東慶寺の岩壁の、星くずのように美しいイワタバコを鑑賞したあと、ボクは次ぎに、新緑から濃い緑に移りつつある、言葉を換えていえば、少女から大人の女に成長しつつある苔美人の探索に出掛けました。
5月の半ばに、ここを訪れたとき、新緑の一番の苔美人は、イワタバコの岩壁の先にある、前田青邨画伯のお墓に向かう石段に生える苔でした。それで、ボクはその日もまず、その場所に向かったのでした。ところが、その石段はその後、人に踏まれたせいか、はじっこの方に、わずかばかり、それも冴えない色の苔があるばかりでした。
ボクはがっかりして、この暮苑の一番の高台にある、高見順さんのお墓のある方に向かったのでした。でも、このあたりの苔は、日当たりがいいせいか、お昼寝から起きたばかりの、ねぼけ顔の苔さんばかりで、ボクの心をとらえる苔美人はひとりもいなかったのです。
そして、しばらくの間、”苔美人探索の旅”を続けていましたが、下の方に降りてきて、目を見張る苔美人をみつけ、驚きの声をあげてしまったのです。その苔美人は、まるで鏑木清方の美人画から抜け出てきたような着物姿の、清々しくて、ほんのりとしたお色気(コケティッシュ(笑))が漂う、美人だったのです。
このあたり一帯がきれいでしたが、とくに、小径から二番目のお墓が、際だっていました。あじさいと椿の木にはさまれた墓石の前のスペースには余すことなく、鮮やかな、少し濃い緑色の苔がびっしりとつきつめられていました。折からのこぼれ日を受け、その緑の苔はまばゆいほどの輝きを放っていたのです。東慶寺一の苔美人をみつけだした喜びでボクは胸がいっぱいになっていました。そして、その自然石の墓標に刻まれていた「真杉静枝之墓」の文字に、ボクは二度、びっくりしてしまったのです。
ボクは以前、林真理子さんの、「女文士」を読んだことがあります。真杉静枝さんの伝記的小説です。小説といっても、彼女と関係した作家の実名がぼんぼん出てくるので、まるで週刊誌のような、おもしろ感覚で読んだ記憶があります。
新聞社の社員で、作家志望であった、真杉さんは、仕事で出会った武者小路実篤さんに、あなたが笑うとセザンヌの描く女にそっくりになるね、と言われ、彼の愛人になります。でも5年ぐらいで別れ、次ぎは作家の中村地平さんと横浜山手で同棲します。それも破綻し、今度は、芥川賞をもらい張り切っていた中山義秀さんと正式な結婚をし、鎌倉の極楽寺に住むようになります。この結婚式の仲人は青山二郎さん(小林秀雄さんや白州正子さんの骨董鑑定の師匠です)で、披露宴には鎌倉文士もたくさん出席しています。小林秀雄さんは、真杉さんに聞こえるように、新郎に「再婚同士で、まあ、1年、もつかってとこだな」と言ったそうです。ひでーやろう(秀雄)ですね(笑)。でも、新郎も、1年もったら、お前さん、金でもくれるのか、と笑って応酬したそうです。小林さんの予言よりは長くもちましたが、結局は破綻してしまいました。
こういう”振幅の多い愛の遍歴”から、あまり皆からはよく思われていなかったようです。でも作家志望の女性が、あの当時の男性中心の社会とか戦争の時代とかを必死に、一生懸命、生きてきた結果なのだと思います。なにも悪いことはしていません、とボクは思います。
ボクはお墓の前で、そんなことを思いながら、手を合わせました。そして、両手を拡げて、お墓の前の緑の苔を左から右にゆっくりと動かしました。ビロードをなでるような、細やかな、やさしい、懐かしい感触がボクの両手の表面の触覚細胞を刺激して、それが、いくつもの神経系を経て、ボクの脳に到達しました。そして、それが、すでに視神経から到達していた、脳の中の、やっぱり、やさしくて、なつかしい、グリーンカラーのベースのお酒にゆっくりと混ざり、まるで、おいしいカクテルを味わっているような、そんな気がしたのでした。
5月の半ばに、ここを訪れたとき、新緑の一番の苔美人は、イワタバコの岩壁の先にある、前田青邨画伯のお墓に向かう石段に生える苔でした。それで、ボクはその日もまず、その場所に向かったのでした。ところが、その石段はその後、人に踏まれたせいか、はじっこの方に、わずかばかり、それも冴えない色の苔があるばかりでした。
ボクはがっかりして、この暮苑の一番の高台にある、高見順さんのお墓のある方に向かったのでした。でも、このあたりの苔は、日当たりがいいせいか、お昼寝から起きたばかりの、ねぼけ顔の苔さんばかりで、ボクの心をとらえる苔美人はひとりもいなかったのです。
そして、しばらくの間、”苔美人探索の旅”を続けていましたが、下の方に降りてきて、目を見張る苔美人をみつけ、驚きの声をあげてしまったのです。その苔美人は、まるで鏑木清方の美人画から抜け出てきたような着物姿の、清々しくて、ほんのりとしたお色気(コケティッシュ(笑))が漂う、美人だったのです。
このあたり一帯がきれいでしたが、とくに、小径から二番目のお墓が、際だっていました。あじさいと椿の木にはさまれた墓石の前のスペースには余すことなく、鮮やかな、少し濃い緑色の苔がびっしりとつきつめられていました。折からのこぼれ日を受け、その緑の苔はまばゆいほどの輝きを放っていたのです。東慶寺一の苔美人をみつけだした喜びでボクは胸がいっぱいになっていました。そして、その自然石の墓標に刻まれていた「真杉静枝之墓」の文字に、ボクは二度、びっくりしてしまったのです。
ボクは以前、林真理子さんの、「女文士」を読んだことがあります。真杉静枝さんの伝記的小説です。小説といっても、彼女と関係した作家の実名がぼんぼん出てくるので、まるで週刊誌のような、おもしろ感覚で読んだ記憶があります。
新聞社の社員で、作家志望であった、真杉さんは、仕事で出会った武者小路実篤さんに、あなたが笑うとセザンヌの描く女にそっくりになるね、と言われ、彼の愛人になります。でも5年ぐらいで別れ、次ぎは作家の中村地平さんと横浜山手で同棲します。それも破綻し、今度は、芥川賞をもらい張り切っていた中山義秀さんと正式な結婚をし、鎌倉の極楽寺に住むようになります。この結婚式の仲人は青山二郎さん(小林秀雄さんや白州正子さんの骨董鑑定の師匠です)で、披露宴には鎌倉文士もたくさん出席しています。小林秀雄さんは、真杉さんに聞こえるように、新郎に「再婚同士で、まあ、1年、もつかってとこだな」と言ったそうです。ひでーやろう(秀雄)ですね(笑)。でも、新郎も、1年もったら、お前さん、金でもくれるのか、と笑って応酬したそうです。小林さんの予言よりは長くもちましたが、結局は破綻してしまいました。
こういう”振幅の多い愛の遍歴”から、あまり皆からはよく思われていなかったようです。でも作家志望の女性が、あの当時の男性中心の社会とか戦争の時代とかを必死に、一生懸命、生きてきた結果なのだと思います。なにも悪いことはしていません、とボクは思います。
ボクはお墓の前で、そんなことを思いながら、手を合わせました。そして、両手を拡げて、お墓の前の緑の苔を左から右にゆっくりと動かしました。ビロードをなでるような、細やかな、やさしい、懐かしい感触がボクの両手の表面の触覚細胞を刺激して、それが、いくつもの神経系を経て、ボクの脳に到達しました。そして、それが、すでに視神経から到達していた、脳の中の、やっぱり、やさしくて、なつかしい、グリーンカラーのベースのお酒にゆっくりと混ざり、まるで、おいしいカクテルを味わっているような、そんな気がしたのでした。