戦後70年の今年、例年の夏以上に、メディアでは戦争のことが扱われているように思います。
この状況は決して日本国内だけではなく、世界で「終戦後70年」が大きく取り上げられるのは、太平洋戦争終結、という意味だけではなく、第二次世界大戦として考えれば、確かに今年は多くの国々にとって「終戦後70年」であるからです
私は、家族とともに「終戦後50年」の節目の8月を、インドネシアのジャカルタで迎えました。
当時主人は単身赴任中。10歳の息子、7歳の娘は、ジャカルタの熱い熱い空気の中で、「独立50周年」を迎えた大祝賀ムードを、肌で感じました
「Hari Merdeka(独立の日)」の8月17日(日本が無条件降伏をした2日後、です)の意味を、夫と二人で、小学生の我が子達に、順を追って話したことを今でもよく覚えています。
「そうだったんだね・・・だから、あの田舎で会ったおじいちゃんは、僕達に『君が代』を歌ってくれたんだね・・・」
「だから、旧市街のジャカルタには、オランダみたいな建物があったんだあ・・・」
夫の駐在3年間の間に、子ども達がインドネシアを訪れ、そこで見たもの、聞いたことの諸々が、この日の話によって、彼らの頭の中でつながっていき・・・そして、いろんなことを感じ、考える機会になったなあ、としみじみと感じました。
先日、NHKの調査で、広島と長崎に原爆が投下された日を知らないという日本人が7割にのぼる、ということを知りました。中でも、広島、長崎というその地でも、その日がわからないと答えた人が3割いた、ということは驚きでした。
私は、比較的幼い頃から、両親の影響で、こういう歴史や社会的な動きに関しては深く興味を持つタイプだったと思います。
昭和33年生まれの私達は、まだかろうじて、「親や祖父母の戦争体験」を聞くことがありました。思えば、私はまだ、戦後わずか10数年で生まれたのですからねえ・・・
政治的にはどうであれ、戦争には勝者も敗者もない・・・と私は感じています 我が子を持つことになり、あらためてそれを実感するようになりました。
18歳で初めてアメリカに短期留学をした時、「戦争の話題は避けるように」とアドバイスを受けました。たぶん、それはつたない語学力では、自分の考えや思いを十分に伝えることは不可能、という理由からのアドバイスだったのでしょう。
でも、ホストファミリーのお父さんが、海軍の退役軍人であったことで、退役軍人家庭のピクニックにも頻繁に参加し、結果的にいろいろと戦争の話題にもなりました。
そんな時「命の尊さ」という観点からは、戦勝国も敗戦国も関係はないと思う・・・と、その日に話したこと、話してもらったことを思い出し、いつまでもベッドの中で天井を見つめ、感じていましたねえ・・・若い日の、ピュアな感覚です・・・
現在は、美しい青い海が観光財源となっている太平洋上の島々には、激戦地が少なくありません。二本軍玉砕と言われる島々でも、実際には、敵軍にも夥しい戦死者がいたのです。
今のお母様達の多くは、子ども達に「美しいもの」「楽しいもの」「ハッピーなもの」はたくさん教え、経験させますが、「みにくいもの」「怖ろしいもの」「目をそむけたくなるもの」は見せず、教えず、「辛いこと」はなるべく回避させようとする傾向にあると思います人 その理由は、それは自分達も楽しくないから・・・のようです
この間「今この瞬間も、食べるものがなく、死んでいく子ども達が世界中にはいるのよ」と教室の子ども達に話すと、「なんで食べるものがないの?お店屋さんだって、いっぱいあるじゃん」と、とても不思議な思いを持った表情で言われました。まさに、その通りですね。私は、その子の瞬時の反応をとても新鮮に感じ、「教えないこと、伝えないことの罪」を強く感じたのでした。
なぜなら、その時の子ども達が、一生懸命に、自分達の知らない話を聞こうと前のめりになっていることが伝わってきたから、です。
子どもに伝えるべくことはたくさんあります 伝わる言葉を探し、子ども達が理解できるように伝える義務が大人にはあるのです そして、あらためて大人の私達も、真実を学び、感じ、考える必要があるのではないでしょうか
この状況は決して日本国内だけではなく、世界で「終戦後70年」が大きく取り上げられるのは、太平洋戦争終結、という意味だけではなく、第二次世界大戦として考えれば、確かに今年は多くの国々にとって「終戦後70年」であるからです
私は、家族とともに「終戦後50年」の節目の8月を、インドネシアのジャカルタで迎えました。
当時主人は単身赴任中。10歳の息子、7歳の娘は、ジャカルタの熱い熱い空気の中で、「独立50周年」を迎えた大祝賀ムードを、肌で感じました
「Hari Merdeka(独立の日)」の8月17日(日本が無条件降伏をした2日後、です)の意味を、夫と二人で、小学生の我が子達に、順を追って話したことを今でもよく覚えています。
「そうだったんだね・・・だから、あの田舎で会ったおじいちゃんは、僕達に『君が代』を歌ってくれたんだね・・・」
「だから、旧市街のジャカルタには、オランダみたいな建物があったんだあ・・・」
夫の駐在3年間の間に、子ども達がインドネシアを訪れ、そこで見たもの、聞いたことの諸々が、この日の話によって、彼らの頭の中でつながっていき・・・そして、いろんなことを感じ、考える機会になったなあ、としみじみと感じました。
先日、NHKの調査で、広島と長崎に原爆が投下された日を知らないという日本人が7割にのぼる、ということを知りました。中でも、広島、長崎というその地でも、その日がわからないと答えた人が3割いた、ということは驚きでした。
私は、比較的幼い頃から、両親の影響で、こういう歴史や社会的な動きに関しては深く興味を持つタイプだったと思います。
昭和33年生まれの私達は、まだかろうじて、「親や祖父母の戦争体験」を聞くことがありました。思えば、私はまだ、戦後わずか10数年で生まれたのですからねえ・・・
政治的にはどうであれ、戦争には勝者も敗者もない・・・と私は感じています 我が子を持つことになり、あらためてそれを実感するようになりました。
18歳で初めてアメリカに短期留学をした時、「戦争の話題は避けるように」とアドバイスを受けました。たぶん、それはつたない語学力では、自分の考えや思いを十分に伝えることは不可能、という理由からのアドバイスだったのでしょう。
でも、ホストファミリーのお父さんが、海軍の退役軍人であったことで、退役軍人家庭のピクニックにも頻繁に参加し、結果的にいろいろと戦争の話題にもなりました。
そんな時「命の尊さ」という観点からは、戦勝国も敗戦国も関係はないと思う・・・と、その日に話したこと、話してもらったことを思い出し、いつまでもベッドの中で天井を見つめ、感じていましたねえ・・・若い日の、ピュアな感覚です・・・
現在は、美しい青い海が観光財源となっている太平洋上の島々には、激戦地が少なくありません。二本軍玉砕と言われる島々でも、実際には、敵軍にも夥しい戦死者がいたのです。
今のお母様達の多くは、子ども達に「美しいもの」「楽しいもの」「ハッピーなもの」はたくさん教え、経験させますが、「みにくいもの」「怖ろしいもの」「目をそむけたくなるもの」は見せず、教えず、「辛いこと」はなるべく回避させようとする傾向にあると思います人 その理由は、それは自分達も楽しくないから・・・のようです
この間「今この瞬間も、食べるものがなく、死んでいく子ども達が世界中にはいるのよ」と教室の子ども達に話すと、「なんで食べるものがないの?お店屋さんだって、いっぱいあるじゃん」と、とても不思議な思いを持った表情で言われました。まさに、その通りですね。私は、その子の瞬時の反応をとても新鮮に感じ、「教えないこと、伝えないことの罪」を強く感じたのでした。
なぜなら、その時の子ども達が、一生懸命に、自分達の知らない話を聞こうと前のめりになっていることが伝わってきたから、です。
子どもに伝えるべくことはたくさんあります 伝わる言葉を探し、子ども達が理解できるように伝える義務が大人にはあるのです そして、あらためて大人の私達も、真実を学び、感じ、考える必要があるのではないでしょうか