気ままに

大船での気ままな生活日誌

和田英作展/日本近代洋画の巨匠

2016-06-24 10:49:03 | Weblog

こんにちわ。

最近、日本近代洋画の巨匠と呼ばれる画家の回顧展をたてつづけにみている。五姓田義松(1855-1915)、原田直次郎(1863-1899)、黒田清輝(1866-1924)、そして、今回の和田英作(1874-1959)である。

三島市の佐野美術館は、2012年の”小村雪岱/江戸の残り香”以来、久し振りの訪問だった。今回は三島梅花藻が主で、この展覧会は従であったが(笑)、なかなか面白い展覧会であった。回顧展であるから、和田英作という人物のバイオグラフィーも垣間見ることができたし。

和田は鹿児島(垂水市)の生まれだが、幼少期に家族が上京し、麻布に住んだ。明治学院に入り、上杉熊松に洋画の基礎を学ぶ。退学してからは原田直次郎の鍾美館に入る。1893年、黒田清輝がフランスから帰国し、彼がもちかえった”外光派”に衝撃を受け、病床の原田の許しを得て、1894年、黒田の天真道場へ移る。

1896年、白馬会創設に関わり、東京美校に洋画科が開設されると、黒田が教授、和田は、藤島武二、岡田三郎助らと共に助教授に就任。しかし、その後、辞職し、美校へ生徒として入学するのである。いきなり4年に編入(笑)、卒業制作として、”渡頭の夕暮”を描く。教科書にも出ている名作。

農作業を終え、多摩川の矢口の渡しで、帰りの船を待つ場面。川面が夕陽に染まっている。のちに、”夕暮れと朝焼けを極めた画家”とも称される。ついでながら、和田は、”富士薔薇太郎”と呼ばれるほど、富士山と薔薇をよく描いた。展覧会でも、薔薇コーナー、富士山コーナーも。

さて、話を戻そう。1879年にヨーロッパ留学の機会を与えられ、フランスへ3年、黒田の薦めでコランに師事。第1章(洋画家として歩み始める)では、前述の名作のほか、黒田風のマダム・シッテル像(知らないぞ(笑)。下宿先の夫人がモデルです)などが並ぶ。ミレーの落穂ひろいの摸写も。やっぱり、夕暮れが好きみたい。

第二章(白馬会、文展で活躍)では、1908年作”おうな”(東近美蔵)、くものおこない(衣通姫)、福沢諭吉先生の肖像(一万円札と同じ顔。同じ写真を元に描いたとのこと)。

おうな 千葉県稲毛に取材。干潮時の夕陽と老婆。一日のおわりと人生のたそがれ。

第3章(洋画界の指導者へ)。1921年には日仏交換展の代表使節としてパリに渡る。二度目の渡欧の経験から、帰国後、20,30年代は日本の古代にも目を向けるようになった。”野遊”や”近江石山寺紫式部”など。美校の校長(1936)、帝室技芸員など要職を務める。

野遊 奈良時代の貴婦人が、藤の花を愛でながら音楽を奏でようかという場面。うっとり。

第4章(東京を離れ、愛知・知立、そして静岡・清水へ) 戦争が激しくなり、愛知県知立に疎開。逢妻風景、小堤西池のかきつばた、夏雲、などの風景画を描く。1951年、清水に移り、富士山を描きつづけ、1959年に亡くなる。

夏雲

三保富士(1953)

ちらしの絵は赤い燐寸。真夏の日射しを受け、眩いばかりの青春の輝き。モデルは帝大生時代の澁澤秀雄。和田は美校の水泳部長で一緒に海水浴に行ったときの思い出。マッチの炎は一瞬だが、良い思い出は永久に残る、と書いている。

とても、楽しい展覧会でした。さて、次回はいつになるかな。

庭園散策も楽しい。



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