goo blog サービス終了のお知らせ 

まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

初心に返れば、また楽し!

2010年02月12日 | にこにこ
 結婚してそろそろ27年。当たり前ですが、私は毎日、主婦として、母として、ご飯の支度をしています
 息子や娘が大学生になってからは、子ども達も夫と同様、お友達と外食をして帰宅する・・・という機会も増え、私は「夕食は一人。適当なものを食べる」とか「デパ地下で好きなものを買ってきて食べる」ということも多くなりました。(子どもが幼い頃には憧れたこんなデパ地下夕食も、実際にやってみると、じつは、和洋中、どれも似たり寄ったりで、案外早くに飽きてくるものでした
 当然、こういう食的に怠惰な生活をしていると、昔のように、嬉々として家族の食事を作るためにキッチンに立つ・・・そんな機会は少なくなっていたのでした
 それに、せっかく家族が食卓を囲むことになった週末なども「揃ったからお鍋を囲む」とか「揃ったからワイワイとお好み焼き」とか。結果的に簡単調理になってしまい、またまたキッチンに立つ時間は短くなりました。
 ちょうどそんな時期に、息子の入院、手術がやってきたのでした

 塩分1日に6グラム・・・イメージ、湧きますか?
これが、当分の間、手術後も心不全の状態を抱えている息子に課せられた食生活の課題です
 塩は、人が生きていく上において、非常に大切なアイテムです。その一方で、摂取量が増えすぎると、高血圧を引き起こしたり、心臓に負担をかけたり・・・と、問題もあります。(どんなものでも「ほどほど」が大切、ということでは同様ですが)
 健康体の場合、私達はだいたい、一日に10グラムの塩分が適当なんですね。

 ではここで、普段、私達が口にしているさまざまな食べ物の塩分を考えてみましょう

 ・ あじの開き 中辛の塩鮭 ・・・ 1.2グラム
 ・ たらこ ひとはら       ・・・ 2.3グラム
 ・ かまぼこ 3切       ・・・ 1グラム
 ・ ロースハム薄切り1枚  ・・・ 0.4グラム
 ・ あらびきソーセージ1本 ・・・ 0.5グラム
 ・ スライスチーズ 1枚    ・・・ 0.5グラム
 ・ 梅干し 1個         ・・・ 2.5グラム 
 ・ たくあん 3枚        ・・・ 1グラム
 ・ カップヌードル       ・・・ 5グラム
 ・ 食パン 6枚切り 1枚  ・・・ 0.8グラム

 いかがですか?日頃、あまり気にしていない塩分も、こうして書きだしてみると「へえ・・・そうなんだあ・・・」と思えるでしょう?
 これに、調理の時にはプラスして、私達はお味噌汁や煮物等に調味料としても塩分を摂取し、時にはお醤油やソース、ドレッシングなど、食品にかけたりつけたりします。当然、それらにも塩分があります
 このように考えてみると、全く何も気にかけずに調理をしてる時には、たちまち、一日の健康体の適正摂取量10グラムは、思いのほか、すぐに越えてしまうものでしょう

 ・・・・ということで。
最近の私は、毎日の食事に関して「減塩の献立を考える」というひと手間が増えました。これが、正直、なかなか大変なことなんです
お醤油やお味噌は減塩のものを使うようにして、お塩も塩辛さはそのままで塩分半分という加工塩に切り替え、塩分の少ない食材を使った献立を考える・・・塩の含有量を考えると、ハムやベーコンやソーセージは怖くて使えませんし、お魚にふり塩をして焼き、お醤油をたらして食べる、という食べ方も× いやいや・・・なかなか頭を痛めています
 息子の退院後1週間ほどは、一日中、食生活のことを考えていた、と言っても過言ではありませんでした。
 減塩食であることを感じさせないで、おいしく食事をするためには、なるべく品数を増やし、味の変化を楽しめる という工夫も不可欠です そうなると、じつは調理に使うお鍋やフライパン、ボウルやざるに至るまで、今まで以上に一食のために使う調理器具も増えてきます。お食事が済めば・・・お皿やお鉢だけではなく、それらを洗い、片づける、という手間も増えるんですね
 ここ3,4年、いかに上手に手抜きをして、自分のために使う時間を作り出し、効率よく手早く調理をして、なおかつ「おいしいと評価される料理」を作るか、ということを考えていました
 そんなスピーディーな調理や後片づけに慣れている期間が長かったため、突然にやってきたこの手間も時間もかかる「膨大な作業」に忙殺された・・・正直、まいりました

 でもね。
ある時、ふっと思ったんです 私が初めてお台所に立った頃は??? 献立を考えることも・・・切ったり、剥いたりすることも・・・調理そのものも、後片づけも・・・そんなこと、みーんなすべてが楽しかったよなーって

 高校時代から、結婚するまでの数年間、夕食の支度は私の役目でした。父の会社の重要なポストについていた母は、毎日、父と一緒に出社し、父と一緒に帰宅をしました
 私は・・・というと、英会話学校で子どもに英語を教える仕事をしていたので、大学卒業後も、5時頃にはきちんと仕事を終えることができましたし、週のうち2回程度はもっと早い時間に帰宅もできました。
 そうなると、時間的に一番余裕のあった私が食事の支度を担当する・・・これが良い花嫁修業にもなりましたし、我が家では最も合理的だったのです

 母が作っていたお料理を、見よう見まねで真似た献立もあれば、本屋で買ってきたお料理本を見ながら作るお料理もあり・・・私は毎日、楽しい気分でスーパーに立ち寄り、鼻歌まじりでお台所に立ちました
 父や母に「おいしいわねえ」と言ってもらえるのが嬉しく、ある意味、伝来の秘薬を作る魔女のように、化学の実験をする科学者のように、お料理は私の能力が試され、評価されるというオマケ付きの「楽しみ」でした・・・

 減塩の献立を考え、それを手間暇かけて調理すること・・・それを、息子の大病の延長線上にやってきた「厄介なこと」と捉えてしまっている、情けない自分に気付いたのでした

 退院から3週間が過ぎ、息子は自分で上手く調整をしながら、大学生の生活に戻っています 今は、就職活動のためにエントリーシートを書いたり、スーツ姿で説明会に行ったり・・・という生活です。
 すでに大人になっている息子は、お薬も自分で管理し、服用も自分の部屋で済ませてしまいますから、つい2ヶ月半前に、あんなに大きな手術をしたということも、時には忘れてしまうこともあります
 けれど、たまにおしゃべりをしながら、うーっと伸びをした時にシャツの下からのぞく大きな傷を見ると、確かにたくさんの方々からのエールと祈りをいただき、命を助けていただいたことをあらためて実感します

 初心に返って、ハッピーな気分でお台所に立ちなさい
きっとこれは私への「天の声」だったのだと痛感しました。

 いつのまにか、豊かに食べられることも、健康であることも、家族のために食事を作られることも、すっかり当たり前のことなのだと思ってしまっていた私でした。
 そして食事や調理を筆頭に、「慣れ」からくる「惰性」で、どんな物事にも義務感だけで取り組むようになっているのではないか?という、私への「戒め」なのだと思いました

 ローカロリーの減塩食 考えることが習慣づけば、いろいろと食材への知識も広がります。
 そうそう、身体から余分な塩分を排出するためには、「カリウム」の多い食材を採ることも効果的なんですよ 
 ちなみに、カリウムの多いお野菜や食材は・・・タケノコ、里芋、ほうれん草、枝豆、春菊、アボカド、バナナ、干し柿、など
 きっと私達家族は、息子のおかけで、以前よりもずっと自然に、食生活から健康になっていけるのだろうな・・・と、ちょっとウキウキしています
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

優しい人になりたい!

2009年12月31日 | にこにこ
 誰かがケガをした・・・誰かが病気になった・・・そんなことを聞くと、すぐに「まあ、何て事でしょう お気の毒に・・・」と思いますね。そして、早く良くなられるようにと祈り、もっと近しい人であれば、「何かお役に立てることはないだろうか?」と思います。
 そして、実際に、お手伝いをする時もあるし、頻繁に時間の都合をつけて見舞うこともあります。
 でもね、私はそんな時いつも、こっそり「ああ、私の家族は健康で良かった・・・」そうも思ったものです・・・

 今回、息子が重い心臓疾患を患い、大変リスクの高い手術をすることになって、私は全く今までとは違う感覚?を味わいました
 現実をしっかりと受け止め、決してうろたえることなく、「今、すべきことは何か?」と冷静に考える・・・
 しかし、そういう「静」の思いと同時に、一方では、ただただ、何としても生きて欲しい、生かしてやるぞ!という「動」の思いがあり、多くの方々に「力をください」とお願いをしました
 そして、無事に手術が終わってから3週間が過ぎ、当時のことを思い出すと、「別の私」がいたように思えてなりません。

 思えば、入院から手術までの1ヶ月・・・あのひと月ほど「命」という言葉に敏感に反応し、「死」というものを身近に意識したこともなかったでしょう。
 年末に近づき、今年一年の報告やデータなどを報道する番組で「自殺者が○○人・・・」などと聞くと、極々真面目に、「ご自分でもういらないと思っている命ならば、どうぞ息子に譲ってください」と叫びたくなりました。

 テレビでは、医療に関するクイズ番組や報道番組、ドキュメンタリーが多いですねえ きっと視聴率も高いのでしょう。
 何にでも興味のある私ですから、今までもそういう番組は大好き、好んで見ていました。
 でもね、今では、なかなか以前のように「興味」という、ある意味での「志向」で見る気にはなれません

 残念ながら、息子はまだ入院中です
息子の病棟にもたくさんの方が入院されていて、クリスマスもお正月も病院で迎える・・・という方がおいでになるのです。
 こんなふうに、病気や病院が、自分に身近な現実となって、私は初めてそういう「現実」を知りました。
 ブラウン管の向こうの世界ではなく、まさに我がこととして・・・そして、思ったのです。
  私は、本当に今まで優しかったかな?
  私は、人の痛みを、心底理解していたかな?
  私は、自分の目の前のことしか見ていなかったのではないかな?

 東急東横線には、つり革やポールが黄色い色に塗り分けられた「優先席」があります。どんな私鉄にも、たぶんJRにも、そういう席があり、そこには「この付近では、携帯電話の電源を切ってください。」と書かれてありますね。携帯電話の電源を切るのは、心臓ペースメーカーを付けた人達のために!という配慮です。
 私は、敢えて優先席に座ることはありませんが、それでも、案外、平気でその付近でもメールをしていることがありました そんな時、私は「そんなに大勢、ペースメーカーを付けた人はいないよなあ・・・」という気持ち、とでも言うのでしょうか
 息子が手術で取り付けたのは、動脈の人工弁や人工動脈であって、心臓ペースメーカーではありません。

 けれど、息子もそんな一人になったように、若かろうが、健康そうに見えていようが、「社会には、本当にたくさんの身体や臓器に障害を持った方」がいるのですね・・・

 今年も、あと数時間で終わろうとしています。
私は来年からは、本当の意味で、すべての人に優しい心を向け、真の優しさを持って人に接することのできる「素敵な人」になろう!そう思っています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何を愛でましょうか?

2009年12月15日 | にこにこ
12月に入ると、町中がクリスマスイルミネーションでいっぱいになります 都心の名だたる施設や、大きなショッピングモールやでは、競って特色を出し、人を集めて購買意欲を高めることに余念がありません。
 今年は表参道のケヤキのイルミネーションも復活しましたね。こちらはなぜかLEDでのイルミネーションではなく、昔ながらの「黄色い光」です

 その一方で、温暖化が進んだここ数年は、都心では紅葉の時期が冬にずれ込み、12月に入っても、あちこちでは紅葉も見られます こうなると、秋の象徴だった「紅葉」が、冬の象徴とも言えるクリスマスイルミネーションの時期と重なる・・・こんなことも不思議ではなくなってしまいました

 黄色や赤に色づく木々は、本当に美しい と思うのですが、さすがにピカピカ、きらきらのクリスマスイルミネーションと真剣勝負で張り合ってしまうと・・・ジングルベルやクリスマスキャロルという聴覚からの刺激もあり、軍配は「クリスマスイルミネーション」のほうでしょうか もちろん、神宮外苑の銀杏並木のような、紅葉の別格本山的存在は例外かもしれませんが。
 
 でも、是非、一度ゆっくりと紅葉した木、一枚一枚と葉っぱを落としていく木々を眺めてみませんか?

 私は「愛でる」という言葉が大好きです。
愛でる、とは、辞書で引いてみると「物の美しさ・素晴らしさをほめ味わう。感嘆する。」とあります。つまり、愛でるは「見る」とは根本的に違う行為なのですね
「愛でる」とは、字の通り、愛情を持って見る、ということです。目を開けていたので、自然に目に入ってきた、見えた、という現象と「愛でる」とでは、その行為の動機が違うのです

 11月も終わること、私は薄暮の時間に、六本木のミッドタウンで「クリスマスイルミネーション」と「紅葉真っ盛りの木」を、同時に目にしました。ミッドタウンのお庭のイルミネーションは、午後5時に点灯されます
 4時半あたりからはショッピングやおやつの時間を楽しんだオバサン達が帰宅の時間を少し遅らせ、5時を過ぎると近隣のオフィスで仕事を終えた人々が、ちょっと眺めにお庭に集まりはじめます。
 きらびやかで賑やかなクリスマスイルミネーション・・・見ようとしなくてもいやでも目に入り、見えたとたんに「なんてきれいなんだろう」と心奪われます。
 特に、ミッドタウンのイルミネーションは、立体的な高さではなく、平面の広がりを強調する珍しいイルミネーションで、光の海と化したお庭に、思わず「わあ~、きれい!」と、一人でいても思わず声に出してしまうほどです。
 薄暮の時間でさえ、あんなに美しいのですから、完全に陽が沈み、あたりが真っ暗になったら、その美しさは浮き上がるように見え、きっと息をのむような美しさになるのだろうなあ、と思いました

 そんなことを考えながら、ふっと目を横に移すと、そこには紅葉真っ盛りの木が立っていました。周りを見回すと、誰もそちらの木に目を留めている人はいません
 でもね、その木の紅葉は、本当に本当に美しかったのですよ・・・クリスマスイルミネーションが豪華で華麗、と表現するならば、こちらの木は凛として優美だ、と言うのでしょうか

 私はこの時、あらためて思ったのです 
きっと、愛情を持って「心の目」で自分達の周りを見渡してみると、豪華で派手なものでなくとも、きっとこの紅葉の木のように、自分の心を動かすものがある!ということを・・・
 そして、それを「愛でる」ことによって、自分の心が洗われ、心動かされ、感動から「感じ考えるエッセンス」が与えられる・・・

 幼い頃から、親から、特に母親から「愛でる」習慣を植え付けてもらった子ども達は、きっときっと何事をも豊かに受け止める感性が育ち、豊かに心が育っていくことでしょう

 さあ、今日は心の目で、何を愛でましょうか・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子どもの意志と学びの真理

2009年10月27日 | にこにこ
私は、昨年からトライアスロンをはじめ、今ではすっかり「オバサンアスリート」気取りです とは言え、アスリートのつもりではあっても、なかなかコンスタントに練習のできない状況では、本物のアスリートにはほど遠いのが現状ですが・・・
 しかしながら、中学、高校、大学を通じて運動部の経験のなかった私が、ひょんなことから運動を始め、トライアスロンやランニングのレースに向けて練習をするようになったことで、気づけたことがたーくさんあります
 
 その一つは、これです
「『はじめ』『動きだし』は大変だけれど、一度動き出したら、どんどんと簡単に動くようになり、加速度がついていく」ということ。
 そして、これは「一度動き出し、加速度がついたものを止めるのは、なかなか難しい」ということをも意味しています。
 私は、これはスポーツだけに限ったものではない、と最近、痛感しているんですよね

 たとえば私の教室。
小学校受験準備を始めた当初の子ども達は、親に言われるがまま「お教室」と呼ばれる知らない場所に連れて行かれ、わけもわからず頭のトレーニング、時には意識の改革を始めます。
 もしかしたらそこは、マイペースで通える、慣れた幼稚園や保育園とは違い・・・
 厳しい先生がお小言を言う怖い場所かもしれないし
 わからなかったり、間違ったりしたら、みんなの前で名指しで叱られるところかもしれないし
 姿勢を良くしなさい、しっかりと声を出しない!と細々としたことを注意されるところかもしれません
 
 いやいや・・・目新しいことがいっぱいで、毎回行くことが楽しくて、ルンルン気分で通えるところかもしれませんね
 まあ、いずれにしても、やっぱり、最初は慣れない場所に戸惑ったり、慣れないお勉強に頭を痛めたり・・・と、子どもにとっては、それなりに負担に思える時間だったことでしょう
 しかし、大変だあ・・・と思いながらも、ママに手を引かれて通い続けていくうちに、辛かった時間が楽しくなってきたかもしれませんし、面倒だなあ、イヤだなあ、と思うことが、興味をそそられる価値ある時間になってきたかもしれません。 そして何よりも、「通い続ける」ことで、知らず知らずのうちに「大きな力」がついてくる それが、受験準備をしている子ども達の特徴なんですね

 さあ、私が何を言いたいか?に気付いてくださったかもしれません。
先ほど私が書いた「動きだしは大変だけども、一度動き出したら、どんどんと簡単に動くようになり、加速度もつき・・・」まさに、今私が書いた「通い続けていたら・・・」に通じる、と思われませんか?
 
 このようにして、子ども達の学習意欲が高まってくると、どんどんと子ども達は「知る楽しさ」「わかる喜び」「できる満足」を感じるようになってきます。
 そして、その子ども達の学ぶ意欲と学習のペース、この2つのバランスさえとれていれば、子ども達の「興味・意欲・探求心」は、どんどんと広がり、深まり、確実に力もついていくのです

 しかし・・・
こういう子ども自身の学びのサイクルを無視してしまったり、軽んじてしまったりしたらどうなるでしょうか?親の無理強い的なリードや、親からの一方的な押し付けや詰め込みをしてしまったら・・・・? 

 じつは、こういうことをしてしまうと、急に子どもの「伸び」は鈍化し、そのうちにだんだんとやる気がそげ落ち、子どものイキイキとした前向きな姿勢は失せてしまうのです
 そのうちに・・・ピタリと動きを止めてしまう・・・言ってみれば「ふりだしに戻る」という状態がやってくることも少なくありません
 もっと酷い場合には、「ふりだし、以前に戻る」つまり、学習以外のことにもやる気がなくなり、幼稚園への登園を嫌がったり、弟や妹をいじめるようになったり・・・家庭内での乱れが目立つようになります もちろん、線の細い子の場合は、チックの症状が見られるようになるのもこの頃から、です

 小学校受験の準備に限らず、私はご両親に、子どもの身のまわりのものすべてを、そういう「子どもを伸ばすチャンス」だと考えて欲しいなあ、と思っています。
 それが小学校受験の準備であれば、受験の準備は「親がさせるもの」ではなく、やり続けていくうちに、自然に「子ども自身がするもの」という意識を、是非とも持っていただきたい
 
 何度も言うように、こういうことは、受験準備だけに言えることではなく、子どもを育てている上では、すべてのことに通じるものです
 ヴァイオリンやピアノのお稽古、スイミング、バレエ、英語、絵画、etc.etc.・・・すべて、これが真理です
 「させられている」と子どもが感じているうちは、真の「伸び」というものはほとんど見られない、と言っても過言ではありません。
 
 何のための学習か?
多くの子ども達は、「親を喜ばせるための学習」「親を喜ばせるための練習」だと思っているもの、なんですよ

 残念ながら、世の中には、たくさんの「困ったさんママ」がいて・・・
どーんと構えることができず、ちょっとしたことで一喜一憂し、自分のイメージ通りに育児やお稽古事が進まないと・・・
 「もうやめましょう!」
 「そんなだったら、止めてしまいなさい!」
 「もう、ヴァイオリンなんて弾く必要ない!」
 「泳げなくてもいいから、スイミング、もう行かなくていい!」などと叫び、鬼の形相で勝手に興奮し、「やめてしまいなさい!」を連呼するママ・・・そういう「困ったさんママ」がそこら中に生息しています
 要するに、こういう「やめてしまいなさい!」と叫ぶ時のママの思考回路では、「自分が始めさせたのだから、いつでも止めさせられる」という思いなのでしょう。(そう叫んでいるくせに、本当は「じゃあ、止める!」と言われたら、もっと逆上するクセに・・・
 
 子どものお稽古は、犬の散歩とは違うのです。
犬のお散歩であれば、勝手にコースを短くしたり、コースを替えたり、時にはお休みをしてしまったり、止めたり・・・できますね。
 でも、子どものお稽古は、よほど経済的な理由がない限り、そんな親の一喜一憂が理由で、ころころ始めたり止めたりして良いものではない・・・なぜなら、お稽古をしている「主人公は子ども」だから・・・そうですよね。

 子ども達が、真剣な眼差しで向かい、自分の意志を持って聞いたり見たりし、自分の力で理解し、驚いたり、納得したりする時の顔は、本当に素敵ですよ そして、そんな時の子ども達は、輝くような姿勢で学ぶことを楽しんでいます
 学習とは、本来、こういうものであるべきです
いずれ、中高生になれば概ね、残念ながらイヤイヤ机に向かう時期はやってきます。そうであるならば、せめて幼い頃は、「学ぶことは楽しい」という思いを実感させてあげませんか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感性は家庭で育まれます!

2009年10月06日 | にこにこ
  芸術的感性を磨くために・・・ピアノ、ヴァイオリンのレッスンをする。
  創造性を豊かにするために・・・造形教室、絵画教室に通う。
  音感やリズム感を養い、体感の感覚を磨くために・・・リトミックのレッスンを受ける。
  国際感覚を身につけ、英語が堪能になるために・・・子どもの英会話教室で学習をする。
  体力をつけ、同時に抜きに出るスポーツで健康作りをするために・・・スイミング、体操教室に通う。 Etc.etc.

 熱心なご家庭に育つ子ども達は、毎日、幼い頃から忙しいですねえ。マネージャー的存在のお母様も八面六臂
 でも、確かにそれぞれの優秀なスペシャリストに我が子を託し、毎回すばらしいレッスンを受け、経験を積むことができる子ども達は幸せですが・・・でも、よくよく考えてみると、すべての教育は「外注」のようですが、お父様やお母様は、「何の担当」でいらっしゃいますか?

 お料理に例えれば、フレンチならば○○、イタリアンならば○○、中華ならば○○、お寿司は○○、うなぎなら○○、和食は○○・・・最近流行の「内食」の場合は、○○デパートの地下お総菜売り場・・・そうですね 行きつけのお店はおありになるでしょう。
 でも、お料理であれば、それが「卵かけご飯」であったとしても、家庭料理は確かにあるはず。それぞれのご家庭によって、お味噌汁や卵焼きの味が違うように、必ずその家庭「らしさ」が存在します

 ところが、子どもの教育となると、なぜか急に「家庭」の存在は貧弱になり、ここ10年は教育熱心なご家庭であればあるほど、その傾向は強くなっているように思います

 子ども達は、さまざまなお稽古に参加することで、技術やスキルを習得します 当然、豚の絵なのか馬の絵なのかわからないシュールな絵?!を描いてしまうお父様に教えてもらうよりも、美大を卒業した先生から教えてもらうほうが、子ども達の絵は上達するでしょう
「かなづち」のお父さんでは、クロールは教えられないし、メタボのお父さんとは走れないし、音痴のお母さんから歌を習うと音程がはずれるし、「ジス イズ アッ ペーン」でいっぱいいっぱいのお母さんでは、英語は教えられない・・・確かにそうです
 そりゃあ、それぞれの専門家にお願いして、しっかりと教えてもらうほうが、子どももいらない遠回りをすることなく、効率的に技術を磨けること間違いなし、です

 そう言えば・・・私にも、同じような苦い経験がありますよ。
私の父方の家系は、みな、水泳が非常に上手でした とは言っても、学校の水泳部だった、というのではなく、戦前の日本の「田舎での話し」ですから、父を含め叔父や叔母達は、全員が近所の「川」で毎日毎日泳いでいるうちに水泳が上達し、県大会に出場するほどの腕前になった、という人達でした
 私は、そんな叔父叔母が一緒に暮らす大家族の中で育ちましたので、夏ともなれば、全員が勇んで私に水泳を教えてくれます。シンクロナイズドスイミングで有名な井村コーチを輩出した、大阪府堺市の浜寺水練学校・・・私は、そこで水泳を習いたい!と幼い頃から思っていたのですが、家族は全員声を揃えて言うのです
 「まどかちゃん、なんでそんなもの、わざわざ学校に行って、他人さんから習わらんといかんのん!そんなことをせんでも、ちゃーんとおじさん(おばさん)が教えたる まかしとき
 
 ところが・・・です。
毎年、夏休みになって、浜寺水練学校の本拠地、大阪府営浜寺プールに「家族と一緒に」通っても、私はアップアップするだけで、一向に泳げるようにはなりません まさに、船頭多くして船山に上る状態、とでも言いましょうか・・・とうとう、私は小学校6年生になっても、息継ぎさえできない・・・カエルなんてとんでもない!おたまじゃくしにもなれないという泳ぎでした・・・
 ところが、中学受験を経て、母校である帝塚山学院という学校に入ったとたん、あれよあれよという間に、泳げるようになってしまいました

 一貫校である私の母校は、その当時、小学部では3年生から臨海学校があり、南紀白浜の海で4キロの遠泳があったのです。
 3年生でパスしなかった子ども達は、翌年の4年生で挑戦。それでもダメだった子は5年生に挑戦・・・というふうなシステムになっていて、毎年、その臨海学校には、学院の同窓会からたくさんの卒業生である水泳部員が「お世話係、お手伝い要員」として先生方と一緒に参加し、万全の体制で臨海学校が催されていたとのことでした
 中学1年生の臨海学校では、小学部から内部進学してきた子達は、ほぼ全員が4キロの泳力がありました
 その時の「かなづちの私」の恥ずかしかったこと・・・南紀勝浦で実施された中1の臨海学校。ずらりと整列した中で、小学部出身者は圧巻でした。泳力によって色分けされた水泳帽。彼女達は全員が「2キロ以上泳げる」という色

 おっと・・・話しが横に逸れてしまいましたね。
つまり、母校の体育科の先生方は、幼い子ども達に水泳を教えるのが、非常にお上手だったわけです。
 当時は、まだまだ地方都市である大阪には、スイミングスクールなどはない時代。前出の浜寺水練学校(浜水、ちなみに、夫はこのハマスイ出身です。腹立つわー・・・)くらいが水泳の専門教室で、それも屋外プールですから、夏休みにしか開校されません
 そんな状況のもと、私立小学校の体育科の先生方は、卒業生という助っ人もいて、非常にレベルの高い水泳指導をなさったのでしょう。

 そして私。何と、勝浦の臨海学校での2日目には、100メーターに合格。3日目には500メーターに合格。最終日の4日目には、2キロの遠泳に合格し、立派な「カエル」になりました
 まさに、餅は餅屋、というわけで・・・あれ以降、叔父や叔母はとっても「静かに」なったものです。

 ・・・とは言え、です。
これは、あくまで技術やスキルに関すること。さっき私が書いた、『すべての教育は「外注」のようですが、お父様やお母様は、「何の担当」でいらっしゃいますか?』の話し、をしましょう
 お料理の例え。
フレンチや中華・・・というレストランが「技術やスキル」だとすれば、ご家庭でのお料理は、「感性」の部分だと私は思っています
 
 確かに、専門家であるシェフが作られたお料理はおいしいですね お味のみならず、盛りつけも、食器もすばらしく、それらが一層味を引き立てます
 でもね、子どもが朝、眠い目をこすって起きてきた時、ママの笑顔と一緒に「はいどうぞ!」と出てくる卵かけご飯やフレンチトーストのほうが、ずっとご馳走なんですよ。本場のコックさんが作るカレーや麻婆豆腐以上に、ママ特製バーモントカレーや丸美屋の麻婆豆腐のほうが好き
 つまり・・・お父様やお母様は、スキル以外のもの、すべてを担当なさっているはず、なんです

 私は、10月1日の「衣替えの日」に、私のお教室の年長さん家庭宛てに、こんなメールを送信しました
 「・・・現在は、「感性を養う」と言うと、何となくイメージ的に「自然や芸術から特別なものを感じる」というふうに思われているようですが、本当の意味での感性とは「いろいろなことを感じる豊かさ」ということだと思います。特別なことを経験して、そこから何かを感じる・・・というのではなく、身のまわりのすべてのものから「感じる」ことだと思うのです。
 ただ、昔は、もっともっと世の中も、もちろん各ご家庭も、季節の行事などを大切にし、文化的な目や心が自然に養われていたのだと思うのですよ。だから、当然、子どもの心のセンサーも育ち、そういう日常の普通の生活から、「感じるセンサー」が敏感に保たれていたのでしょう。
「衣替え」なども、その中のひとつだったと思います。
私のような汗っかきは、5月の下旬、10月の上旬は冬用の制服を着て、毎日「修行僧か行者」のようでしたねえ・・・帰宅してもすぐは着替えられない・・・なぜなら、汗をかいているせいで、ベトリと制服が身体にくっついていて・・・脱げないのです。
でも、そういう不便さはさておき、やっぱり6月1日、10月1日を迎えることで、「ああ、季節が変わったんだなあ・・・」としみじみと感じたものです・・・」

 私は以前、「八百万の神様」に関してのブログをいくつか書きました。今回も、またそのことに触れますが、人の豊かさは「いかにさまざまなことを、敏感に感じられるか?そして、感じたことを、どれだけ自分の生き方に反映させることができるか?」ということだと考えています
 このような持論を持っている私は、「生きていくために役立つスキルや技術」と、「生きていくために役立つ感性」とは、どちらも大事な生きていく上での二本柱、だと思うのです
 
 前者をすべて「外注」するのであれば、せめて後者の「感性」は、責任を持って家庭生活の中で意識して豊かにしてあげなければなりません
 日常生活をなおざりにせず、一日一日を大切にし、身のまわりのすべてのことを愛おしみ大事にすること・・・そして、自然や生き物、それにまつわる行事や文化を身近に感じ、大切にしていくこと・・・
 それは、八百万の神様、という考え方に通じ、人としての感性の豊かさを育むことだと思っています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする