goo blog サービス終了のお知らせ 

まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

父と母の独立記念日

2011年06月10日 | にこにこ

 めずらしく、疲労困憊の私です どんな時にも、あまり弱音を吐かない私ですが、さすがに週1の帰省を続けていると、今回は「もうだめだー」と、秘かに愚痴を言いたい・・・と、ブログを書いています。はっはっは、ちっとも「秘か」ではないですね

 大阪の父、6月8日、大安吉日、無事に高齢者向けの介護付住宅に引っ越しをしました
 とんでもない余談ですが・・・いずれ老いていく私達、です。何らかのご参考にでもなればと思い、敢えて、このブログに書かせていただきます。

 父を然るべき施設へ!と考え、帰省のたびにあちこち足を運んで高齢者向けの介護施設を探し始めたのが1月。一口に「介護付施設」というような言い方をしますが、いろいろなタイプがあるんですよ。施設に入ったとたん、「みなで一緒に楽しく暮らしましょう!」というコンセプトからか、1週間のメニューや、毎日のアクティビティーなどがたくさん壁に貼り出されたようなところもあれば、全く普通のマンションと変わらない静かなロビーの施設など・・・これは、まさに入居者や、入居をさせようとする家族の「好み」で施設は選ぶんだなあ、と感じました。
 今回、私が父のために選んだところは、典型的な後者の施設でした

 いずれにしても・・・自分の親の生活を一変させる決断ですからね 慎重に・・・ただ、何事も「ああでもない・・・こうでもない・・・」と考え始めると、絶対に前には進みません どんなことでも最善最良の道は「見えない」ものなのですから、「決めて、進む」ことが肝心 そういう私の信念のもと、今回の道を選びました。
 
 しかしながら、今回の決断は老老介護の限界を感じ、断腸の思いで下した決断、ということではありません。決して詭弁ではなく「両親にとって、新しい世界へのステップアップを選択したい」という思いでした。
 ここで二人が「独立」した生活を始めることで、お互いに相手に依存することなく、負担を感じたり、感じられたりすることなく、それぞれにとってのより幸せな方向に進むための道を私が提示したい・・・それが今回の決断のはじまり、でした

 あくまでも、これは私個人の考え方ですが。
夫婦間で「世話をする、世話をされている」という、ある意味での「主従の状態」をこれ以上続けていくのは、父、母、どちらにとっても、決して精神的に有益ではない、と考えました。
 ひと時代までまでは、それは唯一無二の方法であった家族間での介護。でも、物理的な条件が揃えば、別の方法、違う選択肢もあるのだよ、ということを、発展的な思いによって、両親に提案したのです

 50年以上、大事に育て築いてきたお互いを思う気持ちとは裏腹に、やはりもうぎりぎりのところに来ていたのでしょうねえ・・・快諾、とは言えませんが、父も私の提案に拒否の姿勢はありませんでした。進んで「行きたい」と言わなかった父、「行って欲しい」と言わなかった母・・・これが、両親の最後のお互いへの愛情だったのだろうなあ・・・と私は思っています

 父も母も、一人暮らしは「初めて」の経験です 
何度にもわたる施設の方とのミーティングで、父の性格、現在に至るまでの環境等をお話し、お仕事とは言え、父に心を向け、あたたかく接し、父の新しい生活をより良いものにするために!と、さまざまな工夫と努力をしてくださるでしょうが、そういう条件はそろっていても、やはり、父の生活は激変することは否めません

 また、母にしても然り、です。
80歳になって、初めて一人の自由な時間を手にしたとしても、それを喜びと実感できるようになるまでには、大きな寂しさや不安、自分は十分にやってきただろうか?という自虐的な思いに打ち勝たなくてはならないでしょう。

 それでも尚、私は、冷静にさまざまなことを熟考した結果、この新しい生活を両親に提示し、実現してもらうに至りました
 これから少しの期間・・・最初はそれぞれに苦労はしても、やはり、この選択がきっと本当の意味で、両親があらためて「お互いを心底、愛しいと思える幸せな生活になる」と確信しています。
 結果的にではあるにせよ、世話をする、世話をされる、という主従のある関係は、新しい生活にはありません それぞれが、そういう縛りから解放される・・・この決断を、いつかは「良かった」と思ってくれる日がくることを、ひたすら願っています。

 そして・・・
両親は、新しい生活を初めて今日で二日目。
 すでに父は、「ここは、ジーサンとバーサンばっかりでかなわんわ!」「食事はおいしいか、ってか?そんなもん、お腹が空いて食べてるもん、おいしいもおいしないも、わからんな」などなど、ここ4,5年は聞いたことのない生来の性格からの「憎まれ口」を叩いています
 つい三日前までは、時々、あらぬ方向を向き、うつろな目で私の姿を追っていた父は・・・どこかに退散していったのでしょうか・・・
 母は、「夢も見ないで寝たわよ。朝まで目を覚ますことなく寝たのは久しぶり!」と話し、安堵の表情を見せています

 もしかしたら。
父は私が完璧に整えたスマートでオシャレな一室で・・・母は、ガランと広くなったリビングと、空っぽのお隣のベッドを見て・・・お父さん・・・お母さん・・・(お互い、そう呼び合っています)と、泣いて暮らすのではないか?という一つの予想は、幸い、見事に打ち破られました

 父は、現時点では新しい環境の中でアドレナリン全開 厳しい家でいろいろなことを禁止されて育った子が、寄宿舎生活の自室で、興味深々で好き勝手に振る舞っている、という状態。車椅子生活で、歩けないはずが、なぜか立ち上がっていたり、一人で歩いて移動していたり、と、今度は別の心配が出てきていますが、少なくとも、多くの「刺激」によって、停止していた思考が戻り、憎まれ口が叩けるような思考回路が回復したのでしょうねえ。

 二人の生活が少し安定するまで、私の500キロの往復は続き、気の休まる日が来るのはもう少し先でしょうが・・・やっぱり、「両親の独立」に、娘として、拍手喝采をしたい、心からそう思っています
 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある出来事・・・

2011年06月02日 | にこにこ

 パスモ、スイカ、イコカ・・・こうしてカタカナで書くとピンとこないかもれませんね いつもは PASMO、Suica、ICOCA と表記されていて、その文字に馴染んでいます
 これらは、私も日頃よく使う便利ツールです。これが出来てからは、キヨスクでの買い物も、もちろん切符も、小銭を出して買うことはなくなりました。
 このお陰で、もたもたバッグの中から小銭入れやお財布を取り出さずにすみ、時間の節約にもなっています
 ちょっとしたマイナスは、私立の小学校に通う小さな子ども達が、電車に乗ってお友達のお家に行くとき、頭を使って切符を買うチャンスがなくなってしまったことでしょうか。
 
 さて、この便利なパスモを、先日、私は持ってでるのを忘れてしまいました。
バッグ好きの私は、ついつい出かける前に気が変わり、バタバタと違うバッグに入れ替えることがあります。その日も、違うバッグに急遽取り替えたため、そんな失敗をしてしまったのでした バッグの中身は全部入れ替えたのに、外側のポケットに入れておいたパス入れを入れ忘れたのです。
 でも、実は何の問題もありません。きっぷを買えば良いだけのことなんですからね でも私は、パスモを忘れた不便さよりも、慌ただしくバッグを替えた自分、それによってパスモを忘れて出かけてしまった自分に、何となく腹を立てていたんですねえ・・・
 いくつもの用を済ませ、あれこれとお買い物をしたため、帰りは荷物がいっぱいになりました

 ターミナル駅での切符売り場。今では、ほとんど利用する人がなくなったズラリと並んだ自動券売機。こんなご時世ですから、そのうちの何台もが節電のために使用不可の電光表示がありました。
 そんな券売機の前で、手に持ったたくさんの荷物を置き、お財布を出す煩わしさ・・・またまた自分の失態が思い出され、情けない思いをしていたそんな時。少し離れたところから、大阪弁が聞こえてきました

  「あらへんでえ。石川町なんて、書いてへん。どこやねん。」
  「おとうちゃん、あんた、まちごて聞いたんちゃうん。あんたの耳、あてにならへんもん。」
  「何言うてんねん!東横線て言うてたがな。まちごてへん!」 
  「ほんなら、なんで石川町がないんよ。おかしいやんか。」
  「うるさいなあ・・・むー、こことちゃうんかなあ・・・」

 私は、その夫婦漫才のような大声の大阪弁での掛け合いが何ともおもしろく、思わず耳をダンボにして聞いてしまいました でも、明らかにお困りのご様子。とてもお気の毒に思い、是非お役に立ちたい、と思いました

 日常生活では、私が家族と大阪弁で暮らしていることをご存知の方も多いはず
 私はやっとこさっとこバッグからお財布を出して切符を買ったあと、その初老のご夫婦のところに近づきました。

  「何かお困りですか?私、お役に立てるかもしれません!」
と、大阪人らしい?!人懐っこい笑顔で話しかけると、私が大阪弁で話しかけたからでしょうか、すぐにお二人は反応されました

  「ほんまでっか。困ってますねん。今朝、神戸から○○○○言う大きな船で着きましてんけどな、ガイドさんに中華街の行き方聞いたら、石川町へ行けって教えてもろて・・・東横線言いはったさかい、ここに来ましてんけど、そんな駅、書いてへん。ほんま・・・ウソ教えたんかいなあ・・・」

 私は、石川町はJR根岸線の駅であること、誰かと石川町駅で待ち合わせをしているのでなければ、みなとみらい線(東横線の延長路線)の終点「元町中華街駅」で降りれば簡単に行けること、を伝えました
 もちろん、ちょこちょこと笑いのとれるような小ネタを入れて・・・です

  「やあ、助かりましたわー。奥さん、お忙しいとこ、ご親切になあ。ほんま、地獄に仏とはこのことですわ、なあ、おかあちゃん!」
  「ほんま、ほんま。ええ人にでおたなあ。奥さん、見るからに人がええ!って顔に書いたある。お友達、多そうなお顔やわ。好かれはる顔や!」
 これまた、小ネタ満載です

 私は、降りる方向を間違てしまうと、中華街にたどり着くのが困難になってしまう元町・中華街駅の改札の説明をするために、結局、そのご夫婦と一緒にホームまで歩き、次の電車が来て、お二人に無事に乗っていただけるまで、10分以上、いろいろとおしゃべりをすることになりました

 お二人は、実況放送のように、とても揺れた○○○○号という大型客船の話しをしてくださり、また、かわいいお孫さん達のお話もしてくださいました 
 私も、介護のために頻繁に大阪に帰省していることや、実家が高層マンションで、とても見晴らしが良い話もしました・・・
 奥様は、その間中、ずっと私の手を握り、介護が必要な父の話にはフンフンと頷き、背中を叩いて励ましてくださいました

 とうとう、ホームに電車が入ってきました。
  「なんか、奥さんと別れ難いですわ。ほんまに・・・」
  「おとうちゃん、そんなこと、口に出してしもたら、ほんまに悲しいなるやんか。私、我慢してたのに・・・」
 私も全く同じ気持ちでした

 自動券売機のところで、そのおもしろい大阪弁の会話を聞いてから、時間にすれば20分ほどだったでしょうか・・・
 でも、そこにお互いの「心」が感じられたから、そのわずか20分の時間は、1時間、2時間、いえいえ、決して大袈裟ではなく、一日以上の重みとあたたかさを感じるものでした

 ドアが閉まり、私たちは何度も頭を下げ、手を振り、別れました・・・
 電車が行ってしまったあと、私は一人、取り残されたような寂しい気持ちになりました
 そして大まじめに、次の電車に飛び乗り、あのご夫婦を追いかけようかと思いました。地元の人間として、短時間でご夫婦が中華街を楽しめるようにご一緒したい・・・そう思ったものです

 その後、自宅に戻っても、あの方達は無事に戻られただろうか?と気にかかり・・・そういえば、どちらに戻られるのを聞いていなかったことを思いだし、なぜそれを聞いて、詳しく帰り道の説明をしなかったのだろうかと悔やみました

 一期一会。
漢字検定の初級クラスの問題のようですね。でも、本当に、人との出会い、人とのふれあい、人との会話・・・それは、この上なく素敵なものだと、私はいつも実感しています
 パスモを持って出ていたら、私はあのご夫婦とは出会わず、わずかの時間だったとは言え、あのあたたかくて、心癒される会話はありませんでした。

 私は今日も、あのご夫妻の手を振る姿を、何度も思い出しています


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食事から見える人柄

2011年05月07日 | にこにこ
 出先で立ち寄ったお蕎麦屋さんでのことです
私は、大抵、注文をした後は、一人ではちょっと手持ちぶさたなので、いつも本を読むことにしています。すると、入り口の自動ドアが開き、若い女性が入ってきました。
 カジュアルな装いの女性でしたので、大学生かな?と思いました。それにしてはちょっと古風な装い、とでもいうのでしょうか・・・少なくとも今どきの若いお嬢さんというよりも、昭和の時代の「清楚な女子大生風」に見えました。今では、大学に近い町でも、なかなかそういう「いかにも学生」という服装の学生の姿を見ることは少なくなりましたねえ ですから、ちょっとそのお嬢さんは、かえって目を引きました

 そういうお嬢さんだったから、私は何となくその後も気にかかり、本から少し目を離しては、ちらちらとその女性を見ていました。すぐにお嬢さんが注文した「日替わり定食」が運ばれてきました。「ふーん、ダイエットとか言わないで、結構しっかり食べるんだあ・・・」などと思い、見ていたら・・・
 そのお嬢さん、割り箸を割ったら、一旦そのお箸を定食が乗ったトレイに置き、こんどはきちんと手を合わせて、小さな声で「いただきます」と少し頭を下げられました。
 厨房のほうに向かっての行為でもなく、運んできてくださった方のほうに対しての挨拶でもなく、それは明らかにご自分自身が食べる前の「いただきます!」でした
 私は自分のところに注文したお蕎麦が運ばれてきたのですが、「あ、どうもありがとうごさいます!」と言うのもそこそこに、そのお嬢さんの様子に見とれてしまいました

 そのお嬢さんの手を合わせての「いただきます」は、何と新鮮だったことでしょう!
その後、お嬢さんは見ていても気持ちよい食欲で、箸使いも美しく、きれいに定食を食べ終えました。
 そのお嬢さんが笑顔でお勘定を済ませ、明るい声と笑顔で「ごちそうさま!」の声を残し、お店を出ていかれた事は、みなさんも容易に想像が出来るでしょう?
 久しぶりに、気持ちの良い、すがすがしい思いがした、外食の時間でした

 最近では、長い髪を結ばす、片方の手で髪を押さえながら音をさせずにお蕎麦を食べる人、つつくような箸使いで、さも美味しくなさそうに食べる人、肘をついて、大声で話しに興じながら食べる人・・・・美しい女性の食べ方とは思えないような、悲しい女性が多くなりました
 そんな女性に出くわすたびに、(あー、このお嬢さんのお母様も、きっとこんな食事の仕方をするのだろうなあ・・・お嬢さんが自然にこういう食事の仕方をするようになったのは、食べ方にこだわらないご家庭で育ったからなのだろうなあ・・・)などと、心が凍る思いがします。
 私は、古今東西を問わず、食事は立派なその国の文化だと思っています そして、食べる時のマナーは、いろんな国々で違っても、やっぱり、その人の育ちや家庭環境を如実に表しているように思えてなりません。
 
 もう20年以上も昔の話ですが・・・私の息子は、幼稚園の年少に入る直前、あらためてきちんとしたお箸の持ち方の練習をさせました。息子が入園を決めた幼稚園では、お弁当にはスプーンやフォークを持たせてはいけない、という決まりがあったのです。
 これは大変な私の言い訳ですが、下に3歳違いの娘が生まれたために、お箸の持ち方や使い方には注意はしていたものの、やはり十分に目が行き届いていなかったのでしょうねえ。息子は当時、お箸の持ち方に変なくせがついていたのです
 三食の食事の間中、変な持ち方、変なつまみ方、変なはさみ方をした時には、そのつど注意をして、持ち直させました。そんな事を4、5日続けたら・・・朝気づくと、全身に真っ赤なじんましんです 息子はかゆがり、顔まで腫らせていました。
 驚いた私は息子を連れて皮膚科に駆け込むと、先生曰く。「これはストレス性のじんましんですねえ。検査をしても、食べ物にアレルギーはありませんし、お聞きしても、アレルゲンになるようなものは食べてはいないですし・・・お母さん、何かお子さんがストレスを感じるような出来事はありましたか?」
 私も夫も大笑い いえいえ、笑い事ではありませんね。箸の上げ下ろしにまで文句を言うお姑・・・などと昔から言われますが、まさにその頃、私は4歳の息子の箸の上げ下ろしにまで文句を言い続けた・・・その結果の大騒動でした

 そのじんましんのおかげ?!で、息子はお箸はきれいに使えるようになりました そして、長い間、タレントや芸人さんがテレビで食事をするシーンを見るたびに、「こいつ、美人だけど、お箸の持ち方がおかしいねえ。こういうヤツはダメだなあ」とか「この俳優、お箸の持ち方がきれいだねえ」などと、マナー教室の先生並みに批評をしていましたねえ。

 私は、お蕎麦屋さんのお嬢さんの「いただきます」を見て以来、またあらためて考えています。
 日本では、特に食生活は豊かになりました。地震以来、食生活でもいろいろな心配事がありますが、それでも、私達は「飢える」ということはありません。
 毎日、世界中で多くの人が飢えに苦しみ、幼い子どもが命を落としている現代でも、日本では人件費削減のためか、さまざまなお料理がお皿にたっぷりと盛り付けられたビュッフェスタイルのレストランがたくさんあります
 そんな国に暮らしているのですから、あらためて子どもの頃から、毎日、三食、お食事をいただける事への感謝の気持ちを持ち、豊かなその食事をきれいにいただく・・・そういうことにこだわりを持てるように、親として、子どもに教えていくことは大事なことだと思います

 小学校受験でも、「お弁当を食べる」「おやつを食べる」というテストを、考査の中にいれている学校もあります。今では、受験者数が多くなり、それに伴って、時間のかかるそういう考査をしなくなる傾向にありますが・・・それでも、学校はどうして、わざわざ子どもに「食べさせる考査」をするのだと思われますか?
 それは、やはり「食べる」ことにより、その子の育ち方、育てられ方が見えてしまうから、なのですね こういうことからも、食事は文化であり、食べることは「栄養を摂取する」「飢えないために」以上のものである、ということはおわかりになるでしょう。

 好き嫌いを作らない、ということだけではなく、子どもが幼い頃より、「食べ方」や「食べ物への思い」を意識させるよう、親が心がけていかなければならない・・・私はそう考えています

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スキルを学ぶ それだけでは残念です

2011年03月31日 | にこにこ

 私の長年の夢だった「クラブ・マナーズ」の活動・・・
幼児教室マナーズを、単なる「小学校受験準備のための教室」にするのではなく、私立小学校入学した後も、子どもを豊かに成長させ、その子どもをサポートするお父様やお母様に、より素敵なご両親として年を重ねていただく something special を提供したい
 お子様がマナーズに通い、受験準備をする時間はあくまで教室との縁の「プロローグ」であって、その後も長い長い素敵なお付き合いをしていきたい・・・
 ここ半年、やっと、その「クラブ・マナーズ」の活動が、少しずつ動いてきたように思っています

 昨日は、青山フラワーマーケットの「hana-kichi青山店」で、お花のレッスンをお願いしました 3月11日の地震があり、キャンセルも相次ぎましたが、今日、参加をしてくれた卒業生の子ども達は、春の花々の香りに包まれて、一生懸命「ブーケ作り」に熱中しました

 参加者は、あと1週間で入学式を迎える新1年生から、立派に成長した新中学1年生までの7名。ブーケ作りに使う20本のお花選びから、その子の個性がよく見てとれました
 小さなブリキのバケツに入った花々。そのまわりを、何度も何度も歩きながら、1本1本吟味して花を選ぶ子もいれば、あっさり20本を選んでしまう子もいる・・・

 新5年生の男の子は、ピンクや赤い花を選び、自分のバケツに入れていったあと、最後に黄色の花を1本選び、バケツに入れたとたん、感嘆の声をあげました。
 「わー この花の中に黄色の1本入れたら、ほら、すごくこの黄色の花が映えるよ すごいよ
 彼は、本当に興奮している様子でした。この時、まさに彼は自らの「気づき」によって、五感から震えるような感動を感じたようでした

 「ここに白い紙がありますね。この白い紙の長さくらいに、全部のお花の丈を切ってください
先生のそのお言葉を聞き、今度は子ども達は慣れない手つきで花バサミを使い始めました その切り方もいろいろ、なんですねえ・・・
  紙を手に持ち、最後の1本まで、紙の長さと比べながらじっくりと切っていく子。
  最初の2,3本だけ紙と合わせて切り、あとは適当に目測で切っていく子。
  紙を机の上に置き、その紙の上に4,5本の花を置いて、一度に切っていく子。
  なかなか上手く扱えない大きなはさみに閉口し、恨めしそうにママを眺める子。

いやいや・・・子どもとは、本当におもしろいです

 長さが揃った花々は、今度は子ども達の手の中で、徐々に束ねられていきます。
1度に5本を束ね、テープで巻き、また次に5本を束ねてテープで巻く・・・そして、最後にその4束を1つにまとめ、やっとブーケが出来上がります
 途中、花の色や花弁の形、葉っぱの形を見ながら好みの束にまとめ、すべてを一束にするときにも方向を変えたり、束の前後左右を入れ替えたりしながら、自分のイメージするブーケに仕上げます

 最初は1本1本の別々の花だったものが、すっかり一つのまとまりとなって、花々は調和し、一層美しさが映えます その手の中の「まとまり」を眺める子ども達の満足げな顔・・・難しい顔・・・難しい顔をした子は、また束の入れ替えを始めます。

 気に入った包装紙に包み、できあがったブーケを両手に持ったときの子ども達の満ちたりた顔・・・単なる笑顔というのではなく、そこには間違いなく「達成感、満足感」がありました。

 今日の会は「お花のレッスン」「お花のアレンジメントのクラス」でした
とは言え、単にブーケを作る方法、スキルを学ぶだけでは、あまりに残念です 技術やスキルは、本を見たり、インターネットで調べるだけで、きっと十分に学ぶことができるでしょうからね。
 けれど、花の手触り、香り、パチンと切った時の音、まとめていくときのワクワク感・・・これは、実際に経験することでしか味わうことのできないものです
 
 本当の学びとは、スキルを習得することではなく、五感から体で感じる感動であり、成し遂げたときの充足感、安心感、達成感である・・・私はそう考えています

 語学を学ぶことでも然り。言語は「手段」であって、言語学者のように、言葉そのものの研究をする以外は、決して手段以上のものではありません。どんなに「星がstar、花がflower」であると知っていても、何も意味をなしません。それは、自宅の電話番号が言えたり、幼稚園や保育園の名前が言えることと同じなのですから・・・

 先生はレッスンが終わったとき、こんなふうに話してくださいました。
 「今日、あなた達が作ったブーケを、明日も、あさっても、しっかりと見てくださいね。きっと、お花は違う表情になっていると思います 決して、今日あなたが作ったブーケと同じではないはずですよ。」
 そうですね そんな変化を愛情を持って眺める・・・そこに驚きや感動をより強く感じられるのは、自分自身で作ったからこそのことでしょう。
 
 「良い音楽を聴く」「名画を鑑賞する」その行為だけではなく、一人一人がもっと「深くを知り、感じ、考えること」に意味があるように思います。それは、スキルを身に着けるだけではなく、そこで感じ、考えてこそ意味があるように・・・
 
 明日、自分で花瓶にお水を足し、四方からブーケを眺めると、使いにくかった花バサミの手に残った感覚、花の種類によって違うパチンと切ったときの音、茎の手触りを思い出すでしょうね
 子ども達が楽しみながらも、苦労して作ったブーケは、明日はどんな表情をするのでしょう


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マイナスをプラスに転じる発想

2010年12月15日 | にこにこ
 先日、キッチンで家事をしながら見るともなくNHKのニュースをつけていると「左手だけで弾くピアノの曲」というトピックが流れました
 急に興味が湧き、手を拭きつつリビングに戻ると、確かに右手は膝の上に置かれたまま、左手だけで演奏している映像が映し出されています。けれど、巧みなペダルワークもあり、奏でられる音楽は、それはそれは美しく、そして力強く、何と言うのでしょうか・・・とても豊かな音色なんです 感動でした

 昔むかし、ピアノの前に座り、鬼のような(失礼!)ピアノの先生の顔を思い浮かべ、泣きそうになりながら、なかなか上手く弾けない「左手」の練習をした・・・そんな記憶が甦りました あの時に練習していた「左手のメロディー」は、あくまでも伴奏的メロディーであり、それを聴くだけでは妙にマヌケな曲に思えたものです。
 ところが、その映像の「左手の曲」は、それだけで人を圧倒する魅力を持った、迫力のある、感動的なメロディーでした

 そのニュースでは、音楽大学でピアノを専攻しながらも、突然の病で右手の自由を奪われたピアニストが、「左手だけの楽曲」に出会い、再び音楽の道、演奏家としての道を歩み始め、ドイツを始めとするヨーロッパの国々から、左手のみで演奏する楽曲を探し出し、演奏する活動を続けている・・・ということを紹介していました
ニュースの始めの部分を見落とした私は、あとからインターネットによって、そのピアニストが「智内威雄(ちない たけお)氏」であることを知ります。

「左手だけで弾く曲」その演奏を聴くことがなければ、何とも不思議なもの、ですね。その言葉だけを聞けば、ハノンのような、指の動きをよくするための、左手専用の練習曲なのかな?と思ってしまいます。
しかし、それらは何と、バッハ、ラヴェル、というような、そうそうたる音楽家が作曲した立派な曲であり、練習のための「サブの曲」ではありません。
 では、いったいなぜそんな曲がたくさん出来上がったのか?
その理由を聞いて、私は本当に驚いてしまいました

 ヨーロッパでは、19世紀、20世紀と、大きな戦争が2度もあり、人々は戦場に駆り出され、豊かな伝統ある文化を持った国々は焦土と化しました そこでは、多くの音楽家達の命も奪われ、そしてまた、多くの演奏家が大怪我を負って帰還。そんな演奏家、ピアニストのために、作曲家は敢えて「片手のための曲」を作曲したのだそうです。
その驚くべき完成度の高い「左手だけで弾くピアノ曲」は、皮肉にもそんな社会的な、悲惨な情勢から誕生した産物だったのでした。
 しかし、世の中が平和になるに従い、それらの曲の必要性も低くなり・・・そして、いつしか演奏されなくなっていって、楽曲も埋もれていく・・・それを惜しんだ「左手のピアニスト」が立ち上がり、世界中から、左手のための楽曲を集めている・・・という話題だったのでした
 全く初めて耳にするその話題に、私は非常に心動かされました。智内さんが演奏するその「左手の曲」は、その日一日、私の頭の中で響きました

 それにしても・・・
私はそのニュースの内容にも驚かされ、そのあと、いろいろとインターネットで調べてもみて、非常に感銘を受けたのですが、私はそのニュースから、全く違う次元でも、考えさせられることが多かったように思います。

「マイナスをプラスに転じる」これはよく言われることです。「災い転じて福と成す」これも同じ、でしょうか。
身に降りかかった災いを嘆き、「失ったもの、マイナス」を嘆く・・・それは当然のことでしょう あの日に見たニュースで言えば、将来を期待されるピアノ科の学生だった智内さんが、ある日突然に病気の宣告を受け、動きにくくなった右手、痺れる右手は、もう二度と自由には動かない、と聞かされた時のショックは・・・私には想像もできません。
しかし、リハビリをしている時、たまたま出会った「左手の楽曲」で新たな道を見つけ、失った右手の自由、その「マイナス」をリセットし、右手が動かないという自分を「100」として考え、新たに歩み出す・・・
マイナスを背負った事実、その自分を「満点の状態」として考えれば、その時点で、すでにマイナスは現実からは消えていく・・・そこが「ふりだし」であり、そこが「スタート」と捉える・・・そう思えば、きっと、その時から人生観もかわっていくのでしょう もちろん、そのために、とてつもなく大きなパワー、エネルギーが必要だったことは忘れてはならないことでしょうが。

 そんなことをしみじみと考えていると、はるか昔ですが、こんなことがあったことを思い出しました
私が大学生の頃、ボランティアのクラブで活動をしている時、アメリカの車椅子バスケットボールの選手達のお世話をしたことがありました
 その日、私は彼女達のショッピングの手伝いをしたのですが、一日、彼女達と行動を共にしているとき、そのチームのエース選手が話してくれた言葉が印象的に残っています
 「もし私が事故に遭わず、今でも健常者だったとしたら、きっと平凡な生活をしていただろうなあ、って、いつも思うのよ こうして日本に来ることもなく、あなたに会うこともなかった。平凡がいけないことだなって思わないけれど、でも、今の私みたいに、こんなにイキイキと、張り合いを持って生きていなかったかもしれない・・・いつも、そんなことを思うのよ・・・」
 当時も、私は彼女の言葉に、深く深く考えさせられたことを、今でもよく覚えています

 彼女が不慮の大きな事故に遭い、足を失ったことは、それはれは大変不幸なことでした 彼女は絶望し、車椅子バスケットに出会うまでは、毎日、ひたすら泣き暮らした・・・と言います。両足で歩けていた頃の自分を思い出しては、頭を掻きむしり、気が狂いそうになった・・・と。
 けれど、車椅子バスケットに出会い、彼女の人生はそこでリセットされ、新しいステージが始まった・・・そして、私に語ってくれた「こんなイキイキと張り合いを持って生きていける毎日」がやってきたのでした。

 自分の身のまわりに起こる様々な「マイナス」 そのマイナスの値は、智内さんや車椅子バスケットのアメリカ人女性ほど、とてつもなく大きな値ではなくとも、人はみな、きっとその「マイナス」を嘆き、「マイナス」に視点を置き、なかなかそこから抜け出せないものだと思います
 けれど・・・
私は今回の「左手の楽曲」のニュースを見て・・・そしてまた、あらためて、彼女のことを思い出し・・・考えさせられ・・・そして、やっぱり尊い、強いエネルギーを感じさせてもらったのでした
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする