気ままに

大船での気ままな生活日誌

プラハのモーツアルト

2018-05-26 09:37:58 | Weblog

おはようございます。昨日、見た映画のこと。

モーツアルトの映画というと、”アマデウス”(1984)が最も印象的で、モーツアルトのイメージも、ここで随分、おとしめられた(笑)。なにせ、スカートめくりはするは、素っ頓狂な声は出すは、とんでもない軽薄なぶ男として描かれていた。ところが、かまくら銀幕上映会で見た、”プラハのモーツアルト/誘惑のマスカレー”では、一転、真面目で、重厚なイケメンなモーツアルトになっている。どちらが、真実に近いか。少なくとも、顔だちだけは、”プラハのモーツアルト”に近いのではと思う。その証拠写真をお見せしよう。

今回のモーツアルト

モーツアルトの未完成の肖像画

いかがでしょうか。よく似ているでしょう。この肖像画はランゲ作のものである。2011年11月に丸の内の第一生命本社で公開されたことがあるのだ。この絵は、小林秀雄の名作”モーツアルト”にも現れ、小林はこのモーツアルトを凝視し、以下の文章を紡ぎだした。映画には関係ないけど、ぼくの好きな文章なので、ここから転載します。

僕は、その頃、モーツアルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて、大事にしていた。それは巧みな絵ではないが、美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が表れている奇妙な絵であった。モーツアルトは、大きな眼を一杯に見開いて、少しうつむきになっていた。人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。彼は、画家が眼の前にいる事など、全く忘れてしまっているに違いない。二重まぶたの大きな眼は何にも見てはいない。世界はとうに消えている・・・ト短調シンフォニーは、時々こんな顔をしなければならない人物から生まれたものに間違いない、僕はそう信じた。何という沢山の悩みが、何という単純極まる形式を発見しているか。内容と形式との見事な一致という様な尋常な言葉では言い現わし難いものがある(小林秀雄/モーツアルト

でも、全く、この映画に関係ないことはない。モーツアルトはがプラハに来た1787年は、三男を亡くし、失意のどん底にあったのだ。ちょうどその頃、プラハではモーツアルトの”フィガロの結婚”が上演され、大好評だった。上流階級の人々は、ぜひ、モーツアルトを呼び、指揮をしてもらい、また新作を作曲してもらおうと招待した。陰鬱な気分のウイーンを離れたいと思っていたモーツアルトは、渡りに舟とプラハにやってきたのだ。

そこから先は、創作であろうが、モーツアルトは、”フィガロの結婚”のケルビーノ役に抜擢されたスザンナに惹かれてしまう。一方、スザンヌも天才的音楽家に羨望の眼差しを向ける。しかし、スザンヌには女たらしで悪名高いサロカ男爵が狙っている。この三角関係は最悪の結果を迎える。そんな中、女たらしを主人公にした”ドン・ジョヴァンニ”が作曲される。

映画では、”フィガロの結婚”と”ドン・ジョヴァンニ”の上演の一部がみられ、名アリアが聞ける。また、舞台となった、うつくしい百塔の街、プラハの風景もうれしい。

楽しめた映画だった。

それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!

 

コメント
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