平成最後のGWの最終日の午後のこと。いつもの気まま散歩をしているとき、近くのホールで横浜管弦楽団の定期演奏会があるのを知った。当日券もあるというので、いそいそと入場。この楽団はいつもは横浜の県立音楽堂(前川国男設計で見に行ったことがある)で開催しているのだが、改修工事が2年間続くので、その間は鎌倉芸術館で、とのことだった。ラッキー!
プログラムに三つの曲目紹介が載っている。その一つ、シューマンの交響曲第1番変ロ長調 ”春”の案内文に惹かれた。シューマンは、師のヴィークから愛娘クララの交際を反対され、”出禁”状態になっていた。しかし裁判で勝訴し、1840年、晴れてクララと結婚することができた。この年は”歌曲の年”といわれ、多くの歌曲が生まれた。交響曲”春”は、その翌年に数日でスケッチ、二か月で完成させたとのこと。幸せな結婚生活の故であろう。そして、初演は、1841年3月にメンデルスゾーン指揮で、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団により好評を博した。
関心をもったわけは、2013年の東ドイツの旅で、ライプツィヒの音楽史蹟巡りを思い出したから。そのとき、シューマンとクララの住んだ家を見ているし、メンデルスゾーンの家、ゲヴァントハウス・コンサートホールも見学したのだ。
さて、音楽は第一楽章(春のはじまり)、第二楽章(夕べ)、第三楽章(楽しい遊び)、第四楽章(たけなわの春)と、まさに、シューマンの”人生の春”を感じさせるような演奏であった。ぼくは第二楽章が好き。紹介文によると、”夢見るような緩徐楽章”。このような室内楽的小品をクララの父は嫌ったようだ。
休憩のあとは、ブラームスのピアノ協奏曲第2番変ロ長調。ピアノとオーケストラが闘う曲で、ピアニストにとっては恐怖の50分だそうだ。ぼくは、一時、闘いを休んだかのような第三楽章がよかった。ロマンチックで深遠な楽章と紹介文。
シューベルトの劇付隋音楽”ロザムンデ”序曲もはじめに演奏された。指揮は鈴木睦、ピアノはアキラヤマガタ。
アマチュア楽団ということだが、ぼくには十分。1000円で楽しませてもらえるんだもの。また、近いうち、別の楽団がくるらしい。今度は、気ままではなく、予定しておこう。
。。。。。
以下、むかしの(2013年)ブログ記事の関連部分を転載。
音楽の父と称されるバッハ、そして音楽の母はヘンデル、ふたりともドイツ人。それもライプツィヒにほど近い、アイゼナハとハレに生まれ、育ち、とくにバッハはライプツィヒを本拠地として活躍した。加えて、ワグナーはライプツィヒ生まれだし、メンデルスゾーンもシューマンもライプツィヒに住み、活動した。このように、ライプツィヒは世界的な音楽の街だ。というわけで、今日は、ライプツィヒの音楽史跡巡りの旅におつきあいください。
まず、シューマンと妻クララの住んだ家。シューマンはライプツィヒ大学法学部に入学したが、音楽家への夢を捨てきれず、ピアノ教師、ヴィークのもとに弟子入りする。彼の娘さんで、名ピアニストのクララの美貌についクラクラとなりシューマンは、ヴィークの大反対を押切り、結婚。
1840年、結婚式翌日から4年間、この建物の2階に住んだ。メンデルスゾーン、リスト、ワーグナー、アンデルセンらが訪問したという。
メンデルスゾーン(1809~1847)の家。1845~47年に住み、終焉の場所でもある。家族と共に建物2階の一画に住んだ。メンデルスゾーンは、長年にわたりゲヴァントハウス楽長を務め、ライプツィヒ音楽院の創立者でもある。現在、メンデルスゾーン博物館として公開されている。
博物館設立にはツジイエミコさんを中心とする日本人の資金援助に依るところが大きい。取り壊し寸前だったという。
さて、そのゲヴァントハウス・コンサートホール。世界最古(1743)の民間オーケストラといわれるゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地。時代を代表する音楽家たちが楽長(常任指揮者)を務めてきた。
滝廉太郎(1879-1903)も、ライプツィヒに留学している。元住居辺りに碑が建っている。
いろいろなことが思い出されてくる。これもブログの効用のひとつでしょうか。あと10年、がんばるぞ!