じつは、主人が自分のブログで「大阪のおばちゃん学」という本を読んでの感想を書いています。もともとこの本は私が友人に借りた本で、私自身が爆笑に次ぐ爆笑で、大変なストレス発散になった本なので、是非主人にも勧めたくなったわけです
大阪出身の私や、主人の場合は、この「大阪のおばちゃん学」は、「ふむ…ふむ… おー、そうなんだあ…」と、面白可笑しく納得して読み進めるのではなく、「そう、そう、そうやねんよなあ…まさにまさに。ほんまほんま!」などと、我が身(主人の場合は、我が妻、我が母、我が友人達)に置き換えて共感し、自己再確認?をするものでした。まあ、どうぞみなさんも、まわりに大阪出身者がいて、眉をひそめたり、理解不能になったりしたら、一度読んでみてください。そして、幸いにも?!大阪出身者がまわりにいなくとも、最近ではCMにも登場する強烈な「大阪のおばちゃん」がどういうものかを知るのは、なかなか文化人類学的におもしろいかもしれません。
そう言えば、以前、大阪の実家に帰省していた時、電車の中でこんな亊がありました。これは「大阪のおばちゃん」ではなく、「大阪のこども」について、です。
私はその日、実家に戻るべく、始発駅から電車に乗っていました その電車は、南海電鉄高野線(難波駅という大阪南部の中心から、真言宗の大本山のある、あの高野山まで走っている路線です)という電車で、ちょっとは高級感のある阪急電車などに比べて、かなり「大阪っぽい」「大阪くさい」路線なのです。昼間の時間で、車内は比較的すいていて、私は車両のドアのところに寄りかかって本を読んでいました。
電車が発車して、3、4分過ぎた頃でしょうか、どうも前から視線を感じます。「?」と思って、ちょうど視線の先の、ドア反対側を見てみると、1年生くらいに見える男の子が立っているのです。私は、「この子が私を見てた、のかな?」と思いつつも、また本に目を戻しました。電車は急行で、いくつもの駅をとばして走っています。しばらくすると、また視線を感じるのです。いよいよ、私は、真面目にその子に視線を移しました。
すると、その男の子、ニマッっと笑い、抜けた前歯を見せながら、私に言うのです。
「おばちゃーん!…なあ、おばちゃーん!切符、落ちてんでえ!(落ちてますよ)」
何とまあ、ご親切な亊でしょう。たぶん、私はバッグから本を取り出す時に、手に持っていた切符を落してしまったのでしょうねえ。男の子は、最初から、それを見ていたのでしょう。
それにしても… 私は、その子の言葉に「ううううううう、やめてくれー!」という気分になりました もちろん、顔はにっこり笑って、「どうもありがとう!」とは言いましたが、心の中はズタズタでした。なぜって?
東京に移り住んで23年。人生の半分は、すでに関東暮らしになりました。そして、何より私の二人の子供は、まさに関東生まれの関東育ち。要するに、彼らの言葉は、幼い頃から「標準語」なのです。当然、幼稚園の頃から、子供達のお友達も「標準語」を話しているわけで、私は人生の中で一度も、子供達から「おばちゃーん!おばちゃーん!切符、落ちてんでえ!」のような、超大阪弁で話しかけられた亊がなかったのでした。もちろん、私の生徒さん達も関東人、ですからね。
とにかく、その「おばちゃーん」の響き…恐ろしかったですねえ。
そう呼び掛けられただけで、私がすっかり、昔、総理府の違法駐車撲滅のためのCMで登場した、強烈な「大阪のオバハン」になってしまったように感じたのでした。覚えていらっしゃいますか?違法駐車をした中年の大阪のおばさんが、警察官に咎められたら、「なんでやのん、みんなおんなじように駐車してるやんか!なんで私だけ捕まらんといかんの!なあ!なあ!みんなしてるやんか!」と怒鳴って喰ってかかるCMを… (私、本当はあのおばちゃん達、好きですが…)
人の耳とは、不思議なものですねえ。まさに感覚と直結しているわけで、頭で考える以前に、生理的にその響きに反応してしまったのでした。私は、切符を落していた事を知らせてくれた、本当に親切な、人なつっこい男の子に感謝する気持ち以上に、ガーーーーン、みたいなショックを受けていました。
心の中で、娘が幼かった頃、幼稚園のお友達が満面の笑顔で「Mちゃんのおばちゃま、ねえ、Mちゃんのおばちゃま、ハンカチ、おっことしたわよ!」と声をかけてくれた亊を思い出していました。
そして「こら!この歯抜けくん!私の亊を『おばちゃん』やて?なんであなたにそんな気軽に「おばちゃん」言われんとあかんのん!ちゃうちゃう!私は『おばちゃん』とちゃうよ!『おばちゃま』と呼ばれてる人やねんよー!おばちゃんはアカン!『おばちゃま』とお呼びなさい!」と、心の中で睨んで、怒鳴りつけていました。はっはっは!本当に、人なつっこい、チャーミングな男の子でした。きっと、おばちゃんにいつ知らせたろか、いつ言うたろか、と、思案しながら、私を見ていたのでしょう。何てかわいい、子供らしい子でしょうね
私は日頃、家庭では主人と二人、大阪弁で暮らしています。標準語をスタンダード?母国語?としているわが子達は、今では上手に標準語と大阪弁2つを使いわけ、都合の悪い事、お願い事をする時には、大阪弁でおどけて話します。さすがに、毎日シャワーのように浴びている言葉だけあって、単語や文章の意味だけではなく、大阪弁の持つニュアンスは、しっかりと理解し、心得ています。
今、渋谷あたりの若者の中で、九州や東北などの方言を話す妙な現象が流行しているとか。そういうブーム的なものではなく、標準語としての共通語を大切にしながらも、やはり一つの文化である方言は大切にし、守っていくべきではないかな、そんな亊を思っています。
(大阪のおばちゃんの話しを、以前、私は「まどか先生のひとりごと」の中に書いています。2004年10月2日、「大阪人の嘆き」http://blog.livedoor.jp/manners/archives/2004-10.html ご興味があればご覧くださいね)
大阪出身の私や、主人の場合は、この「大阪のおばちゃん学」は、「ふむ…ふむ… おー、そうなんだあ…」と、面白可笑しく納得して読み進めるのではなく、「そう、そう、そうやねんよなあ…まさにまさに。ほんまほんま!」などと、我が身(主人の場合は、我が妻、我が母、我が友人達)に置き換えて共感し、自己再確認?をするものでした。まあ、どうぞみなさんも、まわりに大阪出身者がいて、眉をひそめたり、理解不能になったりしたら、一度読んでみてください。そして、幸いにも?!大阪出身者がまわりにいなくとも、最近ではCMにも登場する強烈な「大阪のおばちゃん」がどういうものかを知るのは、なかなか文化人類学的におもしろいかもしれません。
そう言えば、以前、大阪の実家に帰省していた時、電車の中でこんな亊がありました。これは「大阪のおばちゃん」ではなく、「大阪のこども」について、です。
私はその日、実家に戻るべく、始発駅から電車に乗っていました その電車は、南海電鉄高野線(難波駅という大阪南部の中心から、真言宗の大本山のある、あの高野山まで走っている路線です)という電車で、ちょっとは高級感のある阪急電車などに比べて、かなり「大阪っぽい」「大阪くさい」路線なのです。昼間の時間で、車内は比較的すいていて、私は車両のドアのところに寄りかかって本を読んでいました。
電車が発車して、3、4分過ぎた頃でしょうか、どうも前から視線を感じます。「?」と思って、ちょうど視線の先の、ドア反対側を見てみると、1年生くらいに見える男の子が立っているのです。私は、「この子が私を見てた、のかな?」と思いつつも、また本に目を戻しました。電車は急行で、いくつもの駅をとばして走っています。しばらくすると、また視線を感じるのです。いよいよ、私は、真面目にその子に視線を移しました。
すると、その男の子、ニマッっと笑い、抜けた前歯を見せながら、私に言うのです。
「おばちゃーん!…なあ、おばちゃーん!切符、落ちてんでえ!(落ちてますよ)」
何とまあ、ご親切な亊でしょう。たぶん、私はバッグから本を取り出す時に、手に持っていた切符を落してしまったのでしょうねえ。男の子は、最初から、それを見ていたのでしょう。
それにしても… 私は、その子の言葉に「ううううううう、やめてくれー!」という気分になりました もちろん、顔はにっこり笑って、「どうもありがとう!」とは言いましたが、心の中はズタズタでした。なぜって?
東京に移り住んで23年。人生の半分は、すでに関東暮らしになりました。そして、何より私の二人の子供は、まさに関東生まれの関東育ち。要するに、彼らの言葉は、幼い頃から「標準語」なのです。当然、幼稚園の頃から、子供達のお友達も「標準語」を話しているわけで、私は人生の中で一度も、子供達から「おばちゃーん!おばちゃーん!切符、落ちてんでえ!」のような、超大阪弁で話しかけられた亊がなかったのでした。もちろん、私の生徒さん達も関東人、ですからね。
とにかく、その「おばちゃーん」の響き…恐ろしかったですねえ。
そう呼び掛けられただけで、私がすっかり、昔、総理府の違法駐車撲滅のためのCMで登場した、強烈な「大阪のオバハン」になってしまったように感じたのでした。覚えていらっしゃいますか?違法駐車をした中年の大阪のおばさんが、警察官に咎められたら、「なんでやのん、みんなおんなじように駐車してるやんか!なんで私だけ捕まらんといかんの!なあ!なあ!みんなしてるやんか!」と怒鳴って喰ってかかるCMを… (私、本当はあのおばちゃん達、好きですが…)
人の耳とは、不思議なものですねえ。まさに感覚と直結しているわけで、頭で考える以前に、生理的にその響きに反応してしまったのでした。私は、切符を落していた事を知らせてくれた、本当に親切な、人なつっこい男の子に感謝する気持ち以上に、ガーーーーン、みたいなショックを受けていました。
心の中で、娘が幼かった頃、幼稚園のお友達が満面の笑顔で「Mちゃんのおばちゃま、ねえ、Mちゃんのおばちゃま、ハンカチ、おっことしたわよ!」と声をかけてくれた亊を思い出していました。
そして「こら!この歯抜けくん!私の亊を『おばちゃん』やて?なんであなたにそんな気軽に「おばちゃん」言われんとあかんのん!ちゃうちゃう!私は『おばちゃん』とちゃうよ!『おばちゃま』と呼ばれてる人やねんよー!おばちゃんはアカン!『おばちゃま』とお呼びなさい!」と、心の中で睨んで、怒鳴りつけていました。はっはっは!本当に、人なつっこい、チャーミングな男の子でした。きっと、おばちゃんにいつ知らせたろか、いつ言うたろか、と、思案しながら、私を見ていたのでしょう。何てかわいい、子供らしい子でしょうね
私は日頃、家庭では主人と二人、大阪弁で暮らしています。標準語をスタンダード?母国語?としているわが子達は、今では上手に標準語と大阪弁2つを使いわけ、都合の悪い事、お願い事をする時には、大阪弁でおどけて話します。さすがに、毎日シャワーのように浴びている言葉だけあって、単語や文章の意味だけではなく、大阪弁の持つニュアンスは、しっかりと理解し、心得ています。
今、渋谷あたりの若者の中で、九州や東北などの方言を話す妙な現象が流行しているとか。そういうブーム的なものではなく、標準語としての共通語を大切にしながらも、やはり一つの文化である方言は大切にし、守っていくべきではないかな、そんな亊を思っています。
(大阪のおばちゃんの話しを、以前、私は「まどか先生のひとりごと」の中に書いています。2004年10月2日、「大阪人の嘆き」http://blog.livedoor.jp/manners/archives/2004-10.html ご興味があればご覧くださいね)