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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

許してみませんか?

2012年12月29日 | う゛う゛ー
 今年もあと2日間。年をとったせいでしょうか・・・最近は、あっという間に1年が過ぎていく気がします まあ、古今東西、老若男女、時間だけはきちんと平等に与えられているものですから、「ああ、今年、あなたは残念でしたねえ。ご主人様のちょうど半分しか、時間は与えられなかったですね・・・」なんてことはないわけで

 その、あっという間に過ぎたと感じた2012年。
私は、さまざまな場面で「何と人々は小さなことで腹を立て、人を許せない生き物なのか・・・」と実感した年でした

 昨年、私達日本人は大きな不幸を経験し、それ以来、日本人は総じて「優しくなった」と言われています。
 確かに、豊かな生活に慣れ、一人ひとりが勝手なことを言い、勝手な方向を向いていた時代が続いた末、やってきた世界的な不況 誰もが悲嘆にくれ、殺伐とした心で過ごしていたとき、あの震災に見舞われました

 正しい表現ではないと思いますが・・・そんなとてつもなく大きな代償を払って、私達日本人は、あらためて「自分以外の人のことに目を向け、その人のことを考える」という行為を思い出しました。
 若者達のボランティアやチャリティーに対する興味や活動などは、その最たるものでしょう。「自分に何ができるか?」「こんな自分でも、人の役に立てる」というような言葉が、さまざまなマスコミ報道の中でもたくさん聞かれました。

 でもね。
電車に乗ってみると・・・混雑した電車の中、お隣の人の荷物が自分の体にあたることを、露骨に顔をしかめて迷惑そうにする人 自分の降りないターミナル駅で、降りていく人達に押され、舌打ちする人・・・居眠りする人が寄りかかってくると、ぎゅーっと肘で押し、怖い顔で睨む人・・・

 確かに、自分がそのシチュエーションの当人だとしたら、決して愉快なこと、ハッピーなことではありません。不愉快極まりない、と感じることも理解できます。
 けれど、電車に乗っている時間は、きっと長くても30分程度。一日24時間ある中の、ほんの30分です。
 「我慢をすればいいのに・・・」と言いたいのではなく、何とか「その相手を、許せないものかなあ・・・」と思うのです
 
 荷物が体にあったたら・・・
 「私も、もしかしたら、こうして自分の持っている荷物やバッグで、人を不愉快にさせているのかもしれないなあ・・・」と思えば、その人の無神経(実際には、とても気にされているのかもしれませんし)さを許せるのではないでしょうか?
 
 降りていく人達に押されたら・・・
 「きっと私は邪魔になってるんだな、失礼、失礼」と思えば、腹を立てるより、むしろ詫びたい気持ちにもなり、やむを得ず「押して」降りていく人を許せるように思います。

 ぐらぐらと体を揺らし、居眠りしている人に寄りかかられたら・・・
 「この人は疲れてるんだなあ・・・お仕事、大変なんだなあ。仕事での疲労ではないとしても、こんなに電車の中で爆睡するんだから、よほど睡眠不足なんだろうな。」と思えば、ふっと気持ちは和み、優しい気持ちで少しは許せるのでは・・・

 多くの親子を見ていると、「人に対して、優しく広い心を持った親の子どもは、やはり優しい子どもに育っている」と思います
 いつも物事に対して攻撃的で、文句ばかり言っている親の子どもは、決して穏やかな温厚な子どもには育っていないものなんですね

 「許す」というのは、「受け入れる」ということだとも思います。
自分の発想を「拒絶」や「拒否」、「否定」から、「容認」や「許可」、「甘受」に変えるだけで、とても気持ちが穏やかになるものですよ
 自分の気持ちの持ち方を替えれば、「許す」ことはそれほど大変なことではありません。そして、許せるようになったとたん、心が軽くなり、顔つきまで柔和になるものです
 腹を立ててる時、ぶつぶつと文句を言っている時に、一度、ご自分の顔をご覧になってみてください。それはそれは、醜い顔ですから・・・

 こんなふうに「偉そうに」言っている私ですが・・・いつも「許せる人」であれるよう、修行の毎日です

 来年も、日々修行の思いで、毎日を大事にしていきたいと思います


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パパ、しっかりして~!

2012年12月18日 | プンプン
 今朝、ニュースを見ていると「しつけアプリ」というものが出てきました。
詳しいシステムはわかりませんが、何らかの方法で、お母様のスマホに、「タイミングよく、鬼から電話がかかってくる」というもの、です

 たとえば・・・「お風呂に入らない」とか「歯磨きをしない」などと言ってグズグズと文句を言い、自分のmust をなんとか回避しようとしている子どもがいたとします。すると、その子のそばに置いてあったママのスマホが鳴ります
 ママが電話に出ると、鬼が話すのです。
  「コラ~ ママの言うことを聞いていない子はいないかあ

 いやいや・・・私は感心してしまいました。
こういう「おどし」に大賛成か?と問われれば、残念ながら「NO」ですが でも、こういうアプリを作ろうと思いつき、そういうシステムを考え、しっかりと企業として利益を生んでいる・・・すごいですねえ。アッパレです

 ニュースの中の映像ではありますが、まあ、おかしいくらい、グズグズ言っていた3歳前と思しき女の子が、電話が鳴ったとたん、飛び上がって驚き、恐れおののいて大泣きし、「ママのいうごろぎぐ~(いうころ 聞く)・・・」となります めでたし、めでたし、ですね、ママとすれば
 何度も同じことを言って怒鳴らなくてもいいわけですから、ご自分の精神衛生面でも救いです。何も、ママ達だって四六時中、ぐじぐじと文句を言っていたいわけではないのですものねえ。

 まあ、幼稚園の年中児以降になれば、「鬼から電話」という何ともコメディーチックなことは、非現実的だと何となく気づいてくるのでしょうが、2、3歳児には効果てきめんのようでした

 ただね・・・
そのニュースの中でも、何とも言えず「不甲斐なく映っていたのがパパ」です
それに、そのニュースのナレーションでは、はっきりと「毅然と叱れなくなったパパ」とか「父権が失墜している」とか言われているのです。

 パパ達。がんばってくださいよ
鬼に脅させて我が子に躾をするようでは、パパの沽券にかかわりませんか?

 「パパなんて、ゴロニャ~ンって猫なで声を出したらイチコロよ!」なんて、ティーンエイジャーになった娘に言われたいですか?
 「オヤジなんて、屁でもないよ。俺に怒れるわけないしさ。」
なんて、同じくらいの身長になった息子に言わせておいて良いのでしょうか。
 
 子どもの小さな頃に「しっかりと毅然としたパパの姿を見せて」おかなければ、成長してから急に「父親風を吹かせて登場」しても、何の権威も感じられないでしょう

 怒鳴っても、時にはお尻をピシッとぶつことくらいはあっても、父には家長としての態度は必要です 三つ子の魂、百まで。三つでパパを「パパはちょろい」と思われてしまってはいけません


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豊かな子育て、にかえる

2012年12月05日 | う゛う゛ー
 ここ5、6年、子育てに自信を失って右往左往する・・・というワーキングマザーが増えているように思います 私は、苦笑をしているわけでも、嘲笑をしているわけでもないのです。
 私はひたずら、そういうママ達をお気の毒だと思っているます。今すぐにでもお目にかかって、「大丈夫 あなたは、頑張っていますよ。今の子育てで大丈夫!あなたは素敵なママですよ」と、握手をし、ハグをし、励ましてあげたい

 ここで、仕事に関して考えてみましょう。
仕事の場合は、概ね、努力は報われます。仕事の大小に関わらず、計画的に仕事をし、そのパフォーマンスが自分の満足のいくものであれば、成果に結びつきますね
 多少、職場の人間関係等、仕事の成果に影響を及ぼすことはあっても、基本的には、自分の努力、自分の力量によって仕事は完成されていきます。
 ワーキングマザー達は、そういうご自分の確固たる経験が「自分のスタンダード」になっているのです。ですから、知らず知らずのうちに、家事であっても、育児であっても、その感覚を引きずってしまう・・・

 でもね、子どもは「生き物」です。
血を分けた愛する我が子であっても、生まれたその瞬間から、子どもは「その子の道」を歩んでいます。そうである限り、たとえ幼くても、親の「思い通りにはいかない存在」なんですよー、残念ながら
 もっと言えば、「親の子育ての努力は、即効性を持って報われるものではない」という認識が必要なんです

 子育てでの努力は、必要不可欠なものです。なぜなら、この世に産み落とした限り、親は我が子を立派な社会人になる卵として、一生懸命に育てる責任があります。じつは、この認識のない親はたくさんいます。「この子は私の子」という認識しかない親、です (まっ、このことに関しては、また別の機会にお話をしましょう。)

 話を元に戻しましょう。
仕事をするように、子育てはできません。仕事のときのように、子育てはすぐに効果は出ないもの、なのです。なぜなら、相手は自分とは違い生き物であり、経験のない、超未熟な存在なのですから

 でもね、仕事でそれなりの成功、成果を治めてきた(きている)ママ達の場合、たくさんのアンテナも持っていますからね。たとえば・・・
  Mちゃんが教えてくれた塾は、東大脳を育てるってことよ。1年生では遅いんだって。
  Aちゃんは2歳から○○っている英語教材を使っていたから、お嬢ちゃんはすでにネイティブみたいな発音なんだって。
  毎日、英語のCDを流していると、すごく効果的なんだって。
  ○○先生の教室は、かなりすごいらしい。すでに定員だから、ウェイティングリストにお願いした。
  Etc. etc.

きっと、すべてウソではなく、本当のことでしょうね。でもね、それらはあくまでも「情報」であって、子育ての切り札ではないはず、です。
 ところが、知らず知らずのうちに「育児も私のパフォーマンスのひとつ。ヘマをしちゃいけない。最高の情報を集め、最高のものを施せば、我が子は最高になる」という自己暗示をかけてしまい、それに雁字搦めになって、思い通りにならないと腹を立て・・・
 ここから先は2つのタイプに分かれます。ひとつは、思うような成果がでないと、子どもにあたってしまうタイプ。要するに、子どもに言葉の暴力で対応してしまう母親。そして、もうひとつが最も多い「子育てに不安を感じる。自分の子育てが正しいのかどうか、常に悩む」という母親、です。

 子育てでは、最高のものと言われる「100」のものを与えたとしても、たった「10」しか実らないこともあるのです じゃあ、残りの「90」は無駄だったか?と問われれば、1年後に「10」、数年後に「10」の芽が出てくるかもしれません。
 じゃあ、その残りの「70」は意味がなかったか?いいえ、そうではありません ママがもし、成果ばかりを求めるのではなく、深い深い愛情を持って、「100」のものを与えたとしたら、その「100」を与えたママの愛情は、決して無駄ではなく、とうとう母親の愛情として、子どもに届いているのです 母親の愛情ほど、尊いものはないのですよ。子どもはママの愛情を受けて、それを栄養にして、心身ともに成長していっているのですから・・・

 正しい子育て?そんなものは、箇条書きにできるものではありません。それに、そもそも「正しい子育て」とは、何でしょうか?
体罰はいけない、と言われて久しいですが、けれど、時には教育的見地からピシッとお尻をぶって教えないといけないこともあるはず、です。大声で叱ることは下品かもしれませんが、それが電車の中でも、間違ったことをする我が子に怒鳴る必要もあるでしょう。となれば、「正しい」と定義できる子育てなど、そもそも存在はしないはず、です。

 愛情を注いで育てること、これしかありません。これは正しい?間違ってる?などと、いつも不安になっているようでは、愛情を注ぐことさえできないでしょう 愛情を注ぐ・・・これは、3歳の子どもに対しても、10歳の子どもに対しても、15歳の子どもに対しても、同じです

 我が子に様々な「成果(ときには、成長、という言葉に置き換えられるかもしれません)」を求めて、無意識のうちに「give & takeの子育て」をしてしまっている自分に気づき、まずは、自分自身を救ってあげましょう。

 そして、ゆったりとした気分で、子どもに相対してみませんか?
自分が与えたものの成果を求めていることは、時には親の「エゴ」でもあるのです。

 見返りを求めず、子どもとの時間を、心底楽しみ・・・小さな発見の喜び、小さな変化に拍手する・・・そんな本当の意味での「豊かな子育て」に戻ってみませんか


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席を譲る、席を譲られる

2012年11月25日 | にこにこ
 「席を譲られてしまったよー 初めてのことでねえ、ショックだったあ。いやいや、結構ですと言って固辞したんだけどねえ
 私が馴染みのお店に入っていくと、待ってましたとばかりに話してくださいました。いつもとても親しくしているお店のご主人で、確か今年74歳になられたのだと思います。ハンサムでダンディー、年齢を超越したステキな方です

 そう言えば、私の叔父も、半年ほど前に同じようなことを言い、憤慨していたことを思い出しました。
その叔父もお店のご主人と同じ年。子どもがいないこと、年齢を感じさせない若さがあることも同じで、よく似たタイプです。
 子どもがいると、いやでも我が子の成長とともに自分が年取っていくのを感じます。私もあと数年のうちに「おばあちゃま」と呼ばれるようになり、「ああ、私もそんな年になったのだなあ・・・」と感慨を持って孫を抱っこするのでしょう
 そういう意味では、私の叔父もこのご主人も、日頃から年齢を実感することのない生活をされていた、という伏線はあったのだと思いますが、あまりのよく似た反応に、それを聞いた私のほうが苦笑でした

 席を譲る・・・なかなか勇気のいるものです
私の生徒達は、「電車やバスの中では静かにする」「座りたい!などと言ってダダをこねない」「動いている間は、歩き回ったりしない」「お年寄りにはお席を譲る」etc. などと公共の乗り物の中での「お約束」をニコニコと話してくれます。
 確かに、比較的子どもの場合は、あまりいろいろなことを考えず、「どうぞ」と席を立ち、譲ることができます。(とは言え、「すごくドキドキしたよ」とも話してくれます)
 しかし、大人はいろいろ考えますよねえ・・・「結構です!と断られたらどうしよう・・・」「まわりの人は見るだろうなあ」「すぐに降ります、と言われたら、私はどうすれば良いのかな・・・」などなど。そんなすべての思いを吹っ切って、「どうぞ」と席を譲るのです。みなさまは、いかがですか?

 この日、私はご主人にこの話をしてみました。
すると、「なるほどねえ・・・そんな思いもあるんだねえ・・・僕は今日、立ってくれた女性の気持ちには思い至らなかったなあ ただただショックでね、ハッハッハ」という反応でした。
 お親しい間柄だったので「どんなに素敵に年を重ねていても、ハツラツとして若々しく見えても、カッコイイおじいさん、おばあさんであっても、やっぱり『席を譲ってくれた人よりも年長者である』ことは事実でしょう?それにね、席を譲られた理由は、何もヨボヨボしていると思われたからでも、とんでもない年寄りだあ、なんて思われたわけでもないですよ、きっと。感じの良いステキなおじさま、おばさまだったらよけいに、私は進んでお席を譲りますよ~」とも話しました。

 相手のことを考える・・・よく言われることです。それがいかなるシチュエーションでも、平常心で相手の立場を考えることは難しいですね。
 でも、相手の行為や言動に思いを寄せたとたん、自分の心がとても「優しく、穏やかになれること」に気づくことは、非常に意味のあることだとも思います。

 たとえば・・・
小さいながらも荷物を持ち、乗り込んでこられた高齢者に「どうぞ!おかけになりませんか?」と席を譲る・・・
「まあ、ご親切にありがとうございます。でもね、私、次で降りますから。ありがとう!」と辞退する・・・
お互い笑顔で、元の席につく人、ポールを握る人。そして、次の駅に到着すると、双方会釈をして別れる・・・そこには、あたたかい空気が生まれ、きっと譲ったほうも、譲られたほうも、気持ちの良い時間、会話になったことでしょう
 
 相手のことを考えるという本当の意味、目的は、もしかしたら、自分自身が「優しい心になること」「穏やかな思いになること」なのかもしれないな、と感じています。


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たくさんの言葉をあやつれるようになること

2012年10月28日 | う゛う゛ー
「たくさんの言葉」などと書くと、きっと英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語・・・というふうに、まずは外国語のことを思い浮かべられることでしょう。
 いいえ、違うのです
私今日、お話をしたいのは、私達が普段使っている母国語である「日本語」です。その当たり前に使っている・・・話せて当然、と思っている日本語・・・その日本語で「たくさんの言葉」をあやつれるようにならないといけないですね、というお話、なのですよ

 じつは、こんなお話があります。
入社2年目のA君。やる気もあり、真面目で、とても好感の持てる青年です そのA君、普段はなかなかお目にかかれない、会社の役員との会食の機会に恵まれました。A君も、A君の直属の上司も、大変喜び
 A君は、滅多にない機会を良い時間にしたい と強く望み、A君の上司は、将来を嘱望される立派な部下をアピールする良いチャンスだと嬉しく思っていました。

 いよいよ会食の日。いつも以上に装いにも気を配り、準備万端。
緊張しながらも、和やかな雰囲気の中で食事は進み、デザートの時間になって、ゆっくりと役員とA君が直接、話す機会がやってきました。
 その役員は、外国語も堪能で、育ちもよく、しっかりとした教育を受けてこられた、ということを聞いているA君。言葉遣いにも気を付けよう、ときっと思っていたでしょうね。

 「A君はとてもがんばっているそうだねえ。どう、仕事は?」
 「はい、学ぶことばかりです。」
 「そうだね、1年、2年は、いろいろと大変だよねえ。社会人となれば、学生の頃と違い、業務以外のことでもたくさん学ぶことはあるからねえ。ところで、A君は大学では何を専攻していたのかな?」
 「はい、一応、経済学を勉強していました。」
 「?そう、一応、経済学をね・・・」

 急に不穏な空気になり、役員の最後の言葉を境に、会話が弾まなくなったことに、残念ながら緊張の中のA君は気づきませんでした

 私は、A君の言葉の意味が理解できる気がします。
彼は、本当はきっとこう言いたかったのだと思います。
 「はい、経済学を勉強しました。しなしながら、しっかりと勉強できたか、となると、大変恥ずかしいことですが、何とも疑問です。」というふうに。
 A君が敢えて付け足した「一応」には、そんな意味があったのだと思いました。

 けれど、役員の耳には、この「一応」は甚だ耳障りな言葉で、本来の「一応」の意味である、「とりあえず、ひととおり」と受け取られ、A君の学びへの姿勢の不誠実さ、不真面目さとして、感じてしまわれたのでしょう。

 世間では、「話しの上手い人」「口下手な人」という言い方があります。確かに、私などは「話しの上手い人」と分類されるでしょう。
 しかし、話しが上手いと言われる人でも、その会話の中に心のこもらないものを感じさせたとしたら?単に話しが上手なだけで、そこに何か深みのなさを感じてしまわれるような言葉であれば、たとえ話しが上手でも、人としては上等とは言えませんね
 また、口下手な人と言われる人で、会話が流れるようにはいかなくても、そこに人間味があり、あたたかさがあれば、その人の人柄は評価され、愛される人となるに違いありません

 A君と役員の会話。
緊張や、何や、いろいろな要素はありますが、やっぱり、話の上手下手ではなく、A君にもっとたくさんのボキャブラリーがあれば・・・

 今では頻繁に使われ、多種な意味を含む「一応」ではありますが、役員の年齢や、対役員との会話、というシチュエーションで、A君が思わず口にしてしまったのは、やはり、日頃から使いこなす語彙に広がりと深さがなかったから、とも言えるでしょう

 国際化の進む中、外国語の習得は必須と思われていますし、実際にこの社会の中で、外国語を堪能に操れることは、社会人としては大きな武器になりますし、人としての豊かさになることは間違いありません
 でも、やっぱり、母国語である日本語の重要性を認識し、しっかりと習得していく中で語彙や表現力を磨いていくこと・・・これは、とてもとても大事なこと、です 母国語の幅が狭ければ、外国語の幅は、もっともっと狭くなる・・・

 A君が、やる気もあり、真面目で、とても好感の持てる立派な青年であるからこそ、残念ですよね
 きっと、A君のような若者が増えているはず、です。その責任の一端は、母国語の大切さを認識していない親にもあるのではないか、と常々感じている私です


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