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まどか先生の「ママ達のおやつ」

ママの笑顔は、我が子が幸せであるためのママ・マジック。ママが笑顔であるために、この「おやつ」が役立つことを願っています!

働くママ達に贈る、小学校受験準備案内

2014年04月03日 | にこにこ
  夕方の電車に乗ると、「これから保育園に我が子を迎えに行くママだな」と思う女性をたくさん見かけます
 装いは、「働く女性」そのものですが、なぜか「この時間」の彼女達は、朝の顔とは違うのです。出勤時と、何も装いは変わらないのに、全く違う「気」を感じさせる・・・まさに、それは「働く女性」から「母」にスイッチが切り替わったからこその空気なのだろうな、といつも思います

 私の母も「働く女性」でした。
中小企業の創業者である夫(私の父)の強力なサポーターであり、強靭なメンタルを持った、愛社精神に溢れる人でした。82歳になった今も、オフの日とは全く違うビジネスモードの装いで、午前中だけは事務所に顔を出し、午後は父の住む介護施設をたずねる・・・という規則正しい生活を好んでしています

 私が小学校低学年の頃のことだったと思います。
母は、学校から帰る私をあまり長い間一人で待たせたくない、という思いから、毎日、終業時間よりも少し早目に仕事を切りあげ、事務所を出るという生活をしていました。
 当時、父の会社は工業団地の中ではなく、まだ町中の公立中学の裏手にありました。車を運転しない母は、会社を出るとバス停まで歩き、30分ほどで帰ってきます
 
 母はいつものように仕事を切り上げ、父に声をかけて事務所を出ます。母が去ってほんの2,3分後、母への急な用を思い出した父は、事務所のドアを開け、母に声をかけようとした時・・・すでに母は中学校の塀の横を、かなり先まで小走りで歩いていたそうです。大きな声で呼べば、きっと母は振り返っただろう、と父は思ったそうです。
 でも その時の母の後姿は、父が声をかけられない何かがあった、というのです。
 母の後姿は、すでに「仕事をしている母」ではなく、一人で留守番をしている娘のもとに急ぐ「母の背中」になっていた・・・父は、その母の後姿が忘れられない・・・と。
 これは数年後、多感な時期を迎えた私が、仕事が忙しく、どうしても私のことを優先できなかった母をなじった時、父が涙を流して私に語った母の姿でした
 子どもの立場でしか物事を見られなかった15,6歳の当時の私には、まだまだこの「母の後姿」の意味、その「母の愛」を実感はできませんでした。
 
 この話を、深い愛情を持って、懐かしく思い出すようになったのは、私自身が「母親」となり、自分の仕事を持つようになってからのことです。

 私自身は見たことのないこの光景です。それなのに、なぜか小走りで、夕暮れの下町をバス停に向かう母の後姿を、私は鮮明に思い描くことができるのですよね・・・

 ここ数年で、お仕事を持つお母様達からのお問い合わせが急速に増えてきました。実際に、今ではクラスに通ってきてくださるご家庭の半数以上が、ワーキングマザーのご家庭になりました。
 地方では、まだまだキャリアを持って働く女性はそれほど多くはないのかもしれませんが、首都圏での母親の就業率は、きっと地方よりもはるかに高いでしょう。
 そんな時代になっても、まだまだ私立小学校の世界では、「母親が仕事を持っている家庭」にとっては、なかなか見えなくことが多く、正しい情報を得ることは難しいのが現状です
 だから、私がいただくお問い合わせの中には必ず「私は仕事を持っているのですが、受験はできるのでしょうか?」という一文が入っています。
 私は、この一文を読むたびに、是非、一日も早く、正しい情報を伝えたいと思いました。

 我が子により良い教育環境を求め、小学校受験を考えた「スタートの時点」から、ネガティブな思いで思考を出発させないといけないという現実。それは、何と悲しいことでしょう
 確かに、不適切な表現をお許しいただくならば、やはりお仕事を持っているママであるが故に、多少、母親として、トンチンカンな感覚のある人がいるのは事実ですが(こういう方は極々稀ですし、きちんとお話をすれば、すぐに理解してくださいます)ほとんどの方は、ご自分のキャリアを活かしたお仕事と子育てに、一生懸命に取り組んでいらっしゃる健気なお母様達です

 今回、新しく作ったサイト「働くママ・ワーキングマザーの小学校受験」では、働くママ達が安心して受験準備に向かえるよう、正しいインフォメーション、疑問や不安を解消するためのいろいろなコンテンツを用意しました。
 どうぞ、必要時応じて活用してください そして、一人でも多く豊かな私立小学校での教育の理解者が増え、高い品格を備えたご家庭が増えていくことを、ひたすら願っています


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母娘クライシス、から感じたこと

2014年01月28日 | う゛う゛ー
 母娘クライシス、という言葉をご存知ですか?
まだ子どもが小学生くらいであれば、なかなか深刻な問題として考えることはないかもしれません。
 昨年末、NHKの番組、特報首都圏で「母娘クライシス」の問題が取り上げられ、今まで以上にこの言葉に関心を持つようになったお母様達が増えたことと思います。
 極々簡単に言ってしまうと「母と娘の関係が上手くいかず、かなり深刻で修復不可能な溝になること」をこう呼びます。
 「お母さんは・・・好きじゃないです」という程度の問題ではなく、娘が成長して大人になった時、肉親である母親と絶縁をしてしまう、というほどの深い問題、なんですね

 昔から、DVのような問題が発生しなければ、母と息子の関係は比較的良好です  中高生になった息子に「うぜー 」とか「くそばばー 」と蔑まれた時、悲しいという感情は持っても、結構、母親は息子の暴言は受け止められ、いつまでも息子はかわいいと思う こういうことはよく耳にします。私の息子の中高時代、まわりには、このタイプのママ達が大勢いましたよ

 しかしその一方で、幼稚園児である娘との関係に悩む母親・・・は、決して少なくはありません。娘が真剣に「ママが嫌いだから、おばあちゃまのところで暮らしたい」と言う、とか、母親への嫌がらせとも受け取られる娘の悪行、愚行に振り回され、平常心を保てなくなった母親とか、こういうご相談は一年に数件はあります。
 とにかく、娘達がティーンエイジャーになってくると、幼児期には平穏だった家庭でも、どんどん母と娘の関係は難しくなり、深刻になっていきます(じつは、父と息子の関係も難しいものですが、ここでは敢えて触れません)

 母親は、娘がどんなに幼くても、同性であるがゆえに「こんな時、私なら〇〇するのに」とか「こんな場合には、私は絶対に△△しない 」と自分に重ね合わせ、心の中で娘の言動、行動を批判します。
 なぜか「批判や避難」なのですよねえ・・・不思議と愛情に満ちた「アドバイス」ではないのです。そして大抵の場合、母親は表情も硬く、気づけば「非難」や「忠告」「文句や愚痴の類」として、母の口から娘に発せられます 当然、娘はムッとして・・・母親を無視するか、暴言を吐くか、睨むか・・・

 息子の行動が理解不能であっても、「私は女だから、男の子のことは結局はわからなくて当然ね」と、あっさりギブアップをしたり、はたまた、涙を流して懇願したり・・・と、母親は息子相手には攻撃的にはならない場合が多いですねえ。
 でも、相手が娘の場合には、最後の最後まで重箱の隅をつつくようなバトルになってしまう・・・

 相手が誰であっても、こじれてしまった関係を修復することは、本当に難しいものです。
親子の関係の場合、本当の意味で「こじれた関係」というものは幼児期にまで遡り、すでにその時点でボタンの掛け違いをしていた、ということがほとんどです。そうなると、一朝一夕には、関係の改善はできません

 せっかくの機会です。
是非ぜひ、この話題を機に、一度ご自分のこととして考えてみてください
 話題としては「母娘クライシス」を提供しましたが、ここでは、相手が娘ではなく、息子の場合でも同じように考えてみましょう。
  あなたは「母親」「大人」「人生の先輩」「年長者」ということを振りかざし、息子や娘に多くを求めすぎていませんか?
  自分が若い頃に間違ったことは、我が子には間違わせたくない!という思いで忠告をし、自分が上手くこなしたことは、自分と同じ道、同じ方法を強いていませんか?
  無意識のうちに、自分のしえなかった夢を必死に我が子に託していたり、自分の過去の行いの自画自賛になっていたり・・・そんなことはないでしょうか?

 そして、知らず知らずのうちに、目の前の我が子の姿を落ち着いて真剣に見ることをせず、今自分に向かって話している子どもの声を聞くことなく、「母親」や「愛情」という錦の御旗をかざして、子どもに接していないでしょうか?

 子どもの心に寄り添うこと・・・美しい言葉、ですね
でも、決して簡単なことではありません。そして多くの親達は、「善」や「正」をシュプレヒコールのように繰り返し、子どもに覆いかぶさり、子どもを威嚇し、子どもに要求するのです。
 確かに、「善」や「正」は大切です。教えなければなりません けれど、果たして「母として善」「父として善」でしょうか?

 相手が幼児であっても、小学生であっても、真剣に子どもの言葉を聞こうとしているでしょうか?
 頭ごなしに、この子は未熟なんだからと、子どもが口を開くたび眉間に皺をよせ、耳のシャッターを下ろして、自分が「善」として話す体制になっていないでしょうか?

 子どもは、幼い頃からずっと、本当は両親、特に母親とは時間を共有し、同じものを見て、同じように美しいきれいだと共感しあい、優しい時間を過ごしたいと思っているのです
 それなのに、そんな子どもが発信しているサインをスルーして、「善」や「正」を諭すだけの鬼ババアになってしまうのは、とってもとっても悲しいです

 「私は善である」「母親は善であるべき」と勝手に自分を追い込み、そして自滅しそうになって子ども相手に怒鳴りまくる親・・・そんな親になるのは止めましょう。

 優しい心で我が子を見る目・・・せっかく2つも目があるのですもの。耳だって2つ。せめてその1個ずつは、目の前の子どもを見る目、子どもの言葉を聞く耳にしてみませんか?



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気づく、ということ

2013年11月24日 | にこにこ
 私達は頻繁に「感性」という言葉を使います。
世の中が豊かになり、物質的なものに満たされてきた今、「心」とか「気持ち」とか、そういう精神性があらためて重要視されるようになったからなのでしょう

 「感性」という言葉を国語辞典で引いてみると、「物事を心に深く感じ取る働き。」「外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。」と書かれてあります。後者のほうは凡人には理解が難しく、「???」の部分もありますが、それでも何となく「科学的に・・・とか、理屈とか論理とかではなく、直接、心に訴えるもの、響くこと」ということだと思います

 子育てをしていく上でも「子どもの感性を磨く」とか「感性豊かな子どもに」というふうに、よく語られますね。
まさに、受験時の願書の志望理由等の中でも、この「感性」という言葉は比較的、よく使われる言葉だと思います。
 
 ・・・と、久しぶりのブログの更新だあ、と少々意気込んでパソコンの前に座ると、いきなり何かのレポートを書いているような硬い文章を書いてしまいましたが
 本当はね、私はまさに今 その「感性」にブワ~ンとくる時間を経験し、思わず、是非ぜひ伝えたい!という気分でキーボードを打ち始めました

 引越しをして半年。新しい家で初めての秋、冬を迎えます。
27年間も住んでいた家では、季節のうつろいを敏感に感じ、楽しんではいたものの、それはひとつの大きなローテーションでした。その時々で、小さな発見や驚きはあったものの、ほとんどのことは想定内。
 けれど、ここの家では、すべてのことが「初めて」で、いろいろと気づくこと、驚かされること、がたくさんあります

 いきなり「お手洗い」の話題で恐縮ですが・・・マンション暮らしでは、必ずしもお手洗いは外に面しているとは限らず、横浜の以前の我が家では、お手洗いは窓のない「小さな密室」でした。
 いろいろと小物を飾るのが好きな私は、一日に何度も使うお手洗いを大事に思い、季節によって飾るものを替え、陽は当たらないものの、小さなグリーンや花を飾り、癒しの空間にしていました 私にとって、お手洗いとは、そういうもの、でした。パチンと電気のスイッチを入れ、ドアを開けて入る・・・ドアを閉めて、パチンとスイッチを切る・・・
 ですから、この家に来ても、同じようにお手洗いを飾り、毎日、パチンと電気のスイッチを入れ、ドアを開けて入り、ドアを閉めてスイッチを切る・・・そう、習慣、ですね。

 ところが。
今も同じようにお手洗いに入ろうとしたのですが、考え事をしていたために、電気のスイッチを入れるのを忘れてドアを開けてしまったところ・・・まるで、初めての空間に入ったような気分に襲われました 今までは、電気をつけ忘れてドアを開けると、そこは「真っ暗な空間」でした。そして、慌てて電気をつける!
 けれど、今日、私が入った「小さな空間」は真っ暗ではなく、電気が点いていなくても、ぼわっと暖かい明るさに満たされた空間でした。色で表現するとすれば・・・薄いオレンジ色の空間、でしょうか ヒヤッとしているのに、そこにあるものが、きちんと明るさの中にある。
 今までの半年間はいつもの習慣で、昼でも夜でも、必ず電気を点けて入っていた時には、全く見たことのない光景であり、感じられない空気でした。
 
 都心の狭小住宅ですから、当然、庭などというものはありません すぐお隣には同じような家が建っていて、2階のお手洗いの窓の外も、じつはお隣の家の外壁です。
 ところが、季節が初冬となり、太陽の軌道が低くなったことで、今までより陽の光がたくさん入ってくるようになったのだと思います。つい半月ほど前その事に気づき、私は慌てて家の中の貴重な「大きな窓」であるキッチンの窓に、大好きなサンキャッチーを吊るしました。すると案の定、午前中は太陽の光を受けて、キッチンの白い壁にはたくさんの小さな光の粒、プリズムでいっぱいになります
 横浜の家のリビングでは、毎朝、サンキャッチャーの光を受け、リビングの天井も、四方の壁も床も、全体が光の小さな粒、プリズムで満たされました。特に初冬から春にかけては、午前中の長い時間、光の粒がリビングの一部、でした
 もちろん、それに比べると、今、キッチンの窓でサンキャチャーが集められる光は5分の1、10分の1です。けれど、小さなクリスタルのカットボールが太陽の光を受けて、まるで魔法のように、小さな光の粒つぶを放っている・・・美しいことに違いはありません

 とってもつまらないことです
なーんだ、お手洗いが明るかった、っていうだけでしょう?そりゃあ、マンションの間取りの都合で密室だったお手洗いとは違い、今は窓があるんだから、電気点けなくたって、それなりに明るいは当たり前じゃないですか
 その通りです。それだけのこと、です。

 でもね、何かに気づき、驚き、スゴイ ステキ と感じること・・・すごく大事だと思いませんか?大人が、そういう生活を過ごしていると、きっとそばにいる子どもも、同じように日常の小さなことに『気づき、驚き、スゴイ ステキ 』と感じていくようになる、と思うのです

 まずは「気づく」こと。あっ!おっ!と思えること 私は、それが「感性」だと思います。
 

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「赤」への思い

2013年09月15日 | にこにこ
 「先生、そろそろ赤色のお洋服、お召になっています?」9月に入ると、卒業生のお母様からのメールには、よくこのフレーズがあります 神奈川県下の私立小学校の出願が始まる9月、私はタンスの引き出しやクローゼットを開け、さあ、今年は「赤色の服は十分にあるかなあ?」と考えます。

 「赤」は、私の勝負の色であり、同時に縁起の良い色なんですね
お預かりしている教室のお子様達、ご両親達の最上の幸せをひたすら祈り、私は毎年、8月の終わりから12月中旬までの約4ヶ月を送ります。その4ヶ月間、10年ほど前までは、何かしら「赤」を身につけて過ごしました どうしても赤のお洋服が無理な時は、赤いハンカチ、赤いバッグを持つように・・・

 でも、この10年、幸いなことに「ネイルアート」が一般的になり、私はとても救われました 50歳を過ぎ、四捨五入をすれば60歳になる今の年齢になると、さすがに毎日のように「赤」のお洋服を着たとしたらチンドン屋 ご近所の方に「むー、何かお心に闇でもおありかしら?」と思われかねません
 ここ数年は、9月中はネイルアートで赤を、10月に入ってから、本格的に「赤」を意識するようになりました

 先週の日曜日の早朝、2020年のオリンピックの開催地が東京に決まりました。
株価やマスメディアを始め、あちこちが活気づきました。すべてがあの日以来、すっかり勢いを持つようになったように思います 素晴らしいですよねえ・・・
 そして先週からはユーチューブでも、1964年の東京オリンピックの様々な映像が見られるようになりました。
そんな中で、私はふっと、いったいいつから私にとって赤色が縁起の良い色、勝負の色になったのかな?と考えたのです・・・

 そうなんです それは、思えば「東京オリンピック」のときから、なんですよねえ・・・
当時、私は6歳。小学校1年生でした。まだまだヒヨっ子の、幼なさの殻をつけた頃でしたが、私の父は「社会派」で、ニュースや新聞等、頻繁に世界の情勢について私にわかる言葉で話してくれる人でしたので、東京オリンピックが開催されるにあたっては、当時はまだまだ高価だった「全ページカラー、カラー写真掲載」のオリンピックのガイドブックを買い与えてくれていました チャスラフスカ、チェコスロバキア、アベベ、エチオピア、ヘーシンク、オランダ、USA、USSR・・・今では姿を消した国名もありますが、本が破れるほどそのガイドブックを持ち歩き、人の名前、国名、国旗などを覚えました

 その東京オリンピックの日本選手団が開会式で着たユニフォームが「朱色のブレザーに白いボトム」でした。入場式、開催国である日本は、一番最後の入場行進でした。私は、「さあ、いよいよ日本の大選手団が入場してまいります」というNHKのアナウンサーの声とともに選手団がスタジアムに姿を現した時の感激を、今でも忘れることができません

 一人っ子の私は、よく部屋でひとり遊びをしたのですが、東京オリンピック開催の期間、私はこっそりと「お出かけ用のよそ行きの服」として買ってもらった金ボタンがついた朱色のブレザーと、白いウールのプリーツスカートを着て、母の三面鏡を広げ、一人で畳の部屋をぐるぐると行進しました 鏡の前を歩くときには、右手を斜め上にあげて敬礼を忘れません。
 
 赤いブレザー、入場行進、東京オリンピック・・・たった6歳、小学校1年生の私でしたが、「それは、私の国の夜明け」のように感じていましたし、「これが、発展していく日本の象徴の色」とも思っていました。あの時、大選手団が着たジャネットの「赤」は私にとって「強くて、とても勢いのある色」として心に刻まれ、50年近くの年月が流れた今も、何ら変わりなく縁起の良い色、として感じています

 2020年の東京オリンピック。今年、これから考査を迎えようとしている私のかわいい子ども達は、中学1年生になります。私は?と言えば62歳です。
 夜明けの色、発展の色。私は今年も「赤」の縁起の良い装いで、子ども達をサポートします


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子どもの躾、子どもの社会性

2013年08月03日 | う゛う゛ー
 子どもの躾、子どもの社会性・・・長い間、ブログの更新を怠り、久々のテーマがこの重さ ただ、最近、よくこのテーマについて考えさせらる出来事が多いのです。

 私は職業柄、どんな時でも、どんなところでも、子どもがいるとそこに目がいき、行動や言動が気になります 時にはあやし、時には話しかけ、子どもを見ていると飽きません。
 けれど、5回に2回程度は、その子ども達の親に秘かに腹を立て、そんな親の元に生まれ、育てられている子どもの将来の社会性を憂います・・・ まあ実際には、そんなことは大きなお世話なんですけれどねえ

 先だって、恒例の介護帰省をした折、母と一緒に中国料理のレストランに行きました そこのシェフは、大阪の地方局のテレビ番組によく登場するらしく、かねがね母は行ってみたいと思っていたそうです。
 ホテルのレストランらしく調度品は重厚で、サービス、お店の方の対応、お味、すべてにおいて「さすが」でしたが、お値段も「なるほど」というものでした、ははは

 案内されたお席は、親子3人のお隣のテーブルでした。
じつは私は、お食事の時にはなるべく子ども連れのテーブルの近くには座りたくない、と考えています というのは、子どもの様子、親の対応等が気にかかり、その家族によっては時には食べた気がしない、ゆったりとした気分で食事ができないからなんです
 その子がお利口さんであればあったで、「偉いなあ ご両親の躾が行き届いているなあ」と感心し、親子の様子から目が離せなくなってしまいますし、その子が社会性のない野生児であれば、今度はどうしてしっかりと親は世話をしないのだろう?なんで叱らないのだろう」と食べた気がしない・・・
 その日も、正直、アジャ~と思いました。私一人の食事のような時には、コソコソっとお店の方にお話をし、席を替えてもらったりするのですが、母が一緒となると、またいろいろと説明をするのも大変なので・・・と、そのまま席につきました。

 その女の子・・・4歳くらいでしょう。とっても愛嬌のあるニコニコ笑顔のお嬢さんでね 表情は豊かで、仕草もとっても子供らしくてかわいいのです
 けれど・・・落ち着いて座っていない 食事をしているはずなのに、完全に席から降り、テーブルのまわりで遊んでいる状態。そして、時々、お母さんに呼ばれると、口だけ開けてお母さんの横に立ち、その状態で食べ物を口に入れてもらう かわいい子だっただけに、私はその飼育係と動物、という感じの様子が残念でなりませんでした

 長時間になれば、当然、子どもはその場にいることに飽きてきます。子どもの遊ぶ様子はどんどんエスカレートしていき、食事をしているお客様のまわりのテーブルにまで歩いていき、注意を引こうとおどけて見せたり、歌ったり、踊ったり・・・ホテルの方はハラハラとされている様子で、その子が各テーブルを離れると、その席のお客様に頭を下げて回る始末
 それでもいっこうにご両親は慌てる素振りもなく、子どもを連れ戻すこともなく、一生懸命にご自分達はビールを飲み、食事をされていて、時々子どもに手を振ったりするだけで、気になっていないようでした

 私自身も2人の子育て真っ最中のことを思い出せば、久しぶりの豪華なランチ、素敵なお店・・・となると、貪欲にもなります そのお気持ちも十分に理解できます

 でもね。やっぱり、それが外食の場であろうと、自宅であろうと、食事と遊びのメリハリはつけなければなりませんし、ましてやまわりに他のお客様がいる時には、その方達への配慮は不可欠です
 お箸の持ち方、食べ方、食事のマナー・・・すべて、毎日の食事の中で教えられて学ぶもの。そして、それが習慣となって身につき、その子の人となりの一部となっていきます。それが「躾」であり、その子の社会性として育っていくのです。

 そのお嬢さんは、本当にかわいい子だったのです もし、あの笑顔、歌や踊り、お調子者の振る舞いが公園で披露されていたとしたら、きっと私はあの子に声をかけ、ご両親に「とっても素敵なお嬢さんですねえ」と思わずお話をしたことでしょう

 あの子に罪はありません あの子は、真っ白な状態で生まれ、幼稚園や保育園、学校生活が始まるまでは、ほぼすべてのことを自分の家庭で、両親から学び、両親を真似て成長していくのですから。

 食事というものを、食事の時間を、そして、公の場での善悪やマナーを十分に教えられていな子どもはかわいそうです 楽しい食事の場が辛い時間になるほど、厳しくガミガミと言われ続ける子どもも哀れですが、社会性という面では、やはりガミガミ言われて、しっかりとしたマナーの身に付いた子どものほうが、将来はどんな場においても、恥ずかしい思いをすることなく、幸せになることでしょう

 子どもは親によって育っていきます。どこに出しても恥ずかしくない立派な子どもに育てるためには、偏差値的教育を受ける前の段階では、外注型の各種お稽古や知育雑誌の定期購入よりも、まずは家庭教育を考えること・・・私は本当に大切だと思っています
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