いよいよ、実家の両親の引っ越しまで、あと3日となりました
母は、現在の郊外の自宅から、大阪の中心部への引っ越しを、心から楽しみにしています
母は、年をとってからは、よけいに「赤い灯、青い灯」に囲まれた、賑やかなところでの暮らしに憧れるようになった、と言います。もちろん、父の介護をする母にとれば、あっちこっちに敷居や段差のある現在の不便な家の構造ではなく、バリアフリーのマンションは、まさに介護するには理想の生活で、介護者の様々な負担が大幅に軽減される、というのも、うれしさの一つでしょう
もちろん父は、今の慣れ親しんだ生活には大いに未練はあるものの、自分自身でも不便さは実感しているようですから、きっとユニバーサルデザインで統一された生活は、楽に違いありません
月曜日のことです。
私は新居のほうのマンションで引っ越し後の生活の準備をしたあと、電車を乗り継いで実家に戻りました
私が帰省をすると、私が食事の支度をしたり、たまには目先の変わったものも楽しいでしょう、と、途中のデパ地下でお総菜を買って帰ったりしているのですが、さすがに疲労困憊だった私は、食事の支度をすることも、デパートに立ち寄ることも億劫になり、申し訳ないなと思いながらも、夕方に母にメールをして、「夕食、お願いします
」と頼んだのでした
ターミナル駅から、今から帰ります、のメールを母に送っていたら・・・
私が実家に着いた時には、すでにキッチンから、とってもいいにおいがしていたのでした
さっそく着替えてダイニングに入っていくと、キッチンにはエプロン姿の母
まもなく、テーブルの上には母の手料理が並びました
私は、食卓の上を見て、やられたー・・・そう思ったのでした
豚の生姜焼きに、細く切ったレタスとキュウリ(こうすると、父が食べやすいのです)。厚めにスライスされたレモン。そして、ししとうの香味焼き、山芋の海苔と梅肉和え。
いずれも、母ご自慢の器に盛られ、目にもごちそうで、食欲をそそられました
ショックでしたねえ・・・
何だか、私が長年忘れていた「大切なもの」を、まざまざと目の前で見せられた・・・そんな気がしました
母は、あの日、会社から帰ってきてから私のメールを受信したに違いありません
きっと、それから冷蔵庫の中をチェックして、さっさと献立を考え、私の帰宅時間に合わせて、これだけのお料理を、手早く作ったのでした
どれも、決して時間のかかるお料理ではありませんが、一つ一つが彩りよく、おいしそうに、とても似合った食器に盛りつけられていたのでした
くたくたになっていたはずの私でしたが、それらのお料理を見て、すっかり元気になっていました
母の手料理で私が好きなのは、ちらし寿司とロールキャベツです
しかし、私のように、時間短縮のためにと、ちらし寿司を作る時、「○○太郎」を使うことはありませんでしたし、キャベツ一枚一枚丁寧にゆで、具を巻いて、煮込み・・・
母の時代には、便利な商品が少なかった、と言ってしまえば、身も蓋もありませんが、高1になった私に、食事の支度がバトンタッチされるまで、母は滅多に「何とかの素、何とかタネ」というものを使わず、いつも楽しそうに、会社から帰宅後、お台所に立っていたものです
そして、たった一度も、「私は仕事が忙しいから、それは出来ない」とか「私はそんなことをしている暇はない」というような言葉を、聞いたことはありませんでした。
私は忙しさで煮詰まってくると、結構理不尽に不機嫌になり、忙しさを強調し、家族を閉口させることがあるのに・・・

彩りよく盛りつけられたクイックメニューの数々を前にして、私はあらためて母の偉大さを実感しました
そして、今だに、私はこんな母に育ててもらいながらも、ぜんぜん母の足下にも及ばない自分を実感しました
母、75歳、娘、48歳。今後は、すっかり私が父や母を助けていくのだ!そんな気分になっていましたが、まだまだこれから、私は母から多くのことを学んでいくのだなあ、とひしひしと実感した食卓でした

あっ、引っ越しにばかりに気をとられていましたが・・今日は母の75回目のお誕生日です

母は、現在の郊外の自宅から、大阪の中心部への引っ越しを、心から楽しみにしています

母は、年をとってからは、よけいに「赤い灯、青い灯」に囲まれた、賑やかなところでの暮らしに憧れるようになった、と言います。もちろん、父の介護をする母にとれば、あっちこっちに敷居や段差のある現在の不便な家の構造ではなく、バリアフリーのマンションは、まさに介護するには理想の生活で、介護者の様々な負担が大幅に軽減される、というのも、うれしさの一つでしょう


月曜日のことです。
私は新居のほうのマンションで引っ越し後の生活の準備をしたあと、電車を乗り継いで実家に戻りました

私が帰省をすると、私が食事の支度をしたり、たまには目先の変わったものも楽しいでしょう、と、途中のデパ地下でお総菜を買って帰ったりしているのですが、さすがに疲労困憊だった私は、食事の支度をすることも、デパートに立ち寄ることも億劫になり、申し訳ないなと思いながらも、夕方に母にメールをして、「夕食、お願いします


ターミナル駅から、今から帰ります、のメールを母に送っていたら・・・
私が実家に着いた時には、すでにキッチンから、とってもいいにおいがしていたのでした

さっそく着替えてダイニングに入っていくと、キッチンにはエプロン姿の母


私は、食卓の上を見て、やられたー・・・そう思ったのでした

豚の生姜焼きに、細く切ったレタスとキュウリ(こうすると、父が食べやすいのです)。厚めにスライスされたレモン。そして、ししとうの香味焼き、山芋の海苔と梅肉和え。
いずれも、母ご自慢の器に盛られ、目にもごちそうで、食欲をそそられました

ショックでしたねえ・・・

何だか、私が長年忘れていた「大切なもの」を、まざまざと目の前で見せられた・・・そんな気がしました

母は、あの日、会社から帰ってきてから私のメールを受信したに違いありません


どれも、決して時間のかかるお料理ではありませんが、一つ一つが彩りよく、おいしそうに、とても似合った食器に盛りつけられていたのでした

くたくたになっていたはずの私でしたが、それらのお料理を見て、すっかり元気になっていました

母の手料理で私が好きなのは、ちらし寿司とロールキャベツです

しかし、私のように、時間短縮のためにと、ちらし寿司を作る時、「○○太郎」を使うことはありませんでしたし、キャベツ一枚一枚丁寧にゆで、具を巻いて、煮込み・・・
母の時代には、便利な商品が少なかった、と言ってしまえば、身も蓋もありませんが、高1になった私に、食事の支度がバトンタッチされるまで、母は滅多に「何とかの素、何とかタネ」というものを使わず、いつも楽しそうに、会社から帰宅後、お台所に立っていたものです

そして、たった一度も、「私は仕事が忙しいから、それは出来ない」とか「私はそんなことをしている暇はない」というような言葉を、聞いたことはありませんでした。
私は忙しさで煮詰まってくると、結構理不尽に不機嫌になり、忙しさを強調し、家族を閉口させることがあるのに・・・


彩りよく盛りつけられたクイックメニューの数々を前にして、私はあらためて母の偉大さを実感しました

そして、今だに、私はこんな母に育ててもらいながらも、ぜんぜん母の足下にも及ばない自分を実感しました

母、75歳、娘、48歳。今後は、すっかり私が父や母を助けていくのだ!そんな気分になっていましたが、まだまだこれから、私は母から多くのことを学んでいくのだなあ、とひしひしと実感した食卓でした


あっ、引っ越しにばかりに気をとられていましたが・・今日は母の75回目のお誕生日です
