to haveではなく to be
有名な陶芸家が有名になるのを避けるために、秘かに活動する。
sanitationというアメリカ渡りの思想が日本の文化を殺してしまった
死を意識することによって、生きることが研ぎ澄まされる
高見順「死の淵より」
電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきといきづいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた風景が
急に新鮮に見えてきた
想像力こそ人間性恢復の鍵
見える現実と見えない現実
自分のことしか見えない人間にとっては、
世界で起こっていることには興味がなくても生きていける
なぜ大国はより大きな力を持ちたいと思うのか。
なぜ軍備を拡張し続けるのか。
北朝鮮は何のためにミサイルを発射するのか?
なぜ中国は領土を拡大したがるのか。
戦争は儲かるから?
ホンモノの暮らし
さんま
イチゴ
ハンバーガー
米
梅干し
豆腐
蕎麦
清里のペンション
日本古来の文化は破壊されてしまった。西洋文化が隅々まで行き渡ってしまった。
生活の場とは平凡でがっしりしたもの
食料の大半を輸入に頼る異常さ
ホンモノとは規準のこと
食は一民族文化の基本
躾 西洋では躾が厳しい。
心の世界を蔑ろにする社会風潮
かつて日本では、年を取って働けなくなっても孫の世話をするとか、
地域の寄り合いに出て意見を述べるとか、ことに応じて助言を求められるとか、
その年齢に応じた尊敬を受け、社会の中で自己の生存理由を持って生きることができた。
が、今の極端な実利尊重、一切の無駄を排する効率化の進行、余裕のなさ、目に見えぬ価値の無視、
若者中心の社会にあっては、老人のそういう知恵が尊重されれうべくもない。
そして老人ばかりではない。現代の、この物が人間の身丈を超えて巨大化した社会にあっては、
その中にあって多忙に働いている現役も、そこからはじき出された者も、みな空虚をうちに抱え、紙一重のところで
虚無に直面する危機にさらされているのだと思う。自殺はその空虚の噴出である。
「生きていてもつまらない」
その背景に見えてくるのは、心の世界に無関心になった文明社会のありようである。
巨大ビルの林立、コンピューター社会、生産の極度の効率化、社会全体の機能化、
人間能力の数値化、等等の中で、人の心の領域はいよいよ貧寒になりつつあるのではないか。
人と人の真のつながりは薄くなりつつあるのではないか。
ものが豊富になればなるほど、人はモノの獲得に追われ、商品の奴隷となり、
その中で人と人との心の交流は乏しくなっていっているのではないか。
最近の子どもは人間よりも機械に親しみ、人と人との交わりを知らないで育ち、仲間と飲み歩くよりも
自室でビデオを見る方を好む若者が増えている。現代の毒をもろに受けて成長したのだろう。命に対する感覚が
果たしてそういう育ち方からつくられるものだろうか。
子どもの自殺
死の見えない社会は同時に生の本当の姿も見えない社会である。
必ずしも自殺を絶対悪とは見なしていない。
ある文学者が
「僕は必ずしも自殺をいかんとは思わんな。やれるだけのことをやって、もう仕事が出来なくなったら、
僕だって自殺するかもわからない。」
生きていることを実感する生き方とは
冒険をする。
高度成長によっていわゆる豊かになった日本。
しかし、本当に豊かになったのか?
この豊かさにはひどく非人間的なもの—-ものがものとして
勝手に自己肥大化して人間を支配しているようなところ—-
があるような気がしてならない。
日本の豊かさは東南アジアの犠牲の上に成り立っている。
日本さえ豊かであればいいのか?南半球は平和運動なんかやる余裕はない。
日々の暮らしで精一杯。
武田泰淳「風媒花」
「僕が生きている限り、僕はある種の殺人犯の片割れのような気がする」
古いヨーロッパのことば
「われは人間ならば、すべて人間なるもの、我と無縁ならず」
有名な陶芸家が有名になるのを避けるために、秘かに活動する。
sanitationというアメリカ渡りの思想が日本の文化を殺してしまった
死を意識することによって、生きることが研ぎ澄まされる
高見順「死の淵より」
電車の窓の外は
光にみち
喜びにみち
いきいきといきづいている
この世ともうお別れかと思うと
見なれた風景が
急に新鮮に見えてきた
想像力こそ人間性恢復の鍵
見える現実と見えない現実
自分のことしか見えない人間にとっては、
世界で起こっていることには興味がなくても生きていける
なぜ大国はより大きな力を持ちたいと思うのか。
なぜ軍備を拡張し続けるのか。
北朝鮮は何のためにミサイルを発射するのか?
なぜ中国は領土を拡大したがるのか。
戦争は儲かるから?
ホンモノの暮らし
さんま
イチゴ
ハンバーガー
米
梅干し
豆腐
蕎麦
清里のペンション
日本古来の文化は破壊されてしまった。西洋文化が隅々まで行き渡ってしまった。
生活の場とは平凡でがっしりしたもの
食料の大半を輸入に頼る異常さ
ホンモノとは規準のこと
食は一民族文化の基本
躾 西洋では躾が厳しい。
心の世界を蔑ろにする社会風潮
かつて日本では、年を取って働けなくなっても孫の世話をするとか、
地域の寄り合いに出て意見を述べるとか、ことに応じて助言を求められるとか、
その年齢に応じた尊敬を受け、社会の中で自己の生存理由を持って生きることができた。
が、今の極端な実利尊重、一切の無駄を排する効率化の進行、余裕のなさ、目に見えぬ価値の無視、
若者中心の社会にあっては、老人のそういう知恵が尊重されれうべくもない。
そして老人ばかりではない。現代の、この物が人間の身丈を超えて巨大化した社会にあっては、
その中にあって多忙に働いている現役も、そこからはじき出された者も、みな空虚をうちに抱え、紙一重のところで
虚無に直面する危機にさらされているのだと思う。自殺はその空虚の噴出である。
「生きていてもつまらない」
その背景に見えてくるのは、心の世界に無関心になった文明社会のありようである。
巨大ビルの林立、コンピューター社会、生産の極度の効率化、社会全体の機能化、
人間能力の数値化、等等の中で、人の心の領域はいよいよ貧寒になりつつあるのではないか。
人と人の真のつながりは薄くなりつつあるのではないか。
ものが豊富になればなるほど、人はモノの獲得に追われ、商品の奴隷となり、
その中で人と人との心の交流は乏しくなっていっているのではないか。
最近の子どもは人間よりも機械に親しみ、人と人との交わりを知らないで育ち、仲間と飲み歩くよりも
自室でビデオを見る方を好む若者が増えている。現代の毒をもろに受けて成長したのだろう。命に対する感覚が
果たしてそういう育ち方からつくられるものだろうか。
子どもの自殺
死の見えない社会は同時に生の本当の姿も見えない社会である。
必ずしも自殺を絶対悪とは見なしていない。
ある文学者が
「僕は必ずしも自殺をいかんとは思わんな。やれるだけのことをやって、もう仕事が出来なくなったら、
僕だって自殺するかもわからない。」
生きていることを実感する生き方とは
冒険をする。
高度成長によっていわゆる豊かになった日本。
しかし、本当に豊かになったのか?
この豊かさにはひどく非人間的なもの—-ものがものとして
勝手に自己肥大化して人間を支配しているようなところ—-
があるような気がしてならない。
日本の豊かさは東南アジアの犠牲の上に成り立っている。
日本さえ豊かであればいいのか?南半球は平和運動なんかやる余裕はない。
日々の暮らしで精一杯。
武田泰淳「風媒花」
「僕が生きている限り、僕はある種の殺人犯の片割れのような気がする」
古いヨーロッパのことば
「われは人間ならば、すべて人間なるもの、我と無縁ならず」
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