goo blog サービス終了のお知らせ 

まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

ピラティスでも言葉は重要!

2008年05月17日 | う゛う゛ー
 昨日、私はスポーツクラブで、ピラティスのレッスンを受けました。身体のかたい私にとって、ヨガやピラティスは苦手で、ストレッチ系のレッスンは自発的に受けることはありませんでした
 しかし、健康的に見えながら、実際には何だかんだと投薬治療を受けなければならなかった、体内脂肪率が信じがたいほど高かった私は、最近では、親切な女医の友人のアドバイスを100%受け入れ、本物の健康体を目指すために、苦手なクラスも受けるようにしています
 まあ、何事も真剣にやってみると、なかなかおもしろく、今でも身体はたかいままですが、楽しくレッスンを受けています

 そう、そのピラティスです
すでにご存知の方も多いかもしれませんが、ピラティスには、「○○のようにするから、△△になる・・・」というような、しっかりとした理屈があります。ヨガも同じですね
 もちろん、どんな運動にも理屈はありますね。テニスでもゴルフでも、フォームやスイングによって飛距離が違ったり、コースが違ったりします
 しかし、特に「根性も勢い」も関係のない、こういうピラティスやヨガのような「静のスポーツ」では、そのメカニズムを理解して、正確にそのメカニズム、道理の通りに動くことによって、初めて大きな効果が得られる、というものです (その点、『動のスポーツ』の場合。たとえば、少々走り方が悪くても、とにかく、走ってしまえば、エネルギーを使い、カロリーは消費され、上手くいけば脂肪も燃焼します。やれば、まあ、効果はある、わけですね)
 だからこそ、先生は、ご自分でその動きをされながらも、一生懸命にお話になり、その道理、その効果を話されます
 「そうそう・・・右の脇をしっかりと伸ばしましょう 身体を前に屈めたり、反ったりしては効果はありませんよ・・・そう、右手を、左の遠く・・・遠くに伸ばしてください・・・そうです。そうすれば、右の脇が伸びて、そのことによって背中の筋肉も・・・・」というように、話されます。
 私は、先生や体の柔らかい方のように、上手に、格好よくできなくても、自分の稼動範囲にちょっと苦しいかな、と感じる程度の「がんばり」をプラスすると、本当に先生のおっしゃるように、「伸びたり」「気持ちよくすっきりしたり」するものです。なるほどなあ・・・と思います

 ところが、昨日私は、おもしろいことを発見したのです。
5,6人でレッスンを受けていたのですが、一人、20代のお嬢さんが、全く先生のおっしゃる動きをしないのです
 いや、先生の言うことを意図的に無視し、反抗しているわけではありません。身体も柔らかいですし、お若いですから、動きがしなやかです
 しかし とにかく、我流というか、好き勝手、というか・・・動きやポーズが、ことごとく先生のおっしゃっているものとは違う・・・
 ですから、先生は、必ず立っていって、一人一人の動きに手を貸し、教えられるときには、その若いお嬢さんのところではかなりの時間をとって、一つ一つの動きを直されます ご本人も、決してそれはお嫌ではないようです。
 
 最初、私はこのお嬢さんのことを、スポーツクラブにありがちな「勘違いさん」かと思ったのでした 「私はベテランなのよ、私はかなりできるのよ」ということをアピールしたいために、妙に張り切って動いたり、目立った動きを見せてしまう方・・・おいでになりますよね
 でも、彼女はそういう感じとは違いました。決してしゃかりきで頑張って「見せて」いるわけではありませんし、先生が直されることを「はい!はい!」と素直にお聞きになり、笑顔で直していらっしゃいます

 そんなお嬢さんを観察していて・・・私は気づいたのでした
このお嬢さんは、張り切る勘違いさんではなく、単に「先生の言葉が理解できない人」だったのです
 その理由・・・この方はじつは外国人だった、という訳ではありませんし、先生が片言の日本語しか話せない、というわけでもありません。お二人とも、れっきとした日本人の方です。
 けれど、残念なことに、どうもこのお嬢さんは、先生がお話しになるひと言ひと言が聞けない・・・理解できない・・・らしい
 たぶん、小さい頃から、「しっかりと話を聞き、理解する」という習慣がなかったのでしょう・・・少なくとも、親やまわりの大人から、「じっくりと聞き、理解をする重要性」を教えられることなく成長し、幸いなことに、今までのところ大きな失敗もなく、平穏に暮らしてきたのでしょうね

 それから彼女を観察していると、先生の最初のひと言を聞くと「はいはい、わかった」というような様子で、さっさと自分流の行動に移ってしまいます。
 そして、その行動が、先生が指示されたものとピタリと合っているかどうか?ということもあまり気にならない様子で、ひたすら、自分に心地よい状態で、「なーんちゃってピラティス」に甘んじていらっしゃるのでしょう

 先生が、わざわざその方のほうを見て・・・
 「どうぞ、勝手な動きはしないでくださいね。ピラティスには、一つ一つの動きに意味があり、それを正確にすることで、効果が出てくるのですからね。無理せず、じわじわとやっていけばよいのですよ。とにかく、勝手な動きをしても、全く意味はありませんからね
 と、何度も何度もにこやかに話されます。しかし、このお嬢さんは、「じつは、先生は私に言っているのだ・・・」と察することもないようでした

 「人の話を落ち着いて、正確に聞けない」ということは、生きていく上での致命傷にもなりかねません。
  人の言葉を正確に聞けなかったために、相手を誤解したり、相手に誤解されたり・・・
  人の言葉を正確に聞けなかったために、理解が中途半端でトンチンカンな行動をしたり・・・
  人の言葉を正確に聞けなかったために、身に危険が及ぶことがあるかもしれない・・・

 このピラティスの場合は、あくまで趣味であって、間違った行動、ポーズをしたところで、誰に迷惑をかけるのでもなく(先生は、明らかにイライラとなさっていますが・・・)、大きな問題にはなりません。
 しかし、この若い女性が「人の話を正確に聞けない」ままでお仕事をしたり、主婦業、母業をしたとしたら???きっと、職場では上司や同僚、後輩に迷惑をかけることもあるでしょうし、顰蹙を買うことも頻繁に起こるでしょう
 主婦業、母業では、他愛ないおつきあいではあっても、言葉は不可欠です。相手の話を正しい理解力をもって聞き、そして、相手に伝わるように言葉を選びながら話す・・・これが、大切でしょうね

 今の子ども達は、「話す」ことも「聞く」ことも下手です。
少ない語彙、貧弱な表現力、言語力しかないために、話した相手が自分の言葉を理解してくれない、ということもしばしば。そうなると、「こんなに自分は必死に伝えようとしているのに、相手が理解してくれない」と、相手のせいにして、癇癪を起こす子どもは多いものです
 また「聞く力」も低いので、少し難しい表現を使われてしまうと、たちまち意味がわからず、お手上げ状態に陥ります

 将来、みなさんのお子様方がスポーツクラブでピラティスをするかどうかはわかりませんが、やはり、人の話をしっかりと聞き、正確に理解し、行動に移す・・・これだけの能力は、最低限備えてあげなければならないでしょうね

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オバサンの定義と八百万の神様

2008年04月30日 | う゛う゛ー
 チューブ状の容器に入った洗顔フォーム。
私は、そのペタンコになったチューブのねじ状のふたをはずし、チューブの中に手を突っ込んで、側面にへばりついたクリームをこそげて・・・今朝も顔を洗いました
 こんなふうにチューブと格闘し、洗顔を始めて、すでに1週間になるでしょうか・・・ 朝と夜寝る前の洗顔で1週間、と計算しても、何と、私は「捨てられる状態」になったチューブを救出し、14回も顔を洗ったことになります
 お風呂の中でも一緒です。
ポンプ式のボトルから、押しても出なくなったシャンプーやコンディショナーのふたを開け、中にお湯を少量入れて、シェイク。そして、じゃーっと手に出して残った最後の一滴まで使い着る・・・それは、私の役目?習慣です

 我が家では、家族全員が、違う銘柄のシャンプーやコンディショナーを使っています。そして、それぞれをチェックし、無くなる前に私が買いそろえておくわけです
 ただ、娘だけは、毎回、欲しい銘柄がかわります。そこで、私は毎回、娘に尋ねるわけです。
 「ねえ、次は何ていうシャンプーとコンディショナーがいいの?」すると、娘は・・・
 「じゃあねえ・・・ママ、今度は○○がいいな
と答える・・・そして、シャンプーかコンディショナー、どちらかが無くなった時点で、新しい銘柄に替えて浴室に置いておきます。
 娘は、1、2の3!で、シャンプーとコンディショナー、同時に新銘柄、という状態で使い始めます

 古いほうの片一方が無くなるまで使うのは私です
もちろん、娘もそのようにして私が最後まで使い切っていることを知っていますから、「ママ、ごめんね!」と声はかけています。
 教育的見地からいけば、使い切るのは私ではなく、「娘」であるべきですが、幼い頃から、物事の道理、物を大切にする心など、イやというほど伝え続けた結果、子ども達もそれを認識して暮らしていることを十分にわかっている私は、子ども達が成人した今は、「家庭は彼らにとっての平安の場所、母港である」という思いから、かなりの自由(好き勝手)を容認しているのです

 ただ、今回はあまりに洗顔フォームが(じつは、この洗顔フォームも娘のもの、なのですが)、いつまでも、いつまでも、チュープの側面にこびりついたクリームが使えるので、すっかり考えさせられてしました・・・

 確かに、娘は、チューブがぺったんこになるまで絞り出し、最後まできれいに使いきりました ですから、私は買い置きの新しいものを出しておきました。 娘は新しいチューブを使い始め、私はいつものように、古いチューブを捨てるはずだった・・・
 ところが 何となく、その日に限って、チューブを手に取り、ねじ状のふたそのものを外してみたのでした
 すると、そこには、想像もしていなかった量の、チューブを押してしぼり出すだけではキャップの外には出られなかったクリームが残っていたのでした。
 私は、あらまあと思い、それを使い始めた・・・

 以前、何かのアンケート結果を見たことがあります。
「あなたは、どんな人が『オバサン』だと思いますか?どういう行為が、『オバサン』を定義づける行為だと思いますか?」そんな質問だったと思います。
 その答えは・・・

  食品やおやつの袋、残った場合には、口をクルクルと巻いて、洗濯ばさみで止める人。
  シャンプーやコンディショナーのふたを開け、そこにお湯を入れて、最後の一滴まで使う人。
  チューブ状のものを、ふたを全部外したり、途中でチューブを切ったりして、最後までこそげて使う人。etc. etc.

 私はその結果を読んだ時、手を叩いて爆笑し、「確かに!確かに!」などと言った覚えがあります

 私は1月で50歳になりました 正真正銘の「オバサン」です ただ、常に前向きの私は、加齢に関してほとんど悪いイメージがありません。
 それは、一昨日より昨日、昨日より今日の私がステキになっている・・・という考え方、感覚があるからでしょうね
 ですから、老眼が進んでメガネなしでは小さな文字が読めなくなった時にも、「ああ、老眼鏡をかけないといけないなんて、ショックだわ・・・」と思うのではなく・・・
「今まで視力の良かった私には無縁だったメガネだけど、これからは、いろんなフレームを見つけて、老眼鏡を新しいオシャレのアイテムにしよ~っと」と思いましたし、「50歳」になった時も、「40歳代にしがみついてるみたいな49歳より、ぱきっと50歳になって、何か清々しいじゃな~い」と心底思いました

 でもね、そんな私が一番イヤなのは、「オバサン臭くなること」です
加齢によってオバサン、おばあさんになるのは当たり前ですが、「オバサン臭い」「年寄り臭い」というのは別の話、という気がしています。

 そして・・今回の洗顔フォームやコンディショナーのお話し、です
 私の行為は、まさに「典型的なオバサン」行為ですよね。私がふたをはずしたチューブの奥の奥に手を突っ込み、時にはのぞき、クリームをこそげ取っている・・・むー、確かに「オバサン」でしょうねえ

 でも・・・
私のお教室で、きれいな色の折り紙を、無造作に出し、ばらまいて、平気で置いて帰ってしまう子どもや、大きなスケッチブックに、グルグルグルっと殴り描きをしただけで、次のページに描き始めてしまう・・・というような子どもを見ていると、私はやっぱりものすごく悲しくなります
 そして、そういう子どものご家庭では、どんな言葉かけをし、自分の身のまわりの物を、大切にすることを教えているのか?と首をかしげてしまうのです

 そのもの一つができあがるまで、そのものひとつがその子の手に渡るまで、いったいどれほどの時間と、どれほどの人の手を借りてできあがってきたのか?そういうことを、親自身が考えたことがあるのだろうか?
 私達は、ほぼ100%のものを、お金を払って手に入れています。ですから、どんなものでも、生産者に触れることはないために、ついつい、物に対する思いが希薄になるのは当然でしょう。十分にそのことはわかります
 しかし それでも、なお、です

 「ものを大切にする」ということを、子どもに教えるのは「躾(しつけ)」の領域ではなく、親が、自分の身のまわりの物に対して、どれだけ深く意識を持っているか?どれだけ心を注いでいるか?ということだと思えてなりません

 ランチビュッフェで、食べきれないほどの食べ物をお皿に盛り、たーくさん残して平気で帰っていく家族・・・飽食の時代と言われる日本にいると、今この瞬間も飢えて死んでいく子ども達がいることなど、実際には想像できないでしょう どんなにNHKがそのことを訴える番組を制作し、世の中に訴えても、見なければ意味はありませんし、見たところで、その時限りのショックで忘れていってしまう・・・
 えんぴつ1本が手に入らず、ノートもなく、学びたいという意欲がありながら、学べない子ども達がいる、という世界の現実の中で、きれいな折り紙をくしゃくしゃに丸めて捨ててしまう子どもがいる・・・それを、うちの子は、後片づけが苦手です、などと、苦笑して済ませてしまえる親がいる・・・

 私は、日本古来の考え方、八百万の神(やおよろずのかみ)という考え方が大好きです ステキだと思われませんか?私達の身のまわりの物、すべてのものに魂が宿っている・・・私は本当だと思いますよ
 自慢するわけではありませんが、すっかり大人になった我が子達が、新しい靴を下ろし、古い靴を捨てる時に、そっと古い靴に手を合わせている姿を見るたびに、「三つ子の魂、百まで」を実感します

 さて・・・私は、やっぱり今夜も、明日の朝も、チューブのふたをあけて、最後の最後まで、洗顔クリームを使いきることにします

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こんな酷いことになっていたなんて・・・

2008年04月16日 | う゛う゛ー
 「信じられません。こんな・・・こんな酷いことになっていたなんて・・・」マイクを向けられたアメリカの若者が、声をつまらせました
 2,3日前、NHKのニュースで「全米原爆展」の話題が放送されていました。
第二次世界大戦が終結して60余年。人の人生の、半分以上にも渡る長い時間が流れたというのに、何とアメリカでは今まで、広島、長崎に投下された原子爆弾の実態について、公式には詳しく紹介されることはなかったのでした この驚くべき事実について知っている日本人も、じつは多くはないでしょう。
 確かに、終戦後半世紀以上の時間が経過し、日本では高度経済成長の時代を得て、すっかり平和な生活が定着し、おぞましい戦争があり、日本中が焦土と化して、あまたの命が失われていったという記憶がどんどんと薄れていっています。
 私のような昭和30年代生まれが幼かったころは、両親や祖父母など、身近な人達から生々しい「私の体験」として、戦争の話をよく聞きました しかし、実際に実体験として戦争を経験した世代がどんどんと少なくなっていく中、今では「戦争」は記憶の中にあるものではなく、教科書の中の世界、ほとんど受験では扱われない?!現代史の中の出来事となり、どんどん、今を生きる若い世代からは遠い「物語」になっています
 とは言え、そんな現状の中でも、広島と長崎に原爆が投下された、という事実を全く知らない、という人は少ないのではないでしょうか?

 ところが・・・実際にその原爆を生産し、広島と長崎に投下し、多くの一般市民を死に至らしめ、今なお、放射線の後遺症で苦しむ多くの人達を生み出したアメリカでは、「アメリカが、日本と戦争をした」ということさえ知らない人がたーくさんいます
 多くのアメリカ人にとっての第2次世界大戦は、あくまで、連合国として、ヨーロッパ戦線でナチス相手に戦った、という意識が強いようです
 このような「事実を知らない」という羞恥の現実は、じつは日本にも明らかに存在し・・・第2次世界大戦では、日本はアメリカと戦争をしていたんだ、という認識しかなく、中国や朝鮮半島をはじめとするアジアの多くの国々に派兵し、占領し、多くの罪もない一般市民を巻き添えにした日本軍については何も知らない、という日本人が多い、という事実とよく似ています

 これは、人間の心理の「やったこと、はたらいた悪事」は忘れ、「やられたこと、被害者になったこと」のみを覚えている、という、自分にとって都合の良い記憶だけを残そうとする、自衛本能?なのでしょうか・・・

 今回の「全米原爆展」では、アメリカ各地で多くの若い世代が原爆の被害等の実態を初めて知り、大きなショックを持って受け止められているようです
 アメリカで若い世代にインタビューをすると「戦争終結のためには、原爆の投下は必要だった」と核兵器使用の正当性を謳う人は多いものです。確かに、それも一つの正しい認識でしょう。
 しかし、「頭」でものを考えるのではなく、肌で、心で、真実を知り、「人として」事実を学び受け止めるチャンスが与えられると・・・人は、「頭で考えた結果の答え」は、時には情けないほど虚しい、ということを知るものです

 今から30年ほど前の話ですが・・・
私は大学時代、ライオンズクラブを通じて、夏休みや冬休みを利用して、日本に短期ホームステイでやってくるアメリカやカナダ、オーストラリアやニュージーランドの学生達の滞在中のお世話をするボランティアをしていました。
 当時、夏休み中に、アメリカやカナダから関西地区に派遣されてくる私と同世代の若者達は、必ず揃って広島に行き、平和記念公園、平和記念資料館を訪れました。
 行きの新幹線の中では、ワーワーキャーキャーと興奮気味で楽しそうですが、必ず、平和記念資料館を訪れた後は、ほぼ全員が無駄口をきかなくなり、顔面蒼白で、その後、昼食をかねて訪れる宮島では気もそぞろ・・・食事はほとんど喉を通らない、という状態に陥ります。
 中でも、アメリカ人の憔悴振りは、毎回、見ていても気の毒なほとでした しかし、当時、結構「アメリカかぶれ」をしていた私でも、この広島行きの日だけは、かなり日本人としてのアイデンティティーで高揚し、アメリカ人が違って見えた・・・そんな気がしたものでした。

 私は以前からブログで何回か触れていますが、マザーテレサが残した言葉に「愛の反対側にあるのは、無関心」というものがありますが、自ら心を動かし、その物事に関心を示す、示さない、ということ以前の問題として、知らない、知るチャンスがない、ということは、結果的に「人として」本当に大きな損失となることだと思います

 1977年の春、私が大学2年になる直前、「広島の平和記念資料館を訪問したアメリカ人」と同様の経験をしたことがあります。それは、全国高校生友好訪中団の秘書というお役をいただき、訪中した時のことでした。
私達メンバーは、3日間の南京滞在中、南京大虐殺の慰霊碑「雨花台」を訪れました。高校生達は献花台に備えるための花を持ち、小雨の中を歩いて行きました。歩きながら淡々と語られる中国人通訳の方のお話、私達のまわりを進むたくさんの中国人の訪問者達の視線・・・
 あれから、すでに30年以上の時が流れた今も、その時の通訳の方の声のトーン、まわりの人々の冷たい視線、いつまでも私達を目で追っていた人達の表情を、忘れることが出来ません。若かった私は、ひたすら雨に濡れて歩きながら、何度も何度も心の中で繰り返しつぶやいていました
「なんで私は、平然と毎日、暮らしているのだろう?なんで私は、こんなことがあったという事実を詳しく知ろうとせず、平気で暮らしていたのだろう?今の私にできることって何だろう?」

 今回のチベット問題でも、中国政府が発表する諸々の報道、特に死傷者数など、「数」に関してのレポートには、なかなかにわかには信じがたいものが多いように、南京大虐殺での被害者の数は、昔からよく問題にされます。この部分に言及してしまうと、論旨がぶれてしまうので、ここでは敢えて問題にしませんが、その数がどうあれ、かつてそこで起こった「事実は事実」であり、歴史を変えることはできないのです

 まずは「知る」ということ。
たまたま、今日は「戦争」というような大きな話題ですので、5,6歳のわが子達にはまだまだ無縁な話題ね、と思われてしまうでしょうが、私は話題に大きいも小さいもない、と思っています
 最近のご両親は、とかく頭でっかち(失礼!)の方が多く、行動をするよりも前に、頭の中で論理ばかりを展開して、机上の空論的な考えの中で、自ら先に答えを先に出してしまう場合が多いようです
 そして、また困ったことに、そういうタイプの方のほうが「自分達は、教育に対して意識が高い」という認識がおありです

 しかし、我が子に「知識」として物事を語り、教えるのではなく、子どもの「心を豊かにする、柔らかい心で物事を見る目を育てる」ほうが、どれほど意味のあることか・・・
 親が我が子に語り、伝えることで、子どもは、幼いながらもきっと「考え、感じ」ることでしょう
 私は、そういう子どもの心の動きこそ、その子をどんどんと豊かにすることだと考えています
 知識の習得は、子ども達は小学校入学以降、毎日毎日、いやというほど学校の中で繰り返していくのですから

 さまざまなことを、幼い頃には幼いなりに「知っている」ことは、とてもすばらしいことです。なぜなら、人は「知る」というチャンスを得て、初めて「考える」という作業が出来るから、なんですね
 小さい頃に、下手に教えてしまうと、正しい知識が身に付かない、とおっしゃる方もおいでになるでしょうね。しかし、知識などは年齢に応じて、積み重ねられれば良いのだと思います。それが良い証拠に、私達は子どもの頃から親に教えられたり見聞きして知っていた「偉人伝」。小さな頃には、その偉人の業績、功績の詳細を、それほど知っていたわけではないですよね。
 でも、それでもなお、彼らは偉い、ということを、子どもなりに理解してたものです

 子ども達が幼く、自力で知ることが難しい間は、当然、親がその多くの「知るチャンス」を作ってあげなければなりません
 いやいや・・・もしかしたら、まずは「親」こそが、知らないといけないことが多いのかもしれませんね

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見ているのは、わが子だけ?

2008年03月05日 | う゛う゛ー
 先日、私はメールで、教室の在室生、卒業生の方々に、4月20日に多摩川河川敷で開催される「パラカップ」のご案内をしました。世界中の恵まれない子ども達のために、チャリティーの目的で開かれるマラソン大会です
 マラソンそのものにご興味を持たれるかどうかは別問題として、私のご案内は期待通り、その大会の趣旨や大会の開催そのものに関心を持っていただけたようで、、私はとてもあたたかい気持ちになりました

 「人の痛みのわかる子に育って欲しい・・・」私は、いつかもこの言葉に関して、ブログの中で書いたかもしれませんね。
「人の痛みのわかる・・・」これは、多くのご両親がわが子に求める姿です そして同時に、私立小学校受験の折、わが子に望む事として、願書の中にも頻繁に書かれます。
 もちろん、私もわが子が幼い頃、同じような気持ちを持っていましたから、ご両親のお気持ちは、とてもよくわかります

 しかし
口で言うほど、「人の痛みがわかる」ということは、簡単なことではありません。
そして最近、とみに思うこと、それは・・・
 「自分が、わが事として、痛みを経験していない人は、決して他人の痛みなどわかりはしない」
 ということです・・・

 両親に常に守られ、傷つかないように、傷つけないようにと、大事に大事に育てられている恵まれた子ども達は、「自分はとても幸せな子どもである」という自覚さえありません
 幸せであること、親に守られ愛されることは、こういう子ども達にとっては至極当然のことなのです
 こういう子ども達に、どのようにして「人の痛み」をわからせることができるでしょうか?

 私も50歳を過ぎ、すっかり年寄り臭い言い方をしてしまいますが・・・
最近のお父様、お母様方は、ほとんどの方が、ご自分の子どもしか見えていません
 言葉ではいろいろとおっしゃるのですが、実際には、わが子しか見ていない・・・もっと的確な表現をすれば、ご自分の子どもしか見ようとしていない、と言えるでしょう
 わが子の好きな食材で
 わが子の好きな献立を考え
 わが子の好きな話題で
 わが子のための時間に親も没頭する・・・

 子どもへの虐待云々の言われる現代。
わが子を愛することは、とてもすばらしいことです けれど、こういう「わが子しか見ていない生活」の中では、いったい、いつ「他」を意識できると言うのでしょうか?
 親達が、唯一、他を意識する時、それは、「他と比べて、わが子はどうなのか?勝っているか?劣っているか?」という時だけ
 あくまでこの場合の「他」は、比較の対象物でしかありません。

 今、この瞬間も、満足な医療も受けられずに病気で死んでいく子ども達がいること・・・
 先進国では、飽食の時代と言われるこの時代に、まさに今、餓死をしていく子ども達がいるという現実・・・

 こんな悲惨な現実が、同じ地球上で起こっているということを、わが子を慈しみ育てる思いと同じステージで、常に意識していなければならない そうしなければ、決して「人の痛みのわかる子」を育てることなど出来ない、と私は思います。
 そして、ときどき、その悲惨な世界の現実を、幸せに育っているわが子にも、伝えなければいけない、と思います
 そうすれば、たとえ幼くとも、必ず子どもの柔らかい感性はその現実に反応し、子どもなりの「思い」を持つに違いないのです。

 幼い子ども達が、ほんのわずかでも、自分が幸せであること 自分が恵まれているということ を意識できたとすれば、それは、大きな大きな意味を持つことだと思いますよ。

 すべての時間をわが子のために使い、毎日、わが子の一挙手一投足を眺め、わが子だけを見て目を細める生活・・・
 これでは、あまりに親として薄っぺら。そんな気がしてなりません

 ほんのちょっと、「幸せではない子ども達」に、目と、心を向ける時間。
それが、引いては、わが子の「優しさ」を育てる時間につながっていく・・・私はそう思います

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不本意な「臭い」

2008年02月05日 | う゛う゛ー
 私は、人の観察が大好きです
これは、子どもの頃からの趣味とも言えるもので、電車の中、町の中、どこにいても「私のまわり」の人を観察してしまいます
 そして、ステキな人に出会っては、その人の「ステキさ」を学び、とりあえあずはそのステキさを真似ようとしました いやだなあと思う人に出会うと、なぜイヤだと感じてしまうのかを考え、同様の振る舞いをしないように、自分のも似た部分があれば、すぐに改めようとしました

 昨日、私は羽田から飛行機を利用し、大阪の実家への月一帰省をしました
 幸いにも「観察好き」の私を十分に満足させてくれる人が、昨日の飛行機とお隣さんでした
 以前にも、ブログの中で、「すぐに靴を脱いで足を組む、いばりんぼオジサン」のことを書いたことがありますが、昨日のお隣さんも、その靴下オヤジに負けす劣らずの困ったさんでした
 その困ったさんは、定刻ぎりぎりに入ってこられました。私の隣の席が空いていたので、「ああ、あの人が隣に座るんだな・・・」と思い、見るともなく、通路を進んでくる男性を眺めていました。
 
 これは余談ですが
東京―大阪便の朝夕の利用者は、ほとんどがビジネスマンです。そういう意味では、私にとっては20代から60代まで、「ビジネスマンの品評会」の感あり・・・です
 さて、その「通路を進んでくる男性」は、身なりもきちんとされた50代のビジネスマン。靴にも神経を遣っていることがよくわかりました(私は、あまり目立たない靴も、男性にとっての大切な身なりの一部だと思っています)。
 ところが・・・です。
その方が近づいてくるに従って、うっと思うような臭いも近づいていたのです。そして、お隣に座られたとたん、強烈なタバコ臭が私を包みました
 最近は、愛煙家の方にはお気の毒なほど、公の場所、さまざまな施設では禁煙化が進みました 
 そのため、喫煙のためには、敢えて設けられた所定の「喫煙所」を利用することになります。喫煙所は、ホームの端のほうだったり、パーテンションで囲まれたスペースだったり、ガラス張りの小部屋だったり・・・どんなに換気がされていても、面積のわりには人の数のほうが多いためか、外から見ると煙で白く見えるときもあります
 きっとこの方も、空港のゲート近くにある喫煙スペースの中で、搭乗ぎりぎりまで喫煙をされていたのでしょう。その間に、コートの生地がすっかりタバコの臭いを吸い込み・・・
 当然、このことに気づいたのは私だけではなく、通路を挟んだ向こうの側の席の人もうっ!という顔をなさいました
 それに、隣に座られて改めて気づいたのは、コートに染み付いたタバコの臭いだけではなく、その方にはかなりの口臭もあり・・・熱心にパソコンに向かわれている間の口呼吸とタバコの臭いで、私は伊丹空港に到着するまでの50分間、機内誌を読んでいる間も、コーヒーを飲んでいるときも、目を閉じてうたた寝をしているときも、ずっとそのお隣さんの「臭い」に悩まされたのでした

 でもね、当の本人は、まったくその「臭い」には気づいていないのだと思うのです
 離陸したとたん、さっとおしゃれな老眼鏡を取り出し、仕事をされていたお隣さんです。万事に「鈍感」な方だとは思えませんでしたし、装いからしても、「無頓着」な方だとも思えませんでしたから・・・

 私の夫。なかなかユニークな主人です。
その夫との婚約中、忘れられない思い出があります 
 二人で並んで電車に乗って話しているとき、突然、「まどかちゃん、口、臭いで」と言われました。
 私はその瞬間、ぎゃーーーーーー
 夫は(そのときは婚約者、だったわけですが)、そう言った後は、まるで何事もなかったように、話しを続けましたが、私はもう、何を話していたのかも思い出せなくなり、ひたすらフィアンセにそんな恥ずかしい注意を受けたことばかりが頭の中をぐるぐるとめぐりました
 話すためには、口を開けなければなりません。口を開けると、口臭がある、というのです・・・

 結婚後も、出かける支度を整え、さあとリビングに行った瞬間、夫は「むー、その服で行くのん?ものすごく太く見えるでー」とひと言。またまた、ぎゃーーーーーです。
 でも、のちのち、それらの辛い思い出が笑い話になったとき、やっぱり私は注意を受けたときにはショックだったのよ、と夫に話すと、夫は真顔で答えたものです。
 「一番身近な僕や言わないと、誰がそんなこと、教えてくれる?この人は口が臭いなあ・・・とか、わー、この人はもともと太いのに、こんな服きるとより太って見えるよなあ・・・とか。多くの他人が思うわいけでしょう?そんなの、あまりに君がかわいそうやん・・・なっ、せやから、僕がズバリと言うわけやん
 むー・・・なるほどねえ
確かにそうですね。服装に関しては、大いに自己満足もありますから、より一層太く見えようが見えまいが、その服を着たいよー!という感情もあるわけですが、口臭に関しては、よほど親しい人しか言えない、というのは確かです
 それに、私の会話の相手が、楽しいどころか、私の口臭のために、不快な思いをして会話をしていたとしたら・・・

 この3月には銀婚式を向かえる私達夫婦です 25年前にはショックを受けていた私も、今ではこういう単刀直入な夫のさまざまな忠告を、ありがたく、ありがたく受け止めています (それに、幸い、私の口臭の主な原因だった歯周病は、有能な歯科医の友人のおかげで、まったくなくなっています。ただ、より一層太って見える原因の「肥満」のほうは、まだまだ改善されずにいるのですが

 機内のお隣さん・・・
仕事で毎日空間をともにする同僚、先輩、後輩、身近なご家族・・・どなたか「こっそり」親切心で忠告をしてくれる人はおいでにならないのでしょうか。
 最近では、加齢臭とか、オジサン臭、などという悲しい言葉が横行しています。科学的、医学的に、年齢を重ねるに従って「プラスアルファ」の臭いが生まれてくるのかもしれません しかし、実際にそうであったとしても、やはり人が「一人では生きてはいけない」生き物である限り、人との関係は必ず生まれるものです そんな中で、同席する人が不愉快になるような「臭い」を発散させてしまうのは、きっとどんな人でも本意ではないでしょう。
 ましてや、それがそれなりに社会的に地位のある方であれば尚更の事・・・

 あなたは大丈夫ですか?
 あなたの伴侶は大丈夫でしょうか?
 あなたの両親は?

 私は今から、帰りの飛行機で、お隣になる方のことを想像し、少々気が重くなっています


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする