気ままに

大船での気ままな生活日誌

白木蓮が咲くと読みたくなる本

2007-03-08 16:28:10 | Weblog
ぼくの好きなハクモクレンが見頃になりました。この白い、ふくよかな花をみると、どうしても本棚から取り出したくなる本があります。それは、30年以上もむかしに買った、庄司薫さんの”薫くんシリーズ”第3作「白鳥の歌なんか聞こえない」です。この小説の主人公は、高校を卒業したばかりの浪人生の薫くんなのですが、ぼくには、ハクモクレンが影の主役というか、名脇役というか、そんな感じがしているのです。

この小説は、早春3月のわずか6日間の物語です。ハクモクレンが咲き始めて、この物語りが始まり、満開になって、フィナーレを迎えます。

薫くんの幼なじみで、お互いに憎からず思っている同級生の由美が、3月19日に嬉しそうにそわそわした様子でやってきて、斉藤さんちのモクレンが咲いたからみにいかない?と誘いにきます。

・・やがて斉藤さんのうちが近づき、僕たちは、白い漆喰の塀の上に高さ5メートルはありそうな大きなハクモクレンが、まるで大きな若い白孔雀が初めてその羽根を拡げたように、まだ開きかけの白い花をいっぱいつけているのをみつけた・・この僕たち二人の春のしるしともいうようなやわらかく若々しく美しいハクモクレンに見とれた。春がほんとうに来たんだ(原文のまま)・・

由美は、女友達の小澤さんを薫くんに紹介します。小澤さんには80才の祖父がいます。コデマリの生け垣に囲まれた彼の自宅の図書室には、膨大な蔵書があり、そのうち半分が原書で、英独仏語その他各種外国語の本なのです。薫くんは、どの本にもその言語の書き込みが入っていて、すべての本が読まれている形跡があるのに驚きます。その上、庭園には世界中から集めた珍しい植物が植えられ、おしゃれで、音楽、美術、食べものにも造詣が深い、人類の叡智のことごとく身につけているような人物なのです。彼は、それほど本を書かなかったけれど、彼の存在そのものが、かけがえのない偉大な作品とでもいうようなものなのです。

そんな、すごい老人が今病気で生死をさまよっているのです。ハクモクレンが咲き始めた早春のさなか、老い、衰え、そして死にゆくものに直面した、若者たちが、真摯な心で、人の死について、そして、生きることについて考え、悩み、葛藤します。

生きるってどういうことなんだろう、人の世の根底にある空しさを、忘れるために、見たくないために、人々は重荷をわざわざ背負って歩き続けるのではないか、一方、重荷を背負わず、空しさそのものに真正面に立ち向かい、戦っていく生き方もあるのではないか、若者たちは議論します。

死んでいくものに対しては、由美は、あるやさしい、思いやりのような心の動きを自分の中に感じます。沈んでいく大きな夕陽に向かって口笛を吹きたいような、そして白鳥の歌を聞こうとでも言うように耳をすます、そんな心持ちになります。逆に、薫くんの心は、何が、沈む夕陽だ、何が白鳥の歌だ、さっさと沈んでしまえ、さっさと死んでしまえ、老いゆくもの、衰えゆくもの、死んでいくものに対し、敵意と憎悪の気持ちがわいてくるのを抑えることができません。巨大な影のような「敵」が、まるで死んでいくこと、滅んでいくことこそすべての感動の源だ、生きていくことそれ自体が醜いことだとでも言うように迫ってくる、そう感じ、強く反発しているのです。

斉藤さんちのハクモクレンは、この暖かさで一気に開いてきます。その前を行き来する薫くんと由美の間でも若い生命のふれあいが進行します。由美が薫くんに珍しく犬のぬいぐるみの贈り物をします。そして耳の裏のジッパーの中に「あなたがとてもとても好きです 由美」の白いカードを入れます。その後、由美はさらに積極的に出ますが、薫くんは、人の死を前にして、ふるえるように繊細な心になっている由美と、この関係をさらに深めることを拒みます。でも、そんな由美をとてもいとおしく思います。

そして、老人の死が訪れます。弔問のため両側に車のいっぱい止ったコデマリの生け垣の道を抜けて、薫くんは歩き続けます。そして斉藤さんちのハクモクレンの前に出てきます。

・・このところずっと素晴らしい天気が続いていたせいか、あのハクモクレンはもうすっかり咲き開いて、遠くからみるとまるで樹全体が一つの巨大な白い花のように、夜の中にうかびあがって見えた。ぼくはゆっくりと吸い寄されるように近づいていき、やがてその夜目にも鮮やかな白い花の群れの下までくると、例の道をへだてた反対側の塀にもたれかかって、しばらくの間じっとその花々を見上げた(原文のまま)・・

そして薫くんは、このわずか6日間に起こったいろいろの出来事について思い出していました。この間、自分は、心の中の、最もやさしく、やわらかく感じやすい大切な心の動きというものを、巨大な影のような「敵」から守るために精一杯戦ってきたつもりだった、そして、由美との出来事も次々心に浮かんできました。そうこうしているうちに、薫くんは、ある言いようのなく、懐かしくやさしい気持ちがしみじみと心の中にわいてくるのを知ったのでした。

白い漆喰の塀を登って左手を伸ばし、頭の上のハクモクレンの見事な一枝を折ろうとしました。しかし足下が狂い、すべり落ち、枝もとから折れてしまいました。その、やたらと大きなハクモクレンの一枝をかついで由美の家に向かったのでした。そして、由美の家の門の鉄柵の間からそれを指しました。二階の窓の由美に早く気づくように、口笛を吹こうとしましたが、何故だか急に涙があふれ出そうになって、唇がふるえてとまらなくなってしまいました。じっと塀にもたれかかって由美の部屋の明かりをぼんやりと眺めていました。

そして、フィナーレ。ここでもハクモクレンの一枝がじっと薫くんをみつめているというわけです。

・・この僕のうちに、ある言いようもなくやさしく柔らかな気持ち、この数日間の出来事に対するあるわけの分らぬ愛情が静かに静かに溢れてくるのを知ったのだった。ぼくはいつの間にか息をひそめてそっと考え始めていた。あのぼくたちのそばをふと巨大な影のようにかすめ去り、ぼくに忘れがたい一つの記憶、あえていえば、一つの戦いの記憶とでもいうものを残していった一人の老人とその死について、ぼくはやがて溢れるばかりの懐かしさとやさしさと感謝をこめて思い出すようになるにちがいない、と。
 ぼくはきっといつか、この戦いの記憶、このおそらく誰もしらないそして誰にも説明することのできない、ぼくの春のさなかのひそやかなでもこころをつくした一つの戦いの思い出を、やさしく懐かしく思い出すにちがいない、そしてぼくは、そこで戦ったこのぼくをなにか眩いような気持ちをこめて許し、そして同時にこの戦いの中でぼくがついに頑なに拒み続けた「死」のすべてにも、やさしく心を開き、耳を傾けることができるようになるにちがいない、と。
 ぼくは、ぼくを包み込む柔らかな春の夜の中で深く息を吸い込むと目を閉じた。そしてぼくは、まるで早くも確かめようとでもいうように、静かに静かに耳をすましてみたのだった・・
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