一緒に入れられる。

しかし…その書類を揃えるのが大変で…九州の親せきにはお寺さんやら、父の戸籍謄本を取りに行ってもらったが、私は連日介護申請とか、都営霊園用の書類集めに区役所巡り…

そこにきて母が病院食はまずいと泣いているので、一日、2回、一品づつ届け、夜は帰宅後、洗濯やら、仕事…

とりあえず、できる限り頑張るしかないなぁ~

 

 


やっちまった(汗)

2017-09-14 22:43:43 | Weblog

どうにか放射線治療を2週間続けて受け終えた!

放射線治療直前に精密なCTを取ったら、なんと母の背骨にひびが入っていることがわかった。

骨折する前に見つかってよかったとホッとし、放射線治療を受け、8月29日から再び、抗がん剤を受けることになった母…

当日、病院に連れて行ったら37度5分の発熱で、抗がん剤を投与するかどうか微妙なライン

でも、抗がん剤を受けないと病状は悪化することが目に見えているから抗がん剤を投与したら、今まで放射線に毎日通った疲れやらいろいろ重なり、翌日の夕方、38度の発熱。

放射線の先生に「どうしよう?」と電話をしたら、高齢者は肺炎が心配だから救急で来て検査しましょうとの判断。

連れて行って検査したら肺炎は陰性だからかえってゆっくり休んで、また何かあったらすぐに連絡くださいとのことでした。

その後も母は37度台後半の熱が出続けておりました。

そして先週水曜日、お昼にチャーハンを作り、二人で食べたものの、私は仕事があったので、さっさと食事をすませ、外出した。

私が出てから、母はチャーハンを少し残して、横になったそうな…

夕方、母から携帯が鳴る。

打ち合わせと知っていて電話をかけてくるとは何か起きたのかと思い、電話に出たら「正宗が私の残したチャーハン食べちゃった!どうしよう…玉ねぎとニンニクが入ってるよね?」と半べそ状態

「元気なら大丈夫よ。とにかく早く帰るようにするから」となだめて、打ち合わせもそこそこに家に帰ると正宗はケロリとしていた。

でも…母が心配し過ぎて、具合いが悪くなり、おなかを下す。

熱+下痢で体力落ちる

そして今週月曜日の朝、母39度の発熱。

再び病院に連れていき、点滴で補液をしてもらった。

火曜日は私が歯医者さんで虫歯の治療をしたら痛いのなんのって…その日はぐったりΣ( ̄ロ ̄lll)

それでも母の食事を用意し、お薬を飲ませてから、私もロキソニンと睡眠導入剤を飲んで寝たら、不覚にも爆睡。

そんな時に限って母の具合が悪くなった模様で、夜中、「まりちゃぁ~ん!助けてぇ~」と叫ぶも私は熟睡し、チビたちが吠えようが何しようが朝まで寝入ってしまった。

明け方の「痛いのよぉ~助けてぇ~」という叫び声でやっと目を覚まし、病院に連れて行ったら、母、入院。

どうにか事なきを得ましたが、夜中一睡もできなかったのか、母の体力は落ちてしまった(汗)

なんで祖母と母の両方を抱えていた時は仕事もできたのに、母だけの介護になったら、こんなダメな娘なんだろうかと、再び撃沈です。


今日から通院

2017-07-26 22:44:44 | Weblog

今日から母の放射線科への通院が始まりました。

背骨の腫瘍が神経を圧迫し始めているので、八月の第二週まで毎日病院通い。

病院が近くて良かった。

放射線科の先生も良い先生で、良かった。

後は母の生きる力を信じて、先生に任せるしかないなぁ~


どんどん選択肢がなくなって行く…

2017-07-09 23:42:42 | Weblog

はぁ~先週の検査結果で頭が痛い…

前回の抗がん剤は腫瘍マーカーが上がったので再開した訳で…

抗がん剤をやったら肺の影が小さくなった

でもやはり体力低下で抗がん剤を再度休むことにしたら、今度は肝臓の影が大きくなった…

しかも背骨に突然大きな影が現れた

その上、もう神経を圧迫しそうな感じ…

さすがに先生も慌てて急遽月末から放射線を当てることになった

こうやってどんどん八方ふさがりになっていくのか…

母、まだどうにか動ける内にと身の回りの片づけを始めるし…

私も頑張って動かなければと思うがどうしたものかな…


本当に凹むよっ…

2017-07-02 20:49:04 | Weblog

日に日に痩せこけていく母…

私なりに頑張っているつもりですが、具合がどんどん悪くなり、私に対して、9割方愚痴と、文句と、嫌味しか言わない…

私だって疲れるし、自分の体調も悪いけど、気を使ってるのにさ…

今日は「火曜日、病院だから、洗車してくるね」と言ったら、

「どうぞ…どうせ家に居ても何にもしないんだから、行けば?」と言う

大したことではないけど、今日の私はスルーできずに気分を害した感じを全開にし、嫌な空気を家に残して家を出た。

母にも腹が立ったが、そんな自分に腹が立ち、洗車に行きながら車の中で涙が出たよ


やっぱり…でも素直に残念で、悲しい

2017-06-23 14:44:24 | Weblog

真央ちゃん家族が病気を公表し、ブログを開設し、マスコミがいつもテレビで取り上げるのを見ていて、私はずぅっと何とも言えない気持ちだった…

マスコミに勘ぐられたくないというのと、同じ病気の人々を勇気付けるために公表などしたのだろうが、否が応でもテレビでそれが取り上げられると、同じような大変な病気に向き合っている人たちやその家族と普通の方々とでは報道の捉え方が違う。

ウチでもそうだった…

真央ちゃんご家族はご自身の環境を維持すると共に、病気に苦しむ人々に頑張っている姿を見せ、少しでも頑張れ!という意思を発信しよとしていたことでしょう。

でも…テレビで各局彼女の話題になると母は食い入るように画面を見る…

母も真央ちゃんと同じ病気で、同じ抗がん剤を使用しているから、彼女の副作用もよくわかり、自分を重ね合わせているのが、よくわかった

病院に行けば、癌友ともその話題が上がる。

そんな状況を見る私は微妙な空気で、いつも気が気ではなかった。

内心、興味ある人はブログを見ればいいのであって、ブログを更新したというネタはテレビで取り上げてほしくなかった…

だって、いつでも病気の人に勇気を与えたいからと表に出る芸能人や有名人がいると、皆、頑張れ!と思いつつ、かわいそうという気持ちがあり、その方が亡くなるとやっぱり、駄目だと思ったのよね…と思う

ましてや同じ病気を患っている方々やそのご家族は落胆する

今回の真央ちゃんの病状を見ていると私も母と重ね合わせていた。

母も最近激やせ…そこへ真央ちゃんの痩せた姿の写真を見ている母を見る私…

毎回リモコンを母から取り上げてチャンネルを変えたい衝動に駆られるが、それもあからさまだしと思っていた。

そこへ今朝の真央ちゃんが亡くなったという報道で、母「あっ…死んじゃった」と絶句

私、涙が堪え切れずにトイレに駆け込んだ。

今、多分行われているであろう海老蔵さんの記者会見は見たくないから今はテレビを消してます。

幸いにも母は昼寝ちゅう…

でも夜の番組で取り上げるだろうなぁ~

つらいなぁ~いろんな意味で、この状況

真央ちゃん、なんて母の半分以下の年齢で、無念だったろうし、辛かったことは我が身のようによくわかるけど、こんな報道見ないで済む日が来なかったのが本当に悲しい…


久々のムカムカ&モヤモヤ

2016-11-13 20:43:36 | Weblog

皆さまお久しぶりです。

どうにかまりっぺ一家は生きてます。

でも正直、母、夏から秋にかけてめちゃくちゃ体力が弱り、私もいよいよ腹をくくろうかと思ったこともありました。

そこにきて真央ちゃんのブログをテレビが取り上げ、その報道を暗い顔で弱り果てた母が見るものだから私も正直撃沈してました。

真央ちゃんはブログを書いているんだから、彼女の状況を知りたい人は彼女のブログを読めばいい

わざわざてテレビでそれを取り上げないでほしいと思う日々が続いてました。

だって母は真央ちゃんと同じ抗がん剤を毎週受けているので、今後もし、真央ちゃんに何かあったら、同じ病気を患い、同じ治療をしている患者さんやその家族は落胆するに決まっている…だからやたらメディアに騒いでほしくない…

とまぁ、ブログをサボっている間、いろいろなことがありました。

現実を直視したくなくてテニスを観戦に行ったり、友達とも食事に行ったり、一日2時間ほどの外出をやたらしたりしても母のことが気になるので、家に引きこもってポケモンにはまってみたり…

この2~3日は母も落ち着いているので、久々に今日は大学時代の友人に頼まれて、ある演劇を俳優座に見に行ってきました。暗い内容の話で、舞台上の演出も真っ暗で、これは睡魔との戦いになるなと思った矢先、友人の隣のおじさんがイビキをかき始めたzzz

その内にイビキがうめき声となり、友人の方に倒れて来たおじさん。

友人とは反対側にいた奥さんが「お父さんどうしたの?」と声をかけても反応なし

私は低血糖でも起こしたのかと思い「ご主人、糖尿の持病は?」と聞いたらないとのこと。その内、真後ろに座っていた女性が「横にして」といいながら脈を取り始めた。運よく後ろの席の女性は看護師さんだったのです。

友人と私が席をどき、私、咄嗟にズボンのベルトを緩め、首もとのシャツのボタンを外していたら、後ろの女性が頻脈だというので、救急車を呼ぶことになったのですが、演出家の人が舌打ちをし、「冗談じゃねえよな。今いいとこなのに。休憩時間まで待てねえのかよ」と言い、最前列に座っている女性が「気が散るから静かにして下さい」という

オジサンの奥さんはどうしていいのかわからずに、慌てふためく始末。結局、後ろの席の女性と私がご夫妻を救急車に乗せ、救急隊に説明するという始末。

今回の舞台は、舞台をやっていた友人が頼まれて義理で切符を買ったらしいので、何も事を起こさずに帰ってきましたが、何の関係もなければ、椅子を振り上げてくるところでした。

しかし今日は舞台よりもドラマッチックな1日でした

 


もうバタバタ過ぎて…

2016-04-17 00:46:51 | Weblog

今回の母の抗癌剤がきつすぎて、毎回抗がん剤を打った後、熱を出す。その都度、病院に行きたくないと駄々をこね、私はいつも担当の看護師さんに電話で、母を説得してもらうというバトルを繰り広げる。
発熱が落ち着くと今度は味覚とか色々な副作用の症状がコロコロと変わり、お粥とかつゆっけの物が食べたいと言ったかと思えば翌日はまた食べられそうな物が激変する上、白血球が1、000にも下がったので、先生からはお刺身は勿論、生野菜さえも厳禁とお達しがあり、料理嫌いな私は毎日頭を抱えてしまっています。
そんなある日、抗がん剤のあとはこまめに母の血圧をチェックするのですが、私もたまにはかると毎回…

このような数字を目にし貧血が起きそうな気がしてくるし、色々考えなければいけないことがあり、頭が痛くなる日々です。その上、最近ちょっと頭を抱える週1回、英語のクラスを教える仕事も始めました。生徒は某日本料理屋さんの若者たちなのですが、これがまたやる気のある子と、社長に言われ渋々授業を受ける子と、レベルがバラバラ。しかもその子は中学英語さえも怪しいレベルで1、2、3の綴りを書いて、と言えば書けないと最初から書こうとしない。でも何となくでいいから書きなさいと言ったら”WAN”と書いたので、思わず吹いた。発音的には間違っていないんですけどねぇΣ(|||▽||| )でもここで吹いたら、またやる気を失うから、英語をグループに教えることが難しいことに気づいた。

後は母が寝ている間に週に2~3回、1~2時間テニスに繰り出してストレスを発散しようとはしていますが、これもまた体が疲れきっているので、「エイヤァ!」と気合を入れて外出しないと、結局、私自身家で昼寝してしまう感じ…

それでもやはり母や私を癒してくれるのは14日に無事2歳になったチビ達です。

相変わらず、ママの側にいるのが好きな正宗

そして大分大人びたメルセデス。

この子達と触れ合っている時間が本当に心の支えになるなぁ~と思っていたら、翌日は熊本の大地震が発生。東日本の頃の記憶がフラッシュバックすると共に、あの時、助けてくれた九州の友人や親戚のことを思うといても立ってもいられない。こんな時、ママタンなら直ぐに義援金を送るだろうなぁ~と思うも、週末で、振込もできずにひたすらテレビやインターネットで情報を得ているだけの私。一体、何ができるのだろうか?

一応、長崎と福岡の友人や親戚は大丈夫のようだけど、東日本の時の余震で、大分、私は参ってしまったので、彼らも相当しんどいはずだよなぁ~とまた心配事が増えたというか、何も恩返しができない自分がもどかしい今日この頃です。


恐るべし…

2016-03-10 23:58:27 | Weblog

書きたいことがいっぱいあるのに…あいも変わらず、仕事やら、家のことやらに忙殺されておりました。

母、1クール目の抗がん剤投与から典型的な抗がん剤の副作用で伏せることが多くなっておりまして色んな意味でドタバタでした(ーー;)

そんな中、正宗が母の体調の悪さを察したのか…

土曜日の夜に具合を悪くして、しきりに私の膝の上に乗り、震えながら何かを訴えていました。

最初は夕方、おイタをしたことを怒ったので、私のご機嫌を取りに私の所にきたのだと思っていたのですが、どうも様子がおかしい…そこでかかりつけの獣医さんに連絡をしてみると、「時間外だけど、心配なら連れてきて」と言われ、急いで、正宗をだっこして連れて行ったのです。

診察の結果、骨折などはしていないが、私や母が見ていない時にメルセデスと喧嘩した、若しくはソファか、私のベッドから降りる時にどこか打ち「体痛ではないか?」ということで消炎鎮痛剤のお注射をして頂き、4日分のお薬を頂いて帰宅。

帰宅後は震えは止まったものの、一晩中、私にべったりとくっついて寝て、翌日も、ずぅっと私にくっついているか、私のベッドで静かにしていました。

今までは母にべったりだった正宗、どうやら母が具合悪いので、私を頼ったみたいです。

親バカですが、なんて賢いんだ、コイツは!?と思いながら、普段はメルセデスや母との関係のバランスを考えて、正宗と距離感を調整していたのですが、具合の悪い時くらい、思い切り、甘やかそうと思い、馬鹿可愛がりしていました。

そしたら、敵も去るもの…ママは具合が悪いから、将来的にまりっぺに鞍替えした方がいいので、今、まりっぺとメルセデスの間に割り込んでやろうと思ったのでしょう…

大分具合が良くなってからも、仮病を使い、私にアピールをし始めました。母もこれにはちとショックを受けた

「マーちゃんは私が長くないと思って、寝返ったのねぇ~」と苦笑

そして、傷心の母は3月8日、祖母の命日に2クール目の抗がん剤を打ちに病院へ行ったのですが、その日は物凄く不思議なことが起きた

母を病院に送ろうと、朝、汚部屋で着替えていたら、大叔父が生前くれたお数珠が、グチャグチャの机の上にあるのが目にとまりました。

普段、必要な時に、物が見当たらない。お数珠も葬儀に行く時とか、いつも見当たらず、母のを借りるのですが、その日は祖母の命日とはいえ、母の抗がん剤投与の日だからお寺に行かないつもりでした。

なのに、ふと、お数珠に目が止まったものだから、咄嗟にそれをバッグに入れて、母を病院に送って行った。

母を送った後は、正宗のことも心配だったし、母を迎えに行くまでの間に母のベッドのシーツとかを取り替え、念入りに掃除しようと思ったのですが、お天気が良かったので、気が変わり、祖母のお墓参りに浅草まで行くことにしました。

お寺について、お墓を掃除していたら、「あっ」という声が聞こえ、振り返ると、大叔母が母の従姉妹が立っていました。

去年、祖母の三回忌をやったし、今年は母の抗がん剤の日と重なっていたし、大叔母は93歳になるので何も連絡していなかったのに、祖母の命日を覚えていて、来てくれたことが嬉しかったでも朝、大叔父のくれたお数珠が目に入り咄嗟にバッグに入れたことは、きっと大叔父や祖母がお墓参りに来て!と、大叔母と引き合わせてくれたんじゃないかと思うと、ちと怖いとも思いました。


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